夕日の光
1章
まだ薄暗い夏の一日の始まり。
どうしたのか布団に入っても眠れないので、昨日の片付けでもしようと思った。
床に散らかったキャンバスを壁に立てかける。
その中でボロボロのキャンバスに絵の具で描かれた夕日の絵を見つけた。山と山の間に沈んでいく太陽。手前には川が流れている。
(どうしてこんな絵が僕のアトリエにあるんだ……? 夕日なんてどこで描いたっけーー。)
そのとき、パチッと頭の中でなにかがはじけた気がした。
2章
夕日、夕日。なんだか引っかかる。それと、あの今朝の感じは一体ーー?
そんなことを考えているうちに、道に迷った。
うーん、そのうちどこかに出られるだろうと細い入り組んだ路地を抜ける。
……車一台分の道幅がある道路に出た。それを挟んで向かい側に土手があり、舗装されている階段があった。
車がよくもまぁ恐ろしいスピードで目の前を通り過ぎていく。
空が明るくなってきたので、そろそろ帰ろうとーー……しまった。道に迷ったんだっけ。
近くの、花に水をやっている女の人に聞こうとしたが、大のおとなが迷った……なんて言えないしなぁ。
「道に迷われましたか?」
どきん! 心臓が飛び出した。待て待て待て。どうして分かったんだ?
その人は手を止めて近づいてきた。
「そんな顔されてますよ。当たりですか?」
「……はぁ」
なんともフレンドリィな人だなぁ、と自分の質問が当って喜んでいるその人を見ていた。
初めて会った気がしないので、気軽に話ができた。
「絵を描かれるのですか?」
紺のエプロンに洗濯で取りきれなかった絵の具の汚れが付いている。
「あ、やっぱり分かります? 絵を描くとき以外でも、このエプロンを着けていないと落ち着かなくて。……あなたも、絵を?」
「はい、正解です」
くせっ毛の茶色がかった長い髪を耳にかけながら、ニコリと笑う顔はかわいい。
「私、高田葵っていいます。あれが私のアトリエです」
「白川智希です。あの、高田さん。道を教えーー」
「“葵”でいいですよ」
はい? いきなり見ず知らずの人に呼び捨てで……ってのはちょっと、な。
やはり抵抗があるので「葵さん」と呼ぶことにした。
「なんだか、あなたと前に会った気がしてなりません。ねぇ、智希さん」
びっくりして飛び上がってしまったじゃあないですか! 「智希さん」……なんて初めてだ。
気を取り直して再度道を尋ねたところ、親切に教えてくれた。
帰り際、「また来てもらえますか」ーー微かに細い声が背中に聞こえた。
3章
朝。
決まった時間に起き、決まった散歩ルートを通り、いつもの場所に行き、いつもの人と会い、帰るのがいつしか自分のお決まりの日課となっていた。
葵さんに会うのは何回目だろう。この前は彼女のアトリエにお邪魔させてもらい、絵を見せてもらった。……実は今回もお邪魔している。
日常生活の中で見たことを、そのままキャンバスに描いているものが多い。
自分自身が惹かれる絵ばかりだ。
……葵さんにも惹かれているのだが。
もう一周作品を眺めようとしたとき、床に面を向けたキャンバスが部屋の隅の方に置いてあるのに気づいた。
「裏返しにして置いていたら駄目ですよ」
笑いながら表に返す。そのとき自分の目はそれを捉えて離さなかった。
馬鹿な。こんなことがあるものか。同じ……まったく同じだ……。
「どうかしましたか? 固まっちゃって」
トコトコと近づいてくる葵さん。
自分のアトリエにあった絵とまったく同じ景色だ。画風は少々違うけれど。
「あぁ。それは道路の向こうの土手から見える景色ですよ」
ハッとなってみると、自分が持っているキャンバスを葵さんが横から覗き込んでいる。
「絵を描きませんか」
顔をこちらに向けて微笑む彼女。
「ここからの絵を。きっと気に入ると思います」
彼女との距離、およそ20cm。うおっ、と一歩後ずさり。
「行きましょ! ね! 今日の夕方あいてますか? ……ーーよかった! 約束ですよ」
はい! あなたとの約束は絶対に守りますから!!!
何枚ものキャンバスに同じ絵が描かれていた。
「本当にこの場所が好きなんですねっ」
「えっ? ……ええ……」
あれ。予想外の反応だった。困らせてしまったようだ。
「……好きで嫌いな場所」
小さな一言がやけに大きく聞こえた。
「あのっ、絶対行きましょうね、智希さん!!」
玄関まで見送りに来てくれた。
「ああ、それじゃあまた」
背を向けたまま片手を挙げるのが精一杯。
空を見上げた。もう昼が近い。
ご飯は朝と昼一緒になっちゃったなぁ、なんてブツブツ言う自分の肌を強い日差しが焼く、そんなある日のこと。
彼女のアトリエを後にした。
4章
「記憶喪失!?」と驚いたのは高田葵。
「はい。医者に言われて。実際に事故前の記憶が無いんです。どんな事故なのかも覚えていません」と答えたのは白川智希。
高田葵のアトリエで交わされた話。
「自分のアトリエに、これと同じ場所を描いた風景画があるんですが……。いつ描いたのか全然思い出せない。キャンバスはボロボロで、所々汚れているし、何かでこすれた痕があって。妙な絵ですよ、ホントに」
「私も……。時々思い出せないことがあります。いくら記憶をたどっても途中でぷつりと切れている。やっぱり私も智希さんと同じでしょうか? 思い出そうとしても無理なんです。なんだかむずがゆくて」
両腕を手でさすりながら渋い顔をする高田葵。続けて、
「智希さんと会ったときも同じ感覚をおぼえました」
そしてーー。
「以前、会いましたよね」
葵は真剣な表情で言ったのだった。
5章
「ーーーー遅いですよ、智希さん!!」
小走りできたけど、はあ……。遅かったか……。
止まると汗がジワリとにじみでる。夕飯を急いで食べてきたから腹は重いし……。
「じゃーん! 景色を見ながら一緒にどうですか?」
そう言って葵さんが出したのは、おにぎりやウインナー、卵焼き。お弁当の定番メニュー。
そのほかに少しずつ、スパゲティー、ハンバーグ、から揚げ、ホウレンソウの胡麻和えetc……。
「智希さんがお腹空いてると思って。えへへ」
腹が空かないように、ついさっき、しっかりと食べてきたばかりなのにーー!!!
悪魔の微笑を浮かべる彼女。
「ちょっと少なかったかなぁ」
彼女がポツリとつぶやく。
いえいえ! 十分ですから! これ以上食べたら腹がはちきれますから!!
「あの、もう十分です……から」
せっかく作ってくれたのに申し訳ないと思いながらも、弁当は絶対食べられない!! の意味をこめて言ったのだが。
その言葉は彼女が目の前に出した箱でさえぎられた。
「まだここにサンドイッチがありますから!」
ただならぬバスケットの大きさ。背中に冷や汗が流れた。
6章
道路を渡り、土手の階段をのぼる。
あのキャンバスの中の絵と、まったく同じ光景が、そこにあった。
「さあっ、食べましょ! 私、お腹がペコペコでぇ……」
太陽はすでに西へと傾いている。
「こほっ……どっ、どもぎざん……もっーーどうですか」
右では、葵さんがご飯粒をのどに詰まらせ、むせている。
彼女の手がおにぎりを差し出してくる。それを両手で受け取った。
緩やかな土手の斜面に足を投げ出して、ちびちびと食べる。
満腹なせいもあったが、考え事をしているせいでもある。僕にとっては重大かつ重要なこと。
どのタイミングで言おうかーー。なんて言おうかーー。
この絵を描く前ーー……は、断られたとき気まずいしな。描き終わったら……にしよう。
言うことは……「好きです」とか、「付き合ってください」ーーこれは定番かな。
「あなたの瞳は……」うげぇ、やめとこう。気持ち悪いな。
一人で頭をフル回転させているうちに、葵さんは、さっきまでおにぎりをつかんでいた手を筆に持ち替えて、キャンバスに走らせていた。負けじと後を追う。
下書きを一旦済ませたところで、卵焼きをつまんだ。うん、なかなかイケる。
もう太陽が山に隠れだしたので、色をつけて塗り始める。ほんのわずかな時間……一瞬の勝負。
自分の手が動くままに筆を走らせ続けた。
どのくらいの時間、集中していたか分からない。ふーっと長いため息をついた。
「葵さん、どんな感じになりましたか」
ーーと、声をかけるのをためらった。
まだ絵を描き続けていたから。これまでにも無く真剣な表情で。
何度も絵と風景とを見比べて描いている。ほぼ完成状態の絵に、さらに色をのせていく。
その度に絵に深みが増し、輝きが増す。
彼女はとどまるところを知らないのだろうか。
夕日の色に染まる彼女を、自分はずっと見ていた。……惹きつけられたのだ。
「ごめんなさい、熱中しすぎて。自分でも止められないの」
「いいじゃないですか。それは素晴らしいことですよ」
彼女は黙ってその言葉をーー……聞いていたのか聞いていなかったのか。
手だけを動かして道具を片付け始めた。
「さあ、アトリエに戻りましょう。作品はちょっとの間、ここで風に当てておいて」
「あのっ……ーーはい」
告白のタイミングを逃してしまった……。
7章
蛇口から水を出しっぱなしにして、道具を洗う。筆やパレットの隅々まで、丁寧に。
こういうところはキチンとしておかないと、なんだか気持ちとして嫌だった。
「そこの筆立てに……。パレットは窓際に立て掛けておいてください」
止めた水道の口から一滴、滴が垂れた。
窓全体が受け止める、優しいオレンジ色の光。
葵さんがエプロンの裾で手を拭いた。
「さっ、取りに行きましょうか!」
いよいよラストチャンスだ。気を引き締めた。
8章
夜の闇が近づいてきているようだった。
キャンバスは光を真正面から受けている。
彼女は足元のそれを拾い上げ、「どうですか、智希さん」ニコニコしながら聞いてきた。
夕日のせいなのか、それとも風に当てたせいなのか……。
いつもの自分が描いたものと随分違っていた。
ううむ、なるほどねぇ。
「智希さんと、また、ここで一緒に絵を描けてよかったわ。これが最後かもしれないもの」
「“また”? これが“最後”? どういうことですか?」
キャンバスを胸の前で抱えながら、深いため息をつき、目を伏せた葵さん。
「あなたが交通事故で記憶喪失になる前、私達、会ってたのよ……。覚えていないのね。その時も同じようにふらりと現れて、道に迷っていたわ。その後、何度も会った。今回も同じようにあなたと接したら、同じように反応したのよ。面白かったわ」
太陽は濃く、暗くなっている。なまぬるい風が、肌をなぜる。
彼女はこちらを振り向き、口を開いた。
「実は今回、お弁当の量を増やしてみたのよ。食べきれなかったでしょ。えへ、夕飯食べてきたから……ですよね」
「……ええ。そうです……けど」
頭が真っ白になって、これ以上、何も口から出てこなかった。
考えることもできなかった。
「絵のほうは元からうまいんですよ、私。毎度同じ景色は飽きたけれども」
フッと顔を緩め、クスリと笑う。
「ここからの景色、絶対に忘れないわ……」
一瞬ーー、一瞬だけ寂しそうな顔をしたのだが、それもすぐ真顔に戻り、
「智希さん。お願い。最後にひとつだけ聞かせて。……私のこと、どう思ってる?」
ハッと我にかえった。
ーー私のこと、どう思ってる?ーー
「愛しています」
一歩、葵さんが近づいたと思ったらーー……。
「!」
「……さよなら」
背中を強く押された。
二枚のキャンバスと共に、草の間を転げ落ち、木に頭をぶつけた。
「ぐぅ……!!」
鈍い痛みが頭をおそう。
高田葵が視界にはいった。その隣には、得体の知れない人間がいる。
輝きを失う太陽が、山々に隠れていきーー……。
冷たい水の中へと落ちていった……。
9章
高田葵は震えていた。
自分で自分を抱え、必死で止めようとしても、止まらない。
何度も経験してきたことなのに。
幾度となく白川智希を亡き者にしようと試みた。
だが、彼は生きている。
死の淵を歩いても……また私と会う。
決して死にはしなかった。だから……今回も……必ず生きて……帰ってくると。
そう思わずにはいられなかった。
“愛しています”
ーー彼に答えてあげられなかった。
景色がぼやけてくる。
「私も愛しているわー!!」
そう叫んだことで心のつっかえが取れ、涙が頬をつたう。顔をぐしゃぐしゃにして、泣いた。
人生最後の“泣く”ことが終わった葵は、この場から今すぐにでも立ち去りたかった。
だが、その肩には手がのっていた。
背後にいる者によって“逃げる”ことはできなかった。
棒立ちの状態で、葵は静かにその声を聞く。
「想わなければいいものを。」
うつむく葵。機械的な声だった。葵自身、その者の声を初めて聞いた。
「この仕事に涙は要らない。」
こんな者の下で何十年も働いていたのか。智希だけを殺すために。
声の主に苛立ちをおぼえた。
「あなたは人を愛したことが無いのですか」
その答えは返ってこなかった。
「お前はもう用済みだ。」
最後に彼女の目は何を見たのだろうか。
声の主の顔か? 自らの血か? ……いや、そのどちらでもなかった。
それは太陽。
彼女の目が捉えたのはーー光。
太陽が残したわずかな光を見ていた……。
最終生
ちょっとそこまで散歩……のつもりが、道に迷ってしまった。
まぁ大丈夫だろうと、あたたかい春の陽気につつまれながら、気楽に歩いていた。
「道に迷われましたか?」
……え? どうして分かったのだろう。
外で絵を描いていたその人は、自分の方へと歩いてきた。
「そんな顔されてますよ。当りですか?」
「はぁ」
なんともフレンドリィな人だなぁ、と自分の質問が当って喜んでいるその人を見ていた。
初めて会った気がしないので、気軽に話ができた。
「うわぁ、上手ですね」
「ありがとうございます。あなたも、絵を?」
「ええ。大好きです。熱中しすぎて時間を忘れるくらい。ーーあの、私、高田葵っていいます」
“自分では記憶喪失と認識していない”彼女が言った。
「白川智希です。よろしく」
右手を出し、“白川智希を殺せ”と命ぜられた彼女の手を握る。
「白川さん。私、道に迷ってしまって」
「“智希”でいいですよ」
そう言うと彼女は、え? という顔をし、迷ったあげく「智希さん」と呼んだ。
「あなたとは前にも会いませんでしたか? 葵さん」
彼女が飛び上がった。……この質問を無視して道を尋ねてきたので、しっかりと教えた。
また来てもらわないと……ね。
“今度こそ、ちゃんと告白する(もちろん返事をもらう)”という目標が達成できていないから。
帰っていく彼女に向けて「また来てくださいね」と声をかける。
明日、また来てくれる。そう確信している。
絵を描いて、葵さんを待とう。
第二の人生を歩み始めた君へ
「愛している」と言う為にーー……。