虚勢剣燕雀
捨てたのではない。
誠吾は抗弁したかった。だが何を言ったところで、今更兵馬は聞くまい。そう思って、結局言葉を飲んだ。
誠吾の父は、役目の上で懈怠を犯した。それを責められ、申し開きなく腹を切った。
そうした者の子が師範代では名折れであろうとは、久瀬川の道場を辞した理由として半分かそれ以下である。実際のところ、父の咎により家禄を削られた尾津家の、金銭の上のよんどころ無さこそが大きかった。
もし父の事さえなければ。
今も自分は久瀬川の道場に居て、剣を握れていただろう。ただ己の愛好に打ち込めていただろう。
だが現実は違う。
身を粉にして活計に励まねば、母と自分の口を糊することも出来ない。それが誠吾の境遇だった。
剣は捨てたのではない。捨てねばならなかったのだ。断じて逃げたのではなかった。夢のうちに居られなたら、どれほど幸福であったろうか。
恵まれた大身である兵馬に、この無念の何が分かるものか。
唇を噛みながら、誠吾は木戸を潜る。
「只今、戻りました」
「遅かったのですね」
軒先で声を上げると、母が出てきた。
「ちと、上役からお話を賜りまして。お役目の事ゆえ口外できませんが、大事ありません。ご心配めさるな」
「それなら、いいのですけれど」
母は誠吾について歩きながら、少し口ごもるようにする。
何か言いたい事がある折の癖だった。
「どうかなさいましたか」
「ええ、そのね」
促すと足を止めて逡巡し、やがて思い切って、
「住み込みの女中を雇い入れようかと思っています」
そう言った。
誠吾は白いものが増えた母の髪を見ながら思う。
父を失ってから、この人はめっきりと老いた。
今は家の事をしてくれてはいるが、一人働きはやはり辛かろう。それに自分には外があるが、母にはこの家しかない。昼間口をきく相手もいないのだ。
住み込みもなれば費えも増える。俸給を考えれば暮らしは厳しくなるだろう。だがそれで母が楽になるならばと、そう結論するまでに時間は要さなかった。
碌な親孝行も出来ぬ身の、せめてもである。
「母上の、よろしいように」
「それでは早速、先方に返答いたしておきましょう。数日のうちに来てくださるはずです」
母は安堵の顔で頷き、事の運びの性急さに誠吾は驚かされた。
どうも既に手配りは済んで、自分の了承を得るばかりであったらしい。判断を人に委ねがちな母には、珍しい早業だった。
しかし疑念を問い質すよりも早く、「膳を整えますね」と母は身を翻している。
「……」
誠吾はその背へ向け、黙って頭を下げた。
暗殺の密命は、先の邂逅で果し合いの約定へと変質を遂げている。無論ながら、それが己の死の確率を減じる事はない。最悪の場合、自分がその女中に見える事はないだろう。
母は、明日から二人暮らしになるやもしれないのだった。
秋が過ぎ、冬が忍び寄ろうとしている。
暮六つ時ともなれば既に夜闇が濃い。鎮守の森が落とす影の中であれば、それは一層である。
ねっとりと絡みつくような黒の中、誠吾と兵馬は対峙していた。
「堀兵馬。上意である」
熱の篭らぬ口調を、兵馬は灯篭に火を入れながら聞き流す。
「嘘を吐け。私意だろう」
断定して言った。
ゆらりと頼りない、だが確かな明かりが、動かない誠吾の表情を照らす。
「かもしれん。俺は決してお前が嫌いではない。だがお前の仕業を思うと、身の内に滾るものがある」
「阿呆が。欲しければ何故奪わなかった。貴様の強さがあれば誰も妨げられなかったろうよ」
兵馬は鼻で笑う。
彼の見るところ、誠吾と冬は互いに気があった。それが芽吹かずに終わったのは、所詮双方の弱さ故である。
「そして教えてやる。その滾りの名は恨みといい、妬みといい、怒りという。年来俺を焼き続けてきたものよ」
言い放ち、抜刀して鞘を投げた。
講談の剣豪であれば、「敗れたり!」と叫ぶ場面だったろうか。だが誠吾は動かない。ただ左手で己が刀の鞘を掴んだのみである。
「道場稽古ではいなしたが、どうだ。真剣でも同じ真似ができるか。俺の太刀、受けきれるか」
兵馬の佩刀は、その体躯に合わせ定寸よりも長い。それを肩に担ぐようにすれば、大岩が現れたが如き威圧があった。
そこから繰り出されるのは外連も何もない、真っ向大上段からの斬り下ろしである。
だがこの馬鹿正直な驕慢の剣を受けられたのは、かつての重兵衛と誠吾のみであった。
対する誠吾は未だ抜刀しない。
居合構えであるようだった。
長く剣を交えた間柄であるが、兵馬は誠吾のその構えを見るのは初めてだった。
竹刀で居合を使うはずもないのだから当然ではあるのだが、それにしても珍妙である。腰を落とさず、ただ鞘に手を添えるのみ。柄には指先すらもかけていない。
兵馬の剣気を柳に風と受け流す、飄々とした構えだった。虚勢であるとしても、本身を前に抜き合わせないその肝の太さは流石であろう。
「人の口に聞いたぞ」
だが、兵馬は知悉している。尾津誠吾は虚仮威しを弄する類の人間ではない。
で、あれば。
「それが、燕雀か」
それは誠吾が道場を辞す折、久瀬川重兵衛にのみ披露したという秘剣の名である。
あの構えから繰り出されるものこそが、そうであるはずであった。
「……」
誠吾からの答えはない。
構うものか、と兵馬は思う。
己の気息が整い、心気がただ一刀へ向けて凝縮していくのを感じた。今の己の太刀ならば、石の虎を両断してのけるであろう。
防ぎの刀ごと脳天を打ち砕かれる誠吾の姿を、確かに見たと兵馬は思った。
気が満ち、機は熟した。
じり、とつま先で間を詰める。
二人の間の夜が、火花を吹きそうに張り詰めた。
次の刹那、わずかに誠吾が動いた。感応して兵馬も動く。
無音の呼気と共に、振り下ろされるは驕慢なる剛剣。
ふわり、と。
当たれば鋼をも断つその初太刀を、誠吾は水面に浮く木の葉のように躱した。まるで太刀風に流されたような身の軽さだった。
抜き打ちが来る。
防ぎに回ろうと構え直すより一瞬早く、痛烈な打撃が来た。
斬られたのではない。
それは鳩尾への痛烈な打撃だった。
不測にして不意の一撃に、兵馬の息が止まり、その足がたたらを踏むように踊った。
秘剣、燕雀。
剣とは名ばかりの、それは体ごと突き当たるが如き柄打ちであった。
居合構えと見れば、人は抜き手をこそ注視する。納められたままの刀こそを警戒する。そこへつけ込む騙し技だった。
しかし卑怯卑劣と余人には謗れまい。
燕雀の本質は果敢な入り身にこそある。自らは抜かぬまま敵刃を捌いて懐に入り、そして打つ。冷静に精密にそれを行う心胆がなければ到底為らぬ技である。その有り様は勇猛というよりも、むしろ沙汰の限りとすべきだった。
「見栄の剣です」
誠吾は、これを師に披露した折の事を思い出す。
師範代の座を捨て、汲々として日々に生きる。そう決めた恥と意地とを凝らせた剣だった。
「竹光と悟られずに人を制する為の技です。抜かなければ、それとは知れません」
自虐すると師は、莞爾と笑った。
「人間、大なり小なり不満足を抱えて生きているものさ。手のひらですくって抱え込めるものなどちっぽけなものだ。だが皆、それを足がかりに己は幸福だと虚勢を張るのだ。そうして縋らねば浮世はなんとも生き難い」
そうして、ぽんと誠吾の肩を叩いた。
「だがそのうちに気が付く。存外、それが虚勢ではない事にな。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやと言う。だが燕雀の心を知る鴻鵠もまたおるまいよ。虚勢とて張り続ければいい。いずれ虚もまた実となろう」
だが誠吾が回想に耽ったのは、ほんのひと刹那の事である。
打ち込んだ燕雀、その打撃は余人であれば気を絶やしかねないものだった。
だが足りない。
兵馬を打ち倒すには足りていない。
鍛え抜かれて頑健なその体は、痛撃から素早くも回復しようとしている。
誠吾の目が、ちかりと瞬いた。
竹光を見せぬ為の剣だと師には告げた。
故に。
これより先の変化は誰も知らぬ。
柄頭を押し込む形で鍔を握っていた左拳を開いた。そのまま後方に滑らせ、中途で鞘を手にする。勢いを止めずにそのまま引いた。
鞘から刀を抜くのではなく、刀から鞘を抜き取る動きだった。
同時に、空いたままであった右手が中空の刀を掴んだ。
咄嗟の仕業では有り得ない、鮮やかにして完璧な抜き打ちの形がそこに現れた。
柄打ちは、敵手の動きを一瞬だけ制す為のもの。そこへ続くこの一連の抜刀動作、その精妙さと速度の研磨こそが、誠吾の秘剣の真の工夫だった。
入り身と柄打ちこそが燕雀であるならば、斬り上げに鞘走る一閃はさながら鴻鵠。その揺るがぬ翼が、兵馬の下顎を存分に撃った。
道理である。
絶える寸前の意識で兵馬は思う。
己が誠吾より強いかどうかを、長く測りかねていた。今にしてみれば、それは驕慢なる自負の根底を崩す思考である。ならば我が剣は、石虎は戦う前から敗れていたのだ。
後には不思議な満足だけがあった。
「燕雀の意地、確かに」
言って、後ろ向きに巨体が倒れた。
数秒の間それを見守り、完全に兵馬が気を失ったのを確認すると、そこで誠吾はようやく息を吐いた。
安堵からのゆるりとした動きで、佩刀を鞘に納める。
言うまでもない。幕介に見聞させた通り、それは竹光だった。
ただし誠吾の竹光は樫材を用いた、竹とは名ばかりの非常に硬質なものである。それで思い切り顎をぶん殴ったのだ。命に別状まではあるまいが、この先しばらくは物を食べるのに苦労する事だろう。
益体もない事を考えながら、誠吾は寄って兵馬の顔を覗いた。上意討ちであったれば、止めを刺すのが当然である。本来ならば兵馬に、この先などありはない。
だがしかし、灯篭の明かりに照らされたその顔は、まるで赤子の如くだった。
「──私意だからな」
呟いて、誠吾は踵を返した。
手当てを施す義理まではないと思っている。




