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「一休みしてお茶でも飲みませんか、テレサさん」
「……はい、すぐに参ります」
ベンチでニッコリ手招きするイクタ殿下。
わたしはうつむいて帽子で顔を隠し、とまどいを押し殺した。
一か月の花嫁選びは折り返し点をすぎ、三週目の食事会週に突入した。可憐なご令嬢と昼餐に晩餐、さぞ満腹眼福だろう。例によって最終組のわたしはのほほんと薬草と戯れていた。
ところが、殿下はあれから毎日薬草園を訪れるのだ。
地味な時間稼ぎにゆっくり立ち上がりつつ、わたしは兜の少女を懐かしんだ。
五日前のことだ。「休息も必要ですよ」と強引に座らされた殿下の隣、ベンチに並んだわたしたちを見て、ペコは「邪魔してごめんなさい」と笑顔で帰って行った。違うんだっと誤解をとこうにも元勇者は俊足だった。あれ以来ペコは変な遠慮をしてか、たんに王太子に避難場所がバレたからか、ぱったり顔を見せなくなってしまった。
かわりに来るのがイクタ殿下だ。
目の合った庭師が無言で親指を立て、グッドラックと去っていく。メイドさんはテキパキと茶器を用意して隠密のように姿をかき消し、騎士は生け垣の向こうに穂先を見せるのみ。
人目のない場所で、殿下と二人っきり。
グループの少女たちに見つかれば、草刈り鎌で人生を刈り取られそうなシチュエーションだ。
水桶で汚れた手を洗おうとしたら、殿下が柄杓を持って手伝ってくれた。紳士っぷりに感激すべきところだが、仕えるべき王族にこういうことをされると正直プレッシャーだ。いつの間にかベンチにはクッションが置いてあるし。
口をつけた紅茶は美味しいしクッションはフカフカだが、わたしには分不相応な待遇ではなかろうか。
「テレサさんはサロンに顔を出さないんですね」
「育ちがリオニアの端ですから、中央の方々と共通の話題がなくて気後れしてしまうのです」
「関係作りをしようとは思わないのですか?」
「すぐに帰、いえ、田舎者で恥ずかしくて……」
コネを作るより妹のふりをして周囲と関係を持つ方がリスクが高い。
欲がない、と言われて曖昧に微笑むにとどめた。欲しいものはたくさんあるが、それは王宮に居ても意味がないものばかり。早くパラダイスガーデンに帰りたい。
「クッキーはいかがです? あなた好みのハーブを混ぜたものですが」
「……有難いお言葉ですが、ご遠慮させていただきます」
香ばしいクッキーが盛られたお皿を前に、手を握りこむ。
綺麗に洗ってもやはり爪の間に土が残ってしまう。こんな指で殿下と一つ皿から菓子をつまめようか? 断ることとどちらが失礼か悩みつつも辞退したら、首をかしげた殿下が心得たとばかりに笑顔を見せた。
はい、あ~んって、食べられるかっ……!!
唇に触れる寸前で受け取って自分の口に放り込んだ。悔しいが、とても美味しい。
ひとり満足げな殿下の横で自棄になってクッキーを食べてやった。
「あなたは会うたびに印象がころころ変わる、不思議な人です」
「どちらの印象か存じませんが、両方お忘れになって下さい」
黒歴史お茶会か、ほっかむり庭仕事スタイルか。どれもこれも忘れてほしい。
「姉上はお気に入りのドレスに泥がはねると小一時間は不機嫌でしたが、あなたは手が土にまみれても気にならないのですね」
視線の先にあるのは、わたしの手。
王宮に来てから必要にかられて手入れをしたおかげで、手荒れはましになっていた。それでも同じグループの少女たちより傷が目立つ。彼女たちの磨き上げた長い爪、短く丸っこいわたしの爪。アーリベル王女や他の貴族女性をエスコートし慣れた殿下の目には美しくうつらないだろうけれど、自分の手の方が愛おしい。
「土をいじることは好きです。薬草や野菜や花果、大地はわたしたちに生きる糧をくれます。人間も動物も大地の恵みで生かされている。だからわたしは土に触れることが好きなのです。緑を見ると安心しませんか? 二年前は我が家も庭の手入れどころではありませんでした。荒廃し、枯れた草花は悲しい記憶を呼び起こします。花にあふれ、緑が茂る庭を見ると、暗い夜が明けたことを実感するのです」
冷たく湿っている土。ふっくらと盛り上げ、顔を出す若葉。耕した土の下からあわてて這い出る虫たち。水をもらってしゃっきり天を仰ぐ植物。風が吹くと花が香り、陽の下で緑が映える。
土に触れると心が安らぐ。
魔王が倒されたあと、わたしはいっそう庭仕事にのめりこむようになった。荒れた庭がかつての景観を取り戻すのを見て、闇が払われたと実感できた。
わたしの言葉に耳を傾けていた殿下は、眩しさをこらえるかのように眼を細めた。
「あなたの家に夜明けはきましたか?」
「陽がさしました。太陽は壊れた街も隅に残る暗がりもよく見えるようにしましたが、人々を明るく照らしています。――《暗き地上に舞い降りた金の御使いは、万里に轟く咆哮で暁を告げた》」
「リオノス降臨の一節ですね」
「はい。でも神の計らいも聖獣の降臨も、勇者様ご一行の活躍にはおよばないと思います」
「……先ほどの言葉を義姉上にもぜひ聞かせてあげて下さい。喜びにならずとも慰めになればいい、この考えこそ我らの傲慢に過ぎますが」
うつむいた横顔にわたしは同じ想いを見た。
魔王を倒して人々に希望を与えた勇者に、なにをもって報いればいいのか。
「悲観することはありません。ペコ様は殿下を弟のようにお思いです。生まれも育ちも異なる地で、家族のように身近に感じられる存在がいることは喜びにつながりませんか?」
彼の想いはペコに伝わっている。素直に見返してくる瞳に、茶目っ気をだして言い添えた。
「それに、王太子殿下におまかせしておけばきっと上手くいきますよ」
「――ええ、その通りですね。兄上は容赦がない」
吹っ切れたような笑顔で答えた殿下に、どんな意味か怖くて聞き返せなかった。
苦労しているんだなペコ……。背筋が寒くなり、いそいであたたかいカップに口をつける。
「テレサさん、……テレサさんっ」
「え? あ、はい、お呼びでしょうか?」
暢気に紅茶を啜っていたから呼ばれたことに気づけなかった。
テレサと呼ばれても名前に反応できず、聞き流してしまうことがある。そろそろわたしは難聴か、お花畑の住人だといわれてしまいそうだ。
「考えごとですか? 遠くを見ていらっしゃいましたが」
「まあ! 殿下を前にそんな失礼な真似はいたしませんとも。ご尊顔を拝する栄誉に堪えきれず……お気に障りましたらお許しください」
「上手いものですね、ダルトン男爵令嬢。貴族の余所見の常套句だ」
「いやですわ殿下ったら。わたしをお疑いなのですか?」
「では僕を見て下さい」
お望み通り、きっちり視線を合わせてやった。睨めっこには自信があるんだ。
ダークブルーの瞳は澄んで、光の当たった部分は淡いブルーグレイに色を変える。盛ってるのかとツッコミを入れたくなる睫。高く通った鼻筋。乙女もうらやむような薔薇色の唇はなぜだろう、だんだんムッと引き結ばれていく。
「――どうして僕を睨むのですか? 笑って下さい」
「笑ったら負けではないですか」
目を丸くした殿下はいつぞやと同じくぶはっと噴き出すと、お腹を抱えて笑い出した。
よし、勝った!! しかし、「あなたのそういうところが堪りません」というのは王族の負け惜しみの常套句なのか?
ようやく息を整えた殿下は、囁くように告げた。
「しばらくここには来られません」
花嫁選びに多忙な身だ。本来ならわたしとお茶をしている時間などないだろうに、毎日訪れていたから一言断らねばと考えたのだろうか? 律儀な方だ。
……でも、来られないと聞いて物足りないような気持ちになる。
なんだかんだと二人で話すのは楽しかった。殿下はクワガタよりカブトムシが好きだとか、紅茶にミルクを入れる派だとか、ハーブはなにが好きかとか、他愛のない会話は短かったけれど、ゆったり流れていく時間が心地よかった。
「殿下もお忙しいことと存じます。どうぞお気遣い下さいませんよう」
「薄情な人だ。僕が来なくても寂しがってはくれないのでしょう?」
「幼子みたいなことをおっしゃいますね」
どうせからかいと思ってこちらも応酬してみれば、殿下は笑っていなかった。
たじろぐわたしを見据える目つきに怒らせたかと冷や汗をかいていると、「おいくつですか、テレサさん」と尋ねられた。
「殿下より上です。ギリギリな歳です」
「ギリギリとは、具体的に?」
だから低い声を出さないでほしい。さすがに花嫁全員分のプロフィールを把握していろとはいわないが、たかが年齢で凄むことはないだろうっ?
「はっ二十歳です……」
「僕とは六歳差、じきに五歳差になる。五歳の年齢差は障害になると思いますか?」
「はい、~~いいえっまったく!」
遠回しに王太子と勇者の障害を認めてしまうところだった。ブンブンと首を振ると、目をすがめた殿下がぐっと近づいてきた。身長で負けるわたしは彼を見上げるはめになる。最近の少年は発育がいいようだ。あ、でもまなじりはちょっと幼い。大きくなると兄に似て切れ長にかわるんだろうか。
「一般論は結構です。あなた個人の意見を聞きたい。五歳下は――ありえない?」
「…………こ、子どもかな、と」
わたしの認識でいいんじゃなかったのか!?
尖がった目つきはやっぱりすねた少年にしか見えなかったが、次に移された行動は全然ほほえましくなんかなかった。あれ、と思ったときにはカップはソーサーごと奪われ、殿下の手がわたしの両脇にそれぞれ突かれていた。
囲いこまれるような体勢に、一気に二人の距離が縮まる。
「子ども? ねえ、あなたは僕より小さいのに?」
「体格の話ではありません! こういうことをするから子どもなのでは!?」
「反対じゃありませんか? 子どもじゃないからするんでしょう」
「だって意趣返しでしょうっ?」
立ち上がって逃げ出したい。無理ならベンチの端っこまででいい。
実行するにはどちらにしろドレスの裾をガッチリ縫いとめる殿下の手が邪魔になる。レースの犠牲は仕方ないと力を込めて引っ張ったら、ふいに抵抗がなくなり、殿下の左手が顎の下に伸びてきた。喉をくすぐる感覚は結んだリボンがほどかれたためで、「似合っていますが、今は邪魔ですね」とつつかれた帽子が背後にずれ落ちる。
サッと日差しが顔に降り注ぎ、見上げた瞳はキラキラと悪戯な輝きに満ちていて……とてつもなく嫌な予感がする。
「意趣返しされるような心当たりがあるんですか?」
「あの、少しだけ……」
「正直ですね。正直な人にはご褒美を差し上げます」
いりません、と言うために開きかけた口へ、パクリとクッキーを咥えた殿下が身をかがめた。押し込まれたクッキーに反射的に閉じてしまった唇をかすめるやわらかさ。呆然とするわたしの口の中で、サクッとクッキーが二つに割れた。
身を起こした殿下は自身の唇に残ったカケラをぺろりと舐め、「甘い」と感想をもらした。
……このクッキーは甘いのか?
正直者へのご褒美は、驚きすぎて味も感じられないクッキーだった。
我に返って押しやった体はあっさりと離れ、逃がしてもらえたのだと立ち上がった姿で気づく。
ふわっと乗せられた帽子。大きなつばの下でわたしは顔を隠せたことにホッとしていた。火照った頬が日焼けのせいではないことをわたしも、きっと殿下も、気づいているのだから。
「あなたがあまりにも僕を子ども扱いするからいけないんですよ?」
抗議はいまだ飲み込めないクッキーに封じられ、踵を返した殿下をただ見送るしかなかった。
殿下に付き従って騎士が消え、茶器を片づけたメイドさんが消え、薬草園にはわたしひとりが残った。
心おきなく真っ赤になった顔をおおって呻いていると、「テレサ!」と聞き覚えのある声がした。
「ペコ!」
「久しぶり。風邪でもひいたの? 顔が赤いけど」
「いっいいや? いたって健康だとも」
「だったらいいけど。日が暮れると風が冷たくなるし、無理しないでね?」
「ありがとう」
可愛らしさに癒されていると、「イクタ殿下、まだこっちに顔出してる?」と、たった今封印した記憶を無邪気に掘り起こしてくれた。
「……もう帰られたよ。殿下に用があるのなら、しばらくこちらには来られないそうだから王宮を探した方が早いと思う」
「しばらく来ないって、本人が言ったの?」
「ああ」
「そう、私の忠告聞いてくれたんだ」
「忠告とは?」
「テレサとあの子が逢引してるって噂が立ってるの。まだ花嫁の選定期間でしょう? 公爵位の姫でさえ個人で会えない中で、快く思わない人たちがいるみたい。行動には注意した方がいいって言ったのよ」
なるほど、と納得がいった。
最近のできごとは気のせいではなく、誰かの嫌がらせだったのだ。部屋に戻るとハンカチが一枚なくなっていたり、靴がびしょ濡れだったり、ベッドに毛虫がまかれていたり。ハンカチだけで他に盗られたものもなく、靴は乾かせばすむし、毛虫は丁重に庭へお引き取りいただいた。
留守の間の犯行は、必然的に犯人が近い部屋の可能性が高い。同じグループの少女たちを疑うのは気が引けたが、やはり一緒には居辛い。気づけば逃げるように薬草園へ足を運んでいた。
殿下と毎日顔を合わせるのは、わたしが日中のほとんどを薬草園で過ごしていたからなのだ。
「好きになったら一直線なのは可愛いところなんだけどね。私のこともあなたが反感を買う一因だと知って、会うのを控えてたの。……怒ってる?」
「わたしのためにしてくれたことで、どうして怒ることができるんだ?」
二ーッと口角を上げた少女は、元気にわたしの手を取って握った。
「花嫁に選ばれても選ばれなくても関係ないから、また王宮に遊びに来て!」
「王宮はいいところだしな」
「ふふっ、ほんとかなあ? 薬草園がいいところの間違いでしょう?」
「それにペコがいる」
「うん、私も待ってる! 私の友達として会いに来てね、テレサ」
親愛に満ちた黒い瞳。ズキリと胸が痛んだ。テレサは妹の名、偽りの上に成り立つ友人関係だ。
嘘になる返事をすることが嫌で、黙ってギュッと握り合う手に力をこめた。
「テレサ、最後にひとつだけ。セシル・ルフ・ガラナーには気をつけて。噂を流しているのは彼女のようなの」
「セシル嬢が?」
「わざとあなたに悪意が向かうようにしているんじゃないかって思うわ。できれば彼女には近づかないで。身の回りで変わったことがあったら教えてね。私がなんとかしてあげるから!」
「気持ちは嬉しいが、もう殿下は来ない。新たに噂が立つこともないだろうし、心配しなくとも大丈夫だろう」
「そうだといいんだけど……」
まだ心配そうだったペコだが「長居は禁物!」と立ち上がり、「困ったことがあったら絶対に相談してね」と念を押して帰って行った。
このとき、わたしはまだ事態を楽観視していた。
魔王を倒した勇者の勘、ペコの忠告がどれほど重要なものかということを深く考えていなかった。