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驕慢剣石虎

 ある弓の達者が狩りに出たところ、草むらに身を伏せる虎を見た。咄嗟に矢を射かけると、それは矢尻が見えなくなるほど深く虎の体に突き刺さった。

 だが射られた虎は身動(みじろ)ぎひとつしない。

 不審に思って近寄れば、なんとそれは虎に似た形の岩であった。

 その後幾度か同じ岩を射たが、ついぞ矢が突き立つ事はなかったという。


 そういう話が、故事にある。

 己の剣はこれであると、堀兵馬は観じている。

 名づけて石虎(せっこ)

 これ即ち驕慢(きょうまん)の剣である。

 石を虎と信じ切ったように、相手を既に破ったものとして飲み込む。そうして撃つと、相手は不思議と防ぎも躱しもならず斬り伏せられてしまう。

 恵まれた体躯と、圧倒的な膂力。そして絶大にして尊大な自信。

 そうしたものが組み合わさった果てに生じた、技とも呼べぬ技であった。

 体の大きな者、力の強い者に小さな者、弱い者が勝つ工夫が術であるならば、それは剣術そのものを否定する剣であるとも言えよう。


 だが、と兵馬は思う。

 それの何が悪い。

 物事は突き詰めればどちらが強いか弱いかだ。強きはのさばり、弱きは下を向いて口を噤む。世の中の仕組みとはそういう具合になっていて、己を打ち破れぬ以上は、誰も自分の剣を否定する事は出来ない。

 師である久瀬川重兵衛ですら、昨今の兵馬とは稽古を避ける。

 もう歳なのだ。兵馬の若く精悍な剛剣を捌けなくなってきている。既に重兵衛では兵馬を掣肘(せいちゅう)し得ない。

 この事が、兵馬の歯止めをまたひとつ外した。


 自身が疎まれ者である事を、無論兵馬は知っている。

 家人が己の狼藉を厄介がっている事も、己の暴戻(ぼうれい)をただ恐れているだけである事も知っている。

 父が、出来の良い弟に家を継がせたいと考えているとも承知の上だ。

 だからといって、それで行状を改める気はしない。

 全てどうでもよい事だった。

 所詮は強いか弱いかで話は決まるのだ。

 法も金も権勢も、いざという時身を守らない。少しでも兵馬の心が動けば、父も弟も使用人どもも、皆ころりと首を落とす。そういう身分でしかない。羽虫がいくら耳元で騒ごうと、ただ煩わしいと思うばかりである。

 だが。

 七坂藩で恐らくただひとり、自分と対等の身分の者がある。

 その事実が兵馬の気に障って仕方がない。


 ──尾津、誠吾。


 心の内で名を呼べば、ざわりと沸き立つものがある。

 小兵でありながら、粘り強い受け太刀をする男だった。火の出るような兵馬の剣勢を防いで凌いで躱して捌いて、そして一拍の隙を狙い撃つ。そういう真似の出来る男だった。

 試合において常に実力は伯仲し、拮抗した。

 なまじの相手ならば兵馬は必ず言い切ったろう。己の方が必ず強い、と。

 けれど、彼にだけはそれが出来なかった。


 兵馬は幼少の頃から、譲られる存在であった。

 誰もが彼の後ろに、堀帯刀の影を見る。競ろうとする人間はおらず、万事において皆、(おもね)るように彼に敗れた。

 その兵馬がやっと得たと思った居場所が剣術である。

 そこは強いか弱いか、それだけで全てが決まる場所だった。自分が励んだかどうか、それだけが物を言う、自分だけが評価される場所だった。余計なものも余分なものもない聖地。

 であるというのに、誠吾は半年前、あっさりとその剣を捨てた。

 彼が道場を辞したと知った折の衝撃を、昨日の事のように思い出せる。それは未だ(しこり)となって、兵馬の心で疼いている。

 ああ、だがやっとだ。

 兵馬は笑った。

 やっと貴様と斬り合える。板張りの道場で竹刀を用いてではなく、文字通りの真剣勝負。殺し合いの場において、貴様と俺、果たして一体どちらが上か。


 兵馬は知っている。

 各務幕介が誠吾に声をかけた事を。そしてその席で何を命じるかを。

 しかし足りない。

 それだけではあの男を動かすのにはまだ足りぬのだ。 

 これもまた兵馬の承知するところであったから、彼はこうして待っている。

 各務の懇意の料亭から誠吾の家まで、その道のりで待っている。

 そうするうちに、やがて待ち人が来た。

 手に土産めいた包みを提げ、ひょうひょうと歩いていた。

 小さな背丈でありながらしゃんと背筋を伸ばし、どこか捉えどころのない風めいたものを感じさせる。小憎らしく小癪な有り様だった。


「斬れと言われたのだろう?」

「言われた」


 道の脇から兵馬がのそりと歩み出ても、その風情は変わらない。

 些かの遅滞も動揺もなく、誠吾は短く応じる。

「斬れ」と言われた事は否定はしなかった。ここで待ち伏せていたのだ。どうせ存知なのだろうと誠吾は思う。


「受けたか」

「受けてはいない。いずれ、断りも出来まいが」

「らしい事だ」


 揶揄するような兵馬に、今度は誠吾が問うた。


「何故、冬殿に無体を働いた」

「逃げるからよ」

「何?」

「貴様が俺から逃げるからよ。俺から逃げて剣を捨てたからよ。俺を止められたのは貴様だけだったのだ。だがこれで名分が整ったろう。貴様には俺を斬る理由が出来た」


 手応えを感じて、兵馬は口元を歪める。

 昔からそうだった。

 この男は久瀬川冬の事となると感情を抑えきれない。


「そのような理由など、ない」


 語気を強めて吐き捨てて、誠吾は足を早めて兵馬の脇を抜けた。

 兵馬は追わない。振り向きもしない。

 ただ背中へ向けて言った。


「明日、暮六つ。道場側の鎮守で待つ。俺はそこであの女を犯した。貴様を騙って呼び出したのだ」


 遠ざかる足音が、一瞬だけ乱れた。

 その事に兵馬は満足を覚える。

 来る。これで来る。この男は必ずやって来る。


「あの女、な。最後まで貴様の名を呼んでいたぞ」


 駄目押しに告げて、兵馬は喉の奥でまた笑った。

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