餓虎
──面倒な事になった。
尾津誠吾はそう考えている。
役目を終えて城を下がろうというところに声をかけてきたのは、各務幕介である。
七坂藩藩主の知恵袋として知られる掘帯刀の、そのまた腹心の男だった。身分で言うならば誠吾のはるか雲の上という事になる。
その幕介からの誘いであったが、誠吾はこれを名を覚えられた光栄とも、特別に目をかけられた幸運とも思えなかった。
母ひとり子ひとり、やっと暮らしている程度の小身である自分を、藩の重臣がわざわざ名指しして料亭へ連れ立つ。その事自体が異例なのだ。ならばそれが特別の要件を伴わない道理がない。
「堀兵馬を、斬れるか」
けれどそのように身構えていたにも関わらず、奥座敷に通されるなりで吹っかけられた難題に、誠吾は驚きを隠せなかった。
堀兵馬。
それはかつての好敵手の名であったからだ。
久瀬川重兵衛の教える久瀬川道場は、この城下唯一の剣術道場である。
重兵衛は若き頃に一流を修め、更に多芸に通じる人物として知られている。
よって、と言うべきか。
剣術指南を謳いつつ、道場では柔術、弓術、鉄砲術に至るまでの諸芸をも教える。そうした性質もあって藩の若侍のおおよそが籍を置き、久瀬川道場は一種社交場としての機能を持つまでに至っていた。
誠吾もまた幼い頃にその門を叩き、半年前までは師範代を務めた身の上だった。その久瀬川において同じく師範代の認可を受け、誠吾と龍虎と目されていた男こそ堀兵馬。
個人的な親交こそなかったが、実力の伯仲した同年代の腕自慢が二人揃って競争心の生まれぬはずもない。お互いに意識し合う間柄であったのだ。
「あれは虎だ。性狷介にして欲深く、決して足るを知らぬ餓えた虎だ。諸人はこれを恐れて顔を伏せる。だが帯刀様は、最早容赦ならぬと仰せだ」
しかし誠吾の驚きは旧知の名が出た事だけにない。
兵馬は堀家の嫡男でもある。
まさか藩の重臣の世継ぎを斬れと命じられるとは、流石に予想の埒外だった。
そんな彼の動揺を見透かしたように、幕介は続けた。
「久瀬川殿のご息女を存じているな?」
「は。冬殿ですな」
冬は重兵衛の孫娘である。夭逝した息子夫婦の忘れ形見で、老人はこの娘を掌中の珠の如くに溺愛している。
また、美しいと評判の娘でもあった。
決して人目を引き付けるではないが、川のせせらぎのように、周囲をそっと穏やかにさせる。そんなひっそりとした空気を備えている。
道場の若者は皆、彼女に恋をしていた。こう述べても、決して過言とはならぬだろう。
誠吾もまた例外ではない。
彼は真冬のある朝、道場の板の間を拭く彼女を見た事があった。赤く冷えた細い指先を、ひどく美しく思ったのを覚えている。
彼女との他愛ないやりとりが蘇りかけもしたが、誠吾は静かにその想いに封をする。
「冬殿が、何か?」
「うむ。内々の話であるが、その久瀬川冬、先日不埒者に狼藉を働かれた。下手人は、言わずともわかるな?」
告げられて黙り込んだを誠吾を、幕介はじっと見る。
腕が立つと聞いたが、この男は、さてどうであろうか。
立ち振る舞いには、確かに隙も淀みもない。道場を辞して半年と聞くが、未だ鍛錬を怠ってはいないのだろう。
しかし小兵である。女子供ほどに、というわけではないが、男から、特に剣術をする腕自慢の中に混じれば明らかに小さい。彼が斬るべき堀兵馬が恐るべき偉丈夫であるのを思えば、なんとも頼りない限りだった。
誠吾と兵馬、ふたりを並び立たせて勝敗の行方を聞けば、十人中十人が口を揃えて兵馬の勝ちと言うだろう。
故にこの話はどうにも無理難題めいている。
だが尾津誠吾ついては、ひとつの噂があった。
道場を辞するその少し前、彼は秘剣を編んだのだという。師である重兵衛にのみそれを見せ、余人はその実態を知らぬ。その秘太刀が半年のうちに錆びて果てておらねば、或いは。
「どうだ、尾津。この虎を討てるか」
重ねて問う。が、応えはない。
臆しているのかといえば、どうもそれは違うようである。
「しばし、時を頂きたく存じます」
「ほう? 長くは待てんぞ?」
眉を寄せる幕介へ、誠吾は差料を外して突き出した。
「ご覧下さい」
誠吾の言葉に訝しく受け取れば、それは思いの外軽い。抜くまでもなく竹光である。
「恥ずかしながら質草になっておりまして。それで人は斬れません」
「かっ!」
幕介は今度こそ侮蔑の色を隠さなかった。
このような小者に、何故帯刀様は大事を任じようとされたのか。
確かに兵馬は藩中において一二を争う使い手。尋常な立ち会いでこれを上回れる者はまずあるまい。しかし所詮は一匹狼気取りのはぐれ者。尋常にでなければ、如何様にも処理の仕様はある。
それを知らぬ主ではないはずだった。
帯刀の心を測れぬ不満を、不快の眼差しに変えて誠吾へ注ぐ。
「二日の内に返答致せ」
「は」
言い置いて、席を蹴立てるように幕介は去った。
ひとり残された誠吾は手酌で杯を呷り、そして深く息をついた。
陰謀と打算の舌触りが、泥のように残っている。
堀帯刀は兵馬を疎み、腹違いの次男を溺愛していると聞く。見え透いていた。不行状を理由に長男を廃し、家督をそちらに譲ろうという魂胆なのだろう。
いい酒なのだろうが、まるで旨くは感じなかった。
それから誠吾は膳を見た。幕介は酒にも料理にも手もつけぬままだった。
これを土産にして持ち帰ったら、母は喜ぶだろうか。それともみっともない真似をと怒るだろうか。
だがまあ、無駄にしてしまうよりは余程にいいはずである。
誠吾は手を叩いて店の者を呼んだ。