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『――あなたは誰ですか?』
問いかけに現実へ引き戻された。
あいたたっ。ずっとしゃがみこんでいたから腰が痛い。
顎につたう汗を手の甲でぬぐい、声のした方を振り向いた。
…………あなたこそ誰ですか。
わたしはポカンとして、白昼堂々の幽霊を見た気分で目を疑った。
小柄な身体にぴたりと合ったドレスは光沢と刺繍から一級品とわかる。白いレースの手袋をはめた手が、ドレスの裾を軽くつまんでいる。ドレスと共布で仕立てた靴は、土の上ではなく絨毯を歩くのが相応しい代物だった。
上位貴族の出で立ちをぶち壊しているのは、彼女が頭にかぶった兜だった。
磨き抜かれた鋼は日差しをペカリと反射し、下ろされた面甲の奥は影になって見えない。
ほっかむりより完璧な武装だ、隙がない。……悪目立ちもはなはだしいが。
『もしかして、イクタ殿下の花嫁候補の方ですか?』
「は、はい」
『やっぱり。……ブルーノがどこへ行ったかご存知ないですか?』
老人の名前に、庭を回っていることを伝えた。彼女は頷くと勝手知ったる者の足取りで薬草園を横切り、隅に置かれていた古ぼけたベンチに座った。淑女ならドレスが汚れると嫌がりそうなものだが、頓着する様子はない。
『あなたも一休みしませんか?』
誘う声は兜でくぐもって年齢をはかり難いが、おそらくわたしより若いだろう。
出会いの衝撃が薄れてきた思考は、彼女の正体に見当をつけていた。
「畏れ多いことです。わたしのような者にお気遣い頂きありがとうございます、勇者様」
地面に膝を突き、礼をとった。
普通に考えれば、兜をかぶった不審者が警備の厳重な王宮を闊歩できるはずがない。
三年前、絶望におおわれていたテルミア大陸に救世主が現れた。魔族の侵攻に苦しんでいた各国をめぐり、ついには元凶である魔王を倒した勇者。黄金の翼獅子を従えていなくとも、伝説の甲冑を身に着けていなくとも、目の前の人物こそが――。
『どうぞ立って下さい。私はもう、勇者じゃありません』
シャコン、と金属がこすれる音がした。目を上げると、面甲を跳ね上げた元勇者様が切なさを滲ませ、微笑んでいた。
たしかに、一年前に魔王を倒した彼女は勇者をやめた。
「はい、王太子殿下の婚約者様」
「それもやめて。お願い」
ブスッとした顔で手招きされる。断わることもできず、ベンチに並んで腰かけた。
背はわたしの方が少し高いが、ゴツイ兜のせいでほぼ頭が並ぶ。そっと覗くと、リオニアには珍しい黒髪と黒い瞳が見えた。見かけない顔立ちは異界からやってきたという話にも納得できる。小柄な身体とくりくりと大きな瞳が小動物めいた普通の少女に見えるが、小指一本で魔族をねじ伏せたという逸話は眉唾ものか?
勇者は魔王を倒すまで一度も伝説の甲冑を脱がなかったという。
男性だと思われていた勇者が実は女性だったと世間を驚かせたのは、王太子との婚約が発表されたからだ。リオニアでは女性の人気を二分していた勇者と王子。
国中の乙女がハンカチを絞ったというのはヨルンが冗談めかして歌うところだ。これまでの勇者一行の英雄譚に加え、嘘か真か王子との馴れ初めエピソードが王都を席巻し、にわかに乙女たちの間に湧き起こった甲冑ブームは異様だった。
もっとも全身を覆うタイプはさすがに身につけられず、肩や胸だけの部分鎧だったが。
それに世の男性諸氏が涙を流していたのはわたしも目にした。見えているのがイイ!とか、見えないからイイのだ!と、街中で喧々諤々やっていた。結論として、鎧の下を想像で補完できるのはごく少数らしい。
気づくと黒い瞳が興味津々にわたしを見上げていた。
「ねえ、あなたはどうしてこんなところで草むしりしてたの?」
「殿下をお迎えするお茶会は今日ではありませんし、時間が空いておりましたので」
「暇だから草むしりしている女性なんて見たことないよ? あなた変わってるね」
「そうでしょうか?」
――ドレス姿で兜をかぶった人など、わたしも見たことがない。
砕けた調子で話す彼女は、なぜかわたしに興味を持ったようだ。
……困った。“目立たず騒がず空気化計画”に支障をきたすような要因とは、できることなら距離を置きたいのだが。
「あなたの名前は?」
「テレサ・ルフ・ダルトンと申します」
「私は藤屋平子。もう一般人だから普通に喋ってくれたらいいし、私のことも名前で呼んで? 私もテレサのこと名前で呼ぶから」
「……《銀位》の方に、そのようなことはとても」
無茶なことを言う。兜に半分隠れているが、彼女の首には黄金の煌きがある。
《宝首環》。
身につけられるのは金銀紫紅位と呼ばれる、王族と一部の上位貴族に限られた装身具。正面を向き咆哮する獅子の頭部から、翼を模った環がぐるりと首を囲う、聖獣であるリオノスをモチーフにした金環の首飾りだ。
リオノスの眼に象嵌される宝石は厳密にその対象を定めている。
至高の金位である王と王妃は《明星石》。現王の直系は銀位の《陽光石》。傍系の王族、王族の配偶者は紫位の《黎明石》。王族を除く公爵、侯爵は紅位の《黄昏石》。すべて同じ聖石だが、透明度と色合いによって呼び名がかわる。
垣間見えた翼獅子の眼は、金色がかった陽光石だった。
「――これは単に王様がくれた褒美のひとつだから! アトレン殿下が留め金を壊したから外せないだけで、深い意味なんてないからっ!」
逆に深すぎるナニかを感じるが。
第二王子はもちろんだが、王太子にも関わらない方が身のためだな。
「わたしのような者などに、どうか」
「テレサ」
「お許し下さい」
「テレサ」
「なにとぞナニトゾ」
「テレサ」
名前の連呼は地味に効く。
わたしは観念してそらしていた視線を戻した。
「……わかりました」
「丁寧語やめて。普通に喋って」
「…………わかった。フジャペコー」
なんとも微妙な表情に、やはり名前の呼び捨てはやりすぎたかと思っていたら、「どうしてこっちの人の発音はっ」とブツブツ呟かれ、「私の国では姓を先に言うから、フジヤが姓で、ヘイコが名前なの。……もういいから、ペコって呼んで」と言われた。
聞こえたままを口にしたのだが、発音が悪かったらしい。
人通りもなく静かな薬草園で、わたしたちは話しこんでいた。
ペコは話すと面白い少女だった。考え方が異質というかリオニア人にはない発想で、なるほど……と唸らされる。わたしより二つ下の十九歳だといっていたが、知識の深さは文官並みだろう。こだわらない性格らしく、わたしのぶっきらぼうな言葉遣いも気のおけない友人のようでかえって嬉しいのだと言う。
まさか王宮に来て素の自分で話せる相手ができるとは思わなかった。無邪気な笑顔を向けられると本当の友人になったようでこちらも嬉しくなる。
ペコは時々ブルーノ老人のところへ避難してくるのだと言っていた。逃げている相手はもっぱら王太子だな、と彼女の話から推測できた。
しかしまあ……愚痴の大半は婚約者絡みだと彼女は気づいているのだろうか? 痴話喧嘩の惚気話を聞かされている気分なんだが。
「――やはりこちらにおいででしたか」
「イクタ殿下っ!」
ペコが驚きの声を上げた。
わたしは素早くうつむき、礼をとるのにかこつけて顔を伏せた。
……ううむ、非常にまずい事態が進行している気がするぞ。
会話に夢中で注意をおろそかにしていた自分を悔やむ。隔離された幸せ空間、夢の薬草園に警戒心が鈍っていたのだろう。
「義姉上、兄上が探しておられましたよ。かくれんぼもほどほどにしないと、心配した鬼から角が出るかもしれません」
「私まだあなたの義姉じゃないし! それと、あの人は鬼じゃないから。雪女の男版だから。雪女って雪山に住んでる妖怪で、目から冷凍ビームを出して人間を凍りつかせるんだよっ? 殿下と一緒だよ!」
「それは恐ろしい存在ですね。凍りついた人間はどうするのですか? そのまま死んでしまうのですか?」
「ええと、真実の愛をこめた口づけで解凍されるんだったっけ? とにかく! 私にとってそれぐらいおそろしい存在なのっ」
「兄上が耳にされたら悲しまれますね」
「……つ、告げ口するの?」
「義姉上が今すぐお戻りになられるのなら、口外しません」
葛藤していたらしいペコが憤然と立ち上がった。
「~~戻りますっ、戻ればいいんでしょ!」
ガシャンッと荒々しく面甲が下ろされる音がする。やはり兜は武装だったのか。
『兄弟そろってイイ性格よねっ。――今日はありがとうテレサ、すごく楽しかった!』
「身に余る光栄でございます」
『テレサ、敬語やめて。……もうっ、お別れなんだからこっち見てくれてもいいじゃない』
見るもなにも兜越しでは彼女の表情ひとつわからないだろうが、と顔を上げた。
しかしちょっとだけ面甲を押し上げてみせたペコは、「またおしゃべりしてくれる?」とはにかんで尋ねてきた。無骨な兜の間に小動物が顔をのぞかせている。
おおっ、これがギャップ萌えというやつか。可愛いじゃないか。
「わたしも楽しかった。ペコさえよければ、また話をしたい」
「もちろん! じゃあまたねっ」
鋼の光沢も眩しい兜の少女はきっちり面甲を下ろし直すと、手を振って去って行った。
わたしも振り返して見送り――なにげない動作で屈み、ドレスの裾をまとめていたリボンをほどいた。
ほっかむりはどうする? 不敬だが、顔を覚えられないようにまだしておこう。
「お帰りですか?」
お帰りですとも。
気づかないふりで無視するか? ……だめか。二人きりなのに「まさかこのわたくしめにお声をかけて下さっていたとは!」という言い訳が通るとは思えん。
いっそ無言で走りだそうかと、踵の高い靴からそーっと足を浮かせたら。
「逃げれば騎士に追わせますよ。テレサさん、でしたね」
名前を知られている以上、この場をやりすごしても意味がない。あきらめないのが信条だったのだが、ときにはあきらめも必要ということか。
身代わりを始めてから一年分は吐いたであろう溜息にもうひとつ上乗せし、わたしはダークブルーの瞳を見返した。