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ある男と辿る道

作者: 大森紀昭

「あの人は、ある日突然私の前に現れたんです

初夏の心地の良い日だったわ、私達はまだ幼くてじゃれ合うように

遊んでいました、白いカッターシャツに品のある落ち着いた色の

ネクタイをした男性は、凄く優しい眼差しで私達に近づいて来ました 」

とある地方である、県庁所在地より全国的に有名な都市が有る県の国道沿いだった、とはいえそこは地方の田舎の事なので、どことなくのんびりとした緑の多い風景だった。

梅雨も明けようとしている初夏の出来事である、焼き肉屋の厨房の裏口に現れたのは地元では大手の業務用食材の卸問屋で営業をして回る大林とゆう20代後半の青年だった。

身長は175センチ程で細身の体つきだった、見た目は細身だったが学生時代にサッカーで鍛えた体は足腰が強く力強かった。

クリーニングをかけたてのワイシャツにアイロンが綺麗にあててあるスラックス、黄金色だが派手ではないブランド物のネクタイといった清潔感のあるいでたちであった、靴はブランド物ではあったものの営業で歩き回るせいかくたびれた感がいなめない。

厨房の裏手は倉庫になっていて納品された食材の空き箱やらまだ洗っていない焼き肉の網などが無造作に重ねられていた。

「毎度お世話になります、石川食品です」

大林は歯切れの良い声を掛けて厨房へ入っていった、厨房は綺麗に清掃されていて床は水浸しだった、焼き肉屋の厨房にありがちな焼き肉のタレと内臓部位の独特な臭みが入り交じった臭いが漂っていた。厨房の奥の部屋で昼の営業時間を終えて仕込みを始めるまでの休憩をとっているスタッフがタバコをふかしながらくつろいでいた、

「すいません休憩中に」

軽く声を掛けた大林に気付いて店のスタッフが顔を上げた。

「あれっ?大林君久しぶり、今日は横手さんじゃないの?」

いつもの担当者じゃないことに何事かと不思議そうに聞いた。

「ええ、横手からちょっと話を聞いたんで寄らせてもらったんですよ」

大林は営業専門の仕事になる前の配送も兼ねていた時期に担当していたことも有り馴染みがあった。

その日に訪問した理由を営業以外の私的な訪問である事を説明して、店のスタッフとまた裏口を出て行った、そこには倉庫の段ボールの上で無邪気に戯れている2匹の子犬が居た。

「私達は、食べるものも無くていつもお腹を空かしていた頃でした

その人は、私達に食べ物を恵んでくれていたお店の人と暫く話をしていたと思います

私は、男の兄弟が一人居たんです、私達はその男性に好感を持ちましたが

言葉では言い表せない、直感的な不安を覚えたんです

その人は、暫くして私達の元へ戻ってきて私達を車に乗せて走り出しました

始めて乗る車と見たことのない景色に不安混じりでしたけど

はしゃぐ気持ちを抑えられませんでした

色んな所へ連れて行かれて、色んな人に紹介される度に

”可愛い、可愛”って頭を撫でられたりして私達は戸惑って

ウロウロしていました、そして夕暮れが近づく頃その人の

職場へ連れて行かれました、職場の人達は最初は”その子達どうしたの?”って

驚いてた様子だったけど、直ぐに同じ様に可愛がられました」

大林青年は、元来の物怖じのしない性格で方々のお客から好感を得ていた。

その誠実さで多くのお客から頼りにされる営業マンだった、その為営業成績も飛び抜けて良かった、おかげで社内の評判も良く同僚や先輩、後輩、女性社員から信頼されていたので大林の連れ帰った子犬たちはよく可愛がられた。

「私達は、その人が仕事を片付ける間待たされてたけど、職場の人達か遊んでくれました

そして、私はその人の家に行くことになったのですが、姉弟は

その人の職場の後輩らしき人の家に行くことになりました

それ以来、姉弟とは会っていません、

これが私達の運命だったと思います、私達はその人が現れなかったら、とっくに

のたれ死んでいたとおもいます、そして愛情を感じる幸せを味わう事も無かったでしょう・・・」

「今でもその男性に会いたいのかい?」

「もちろん会いたいです、会って私がどれ程感謝して愛していたか言葉であの人に届けたいです、その人は、とてもお人好しで友達を助ける為に身を投げ出して体を不自由にしてしまっていたから心配で心配でたまりません・・・不自由な体で私を病院へ連れて行ってくれたり

食べ物を用意してくれたり、体も洗ってくれていたんです、

天気の良い日はドライブや散歩へ連れて行ってくれたりして、私の一番大切な人です」

「それで君はその人の事を想って、いつも元気がなさそうにしていたんだね?」

「はい、あの人の事が心配で・・・・」

「じゃぁ僕が君の望みを叶えてあげるから付いておいで、そのかわりに君の記憶は暫くは消えてしまうけどいいかい?」

迷う素振りも見せずに答えた。

「かまいません、私があの人に何かしてあげらるんだったら本望です!」




ある男と辿る道


陽の光に包まれた草原の草木を撫でる風に身を任せる魂がいる。

虚ろで寂しげな女性、大きな瞳で鼻筋が通った美形だが、どこで怪我をしたのか鼻筋に小さな傷の跡がある

美人とゆうより、快活そうな感じのする少女といった印象の女性だが、草原の端の深く

沈み込んだ谷底を、膝を抱えてしゃがみ込んで覗き見ている。

ショートヘアーの前髪を、谷底から吹き上げてくる冷たい風に揺らしながら

瞼を瞬かせて、じっと見つめていた。

「お~い!新人さん、元気なさそうだね」

真っ白な燕尾服に黒の蝶ネクタイとゆう奇妙ないでたちの、

背が低く小太りな男が背後から近づいて

彼女に、声を掛けた。

「元気なさそうだね」

声を掛けられた彼女は振り向きもせず

谷底を見つめたまま無言で居た。

「今日は、あの男性だよ、さあ行ってあげなさいよ」

そう言って指差したその先には、深く沈み込んだ谷底に

厚く立ちこめた雲の隙間から見えている、真冬の河原へ

うつぶせに倒れている男だった。

そこは、川の流れに運ばれた大小の石ころと砂利で出来た中州の河原で、

所々に草がが生え、厳しい寒さの中冷たい風が吹き荒れる場所だ、

男は、意識を失い俯せに倒れて凍死していた。

声を掛ける男を背にしたまま「はい!」と返事をして

立ち上がった彼女は、厚い雲の隙間を通して谷底へ降り注ぐ、陽の光に

身を任せる様に吸い込まれて谷底へ下りていった。

地上へ降り注いだ光のカーテンから姿を現した彼女は

先ほどまで居た草原と、別世界の河原の寒さに身を震わせて、

男を見下ろした。

辺りは、まだ真っ暗だ、男が乗ってきたと思われる車が

薄ぼんやりと見えているだけで闇に閉ざされている。

時折、頭上に掛かった川を渡す橋をトラックが渡る音が聞こえるだけだった。

彼女は、しゃがみこみ両腕で男を抱きかかえ顔をのぞき込んだ、

懐かしく胸がざわめく奇妙な感覚を覚えた、

そしてまた、光のカーテンに包まれて、元いた草原へ昇っていった。

河原には、暗闇で彼女が気付かなかった杖が一本

ぽつんと残されたままになっていた。

男を抱きかかえて草原へ戻ってきた彼女は、

光のカーテンから草原の草へ、そっと素足を差し込む様に降り立ち

そして小高い丘へ向かって歩きだした、

小高い丘にある一本の大木の元まで来て 、男を寝かせると

またじっと顔を除き込んだ。

するとまた先程彼女に声を掛けた小太りの男が背後から

彼女に声を掛ける、

「今回は、この男性だからね、!」

はっと我に返って彼女は、振り返って

「先輩、私今日はなんだか憂鬱で・・・いつまで経っても自分の名前も思い出せないし、

昔の事もそう・・・、この男の人を見てから妙な

胸騒ぎを覚えるし・・・」

もう彼女を、草原に連れてきてから随分と歳月が流れた、

そろそろ不安定な精神状態が彼女を襲い始めたのかも知れない、自分にも覚えがあった。

先輩と呼ばれる小男は彼女を諭す様に言った。

「どうしたの、いつもの君らしくないねぇ

この草原での事は記憶があるだろ?僕も自分の

名前は思い出せないよ、けど君のような新人を指導していく上で

ある程度は知らされているけどね、君もいずれ時が来れば

全て理解できるさ、だからその時が来るまで僕が教えた通り

やってれば心配ないよ!元気がなさそうだったのは

そんなこと気にしていたからかい?」

「でもぉ・・・」

彼女はなにかすっきりしないものを感じていたが

くよくよ悩んでも仕方ない、と思い

「はい、分かりました」

と返事をして男を起こすことにした。

男はまだ眠ったままだった、心地良い草原の風に吹かれて夢をみている、いや!夢などと非現実的な曖昧なものではなかった、心のよりどころだった愛犬との幸せな思い出が彼の目覚めを引き留めていた。

彼女は、男の肩に手を掛け揺らしながらそっと声を掛けた。

「あの~、起きて下さい、もしもし!ちょっと」

男は、声に気が付いて目を開けた、辺りをきょろきょろ見回して

そして目の前の女性に気付く、困惑した様子で訪ねた。

「あの~ここはどこですか?」

彼女は、いつもこれの返答に困ってしまう、

ストレートに言って連れてきた人が自分の死を受け止めることが

出来るだろうか?躊躇いながら男に告げる。

「あなたは、お亡くなりになったんですよ」

男は、少し戸惑い気味だったが意外とあっさりと受け入れた様子といったものより何かに解放された様子で、

「あなたは?」

と、聞き返した、

「私は、あなたの道先案内人の様なものです

あなたのお名前を教えて貰えますか?」

「僕は、大林って言います、君のなまえは?」

「私、名前がないんです、適当に呼んでください、ごめんなさい・・・」

彼女は嘘をついてワザと素っ気なく言った、説明のしようが無かったこともあったが、そのことを考えると特に今日は憂鬱になりそうだったからだ。

「じゃあ、大林さん立ってください」

この草原を行くと森がありますから、その森の中の判定所で

大林さんがどこへ行くのか決まりますから」

男は、立ち上がってキョロキョロと辺りをみまわして、

「あれっ!杖がない!その判定所までは遠いんですか?」

と彼女に聞いた。

「そんなに遠くないですけど、どおかしたんですか?」

「いやぁ、僕は体が不自由なんですよ、だから杖が無かったら

遠くまでは歩けないんじゃないかと思って・・・」

「大丈夫ですよ、地獄に行く人以外はもうこの草原から

元の体を取り戻して行きますから、

ここは心地いいでしょ?ね!大林さん」

彼女は、そよ風を受けて気持ち良さそうに男に笑顔をむけた。

男は複雑な笑みをかえした。

確かに彼女の言う通り男の足は元気だった頃に戻っている様に見えたが

左肘は曲がったままで手は握り込んで開いてはいなかった。

彼女は男の少し右斜め前をゆっくり歩いている、

男の歩みはまだすこし遅かった。体の不調とゆうわけではなく感覚を

取り戻すのに時間が必要な感じであった。

彼女は、この男と歩いていると心が弾む感情を覚えた、

今朝はあんなに憂鬱だったのになぁと考えながら歩いた。

男は、昔に近い感覚で歩いているのに浮かない表情だった、

そして彼女に

「あのぉ、ちょっと聞きたいんですけど、さっきちょっと言ってた

地獄って動物にもあるんですか?」

「ごめんなさい、私はまだ新人だから詳しくは知らないんです」

まだまだこの草原で経験したこと以外は知らない彼女は、分からなくて困った様子だった、

男は、彼女の返事も耳に入らないかの様に、思い詰めた様子で矢継ぎ早に聞いた。

「もしあるんだったら僕の愛犬が死んでしまったら

どうなるのか教えて欲しいんです、うちの子は

安らかな場所へ連れて行ってやって欲しいんです、もしその代償が必要だったら

僕が払います、体は不自由のままでもいいし、辛いことにも耐えるから

お願いします。

僕は今でもうちの子を愛しているし、

うちの子の幸せだけを願って生きていたんです」

彼女は、突然激しい口調で訪ねる男に驚いた。

「大林さん、私も新人でまだ詳しくないから先輩に聞いてきます

ここで少し待っててくさいね、すぐ戻ってきますからね」

彼女は、男を草原に残して、先輩の元へ走り出した、風を切ってまるで馬が駆け抜ける躍動感のような早さで 、やがて先輩の元へ辿り着く。

「せんぱ~い!!」

息せき切って駆けてきた彼女に小太りの男は驚いた

「どうしたんだい?随分慌てて」

「ハァ、ハァ・・・」

彼女は、息が乱れてすぐに返事が出来ない様子だ

「今日は僕も忙しくてねぇ、みんなが気持ち良く過ごせる様にこの辺りを綺麗にしておきたいんだよ、何かあったの?」

小太りの男は、草原の片隅から伸びている橋の入り口らしき場所を清掃していた。

何故かそこはひどく水浸しでぬかるんでいるように見えた。

清掃と言っても道具を使って掃除をしている訳じゃなく指揮者みたいに手を振りかざすと魔法の様に荒れた草花が綺麗に蘇っていた。

彼女は、息を整えながら大林の疑問と願いを質問してみた。

すると先輩は、作業の手を休めて彼女の方を振り向いて、

「そうかい、君の担当する男はそうゆう人かぁ・・

動物に地獄はないよ!そう言って安心させてあげなさいよ」

彼女は、安堵した、

大林を安心させる事が出来ると思うとまるで自分の事のように

嬉しくなった。

「じゃあ、動物はみんな天国へ行くんですね?」

「そうじゃないよ、直通では天国にはいけないんだよ!

天国の手前にある虹の橋へ行くんだよ、ここがその入り口さ

動物達は死ぬとここへ寄り道さ、

病気だった子も年老いて弱った子も、傷ついて不自由な体になった子も

みんな元の体を取り戻して彼らはみんなで走り回って遊ぶんだよ

ここには草地や丘や水も食べ物もたっぷりあって陽が降り注いでいて暖かくて幸せさ

でもね、のも足りなさや、ほんの少し寂しさがあって天国へは行かないんだ 」

「何が足りなくて、寂しいんですか?」

彼女は、なんだか水を差された気分になって聞き返した。

「それはね、地上に残してきてしまった特別な誰かさんだよ

人間だって、どんな動物だって親の愛情を受け続けて生きている子は少ないんだよ、

だから特別な誰かさんと出会って愛情を受けて幸せを感じ得るんだよ、」

彼女は、話す先輩の瞳が寂しげなのに気が付いた、この人は

いったい誰なんだろう?しかし大林に早く伝えたい気持ちが

その疑問を遮る。

「ほとんどの動物達は、その特別な誰かさんを残してこっちへ来るんだ

いつの日かまた一緒になれるって信じてね」

「じゃぁその人が地獄に行ったら会えないんですか?」

「動物を愛する慈悲の心を持った人はめったなことが無い限り

地獄へは行かないさ、よかったらこれ虹の橋について詳しく書いてあるから

読んでみると良いよ!特別に貸してあげるから後で必ず返してね」

と絵本の様な冊子を手渡した。

彼女は、襟元から服の中へそれをしまって、「ありがとうございました」

と先輩に礼を言うと、また風を切って大林の元へ駆け出した、

先輩は、何かを感じながらその後ろ姿を長いあいだ見送っていた。

男は、一人ポツンと草原の中で彼女の帰りをまっていた、

麻痺して動かなくなってしまっていた左足を、曲げたり伸ばしたり

足首をブラブラさせてみたり、長い間味わえなかった感覚を楽しみながら。

四季それぞれの味わいに心弾む感覚、些細な事に感じていた喜びの感情、

朝痙攣で目覚める苦しさ、その苦しみの中で忘れていた歓喜する心の開放感をかみしめていた、長い間たった一人で元の体を取り戻そうと懸命にリハビリに取り組んでいた日々が嘘のようだった、この草原の暖かな陽差しのせいなのか?不思議な感覚だった。

体が不自由になってしまった途端に厄介者あつかいする親戚縁者、意地を張って他人を拒絶して一人で暮らす日々、そんな風に心が歪んでしまった自分に嫌気がさす毎日、日常の些細な家事に苦労した毎日、耐え難い孤独の寂しさを支えてくれた愛犬の、じっと自分を見つめてくれた瞳に想いをはせていた。

死んでしまった今となっては虚しいばかりだが・・・・「会いたい・・」

ポツリと呟く、そこへ彼女が走って戻ってきた。

男は、息を切らしながら帰ってきた彼女の背中を摩りながら

「大丈夫かい?こんなにハァハァ息切らして!」

彼女は、息を切らしながら先輩から聞いた話を男に語り聞かせ、

男の心に平穏が訪れる様に祈る気持ちでいた。

男は、話を聞きながら彼女を気遣い背中を摩ってあげていた

彼女の呼吸は少しずつ落ち着いてきました。

彼女は、妙な懐かしさを感じています、そうあの時

男を地上へ迎えにいって顔を除き込んだ時の奇妙な感じです。

男は、彼女から話を聞いて安堵した様子で

「じゃぁ体が元に戻って喜んでも良いんですね!」

「死んでしまって喜ばしいかは分かりませんけど、大林さん!天国へ行ったら感覚も取り戻せて走ることも出来る様になりますよ!」

彼女も、なんだか喜ぶ男の姿に嬉しそうだった、草原の柔らかな風邪を受けながら男の体に合わせてゆっくり歩きながら男に聞きます。

「大林さん・・普通はワンちゃんが先に逝って虹の橋で待ってるはずなんです・・

大林さんは、先にこっちに来たみたいですけど待っててあげますか?

いろんな事情で先にこっちへ来る人は多いんでよ、どうします・・・?」

「僕もそのこと考えてたんですけど・・・・僕がどこへ行くか自分で決めれられるんですか?もしそうだとしても・・・・」

歩みを止めて、男は少し考え込んでから、

「僕の愛犬は、真っ黒なオスのパグでチャコって名前なんです、

体が不自由だったから、チャコの体に何か起こって僕の体のせいで手遅れに成るような

事があったらどうしようって随分悩んだんです、悩んで悩んで、悩んだ結果、、健常者の家庭へ里子に出すことにしたんですよ、つらかったなぁ・・・・」

男は愛犬の姿を思い描くように彼女に心中を話していく。

「人生で一番辛く過酷な時に片時も離れずいつも一緒だったから、

別れがたくってね、・・・

僕をじっと見つめるキラキラした瞳や、抱きしめた温もりが忘れられなくて

寂しくってね、食欲が無くなってしまったんですよ、フラフラして車に乗ったら気が付くと、毎日一緒に行っていた河原へいたんです」

男は目を閉じて、楽しそうに一心不乱に走り回る無邪気なパグの姿を思い起こしていた。

鼻ペチャでクリクリの大きな瞳、スングリムックリした小さな体を草にワザと擦るようにして行ったり来たり臭いにつられて立ち止まっては必死で臭いを嗅ぎ、フッと思い出したように夢中で走り始める。

「あの日は、そこに居るはずないチャコが嬉しそうに走り回っている様に見えてね、チャコが僕を見つけて走ってきてくれた様に感じたんです、しばらく幸せな時間が流れて気が付くと、あなたが目の前に居たんです・・・」

3ヶ月前の出来事。

その日は秋の訪れを感じていた前日までとうってかわってその年の猛暑をおもわせる様な暑い日だった、何も知らないチャコが新しく里親に引き取られる日だ、大林は走り去る車をいつまでも見送っていた、自宅前の駐車場代わりに使っている空き地に立ち尽くしていた。

我に返ると自分が決断した事の重大さに押し潰される様な感覚に襲われると、涙が溢れ出し嗚咽を漏らして泣いていた。

振り絞るように声を出して

「チャコ、元気でな!チャコ、チャコ・・・・・・」

大粒の涙が止めどなく溢れている、大林はそれからとゆうものチャコの気配に包まれては悲しみに襲われていた。

一人ぼっちになった恐怖にも似た感覚が大林の食欲を奪った、相棒の様に24時間いつも一緒だったチャコを手放してリハビリをする気力も失せてしまっていた。

予想以上のショックで何も手に付かなくなって夢遊病者の様に車に乗っては思い出の場所に出掛ける毎日だった。

チャコが居なくなって3ヶ月が過ぎようとする本格的な冬に入り寒さが厳しくなってきたある日、大林はリハビリを兼ねてよく訪れていた海岸で、チャコの着ていた服をゴミ籠で発見した。

それは以前にハシャギ過ぎたチャコが寄せては返す波にちょっかいを出してズブ濡れになってしまった時のものだった、ズブ濡れになったチャコの服を脱がせて体を拭いてやり海水で濡れた服をゴミ籠へ捨てて帰ったのだ、その服を着た姿のチャコが写真に多く残っている、無邪気に走り回るチャコの姿が蘇り一瞬にして楽しかった日々に大林を連れ去った。

そして我に返った大林は急に寂しくなって家に帰る気力を無くしてしまう、ほんの少し前までここで一緒にリハビリをしていたと想うとやりきれない寂しさだった、大林はそれから宛てもなく車で彷徨った、そして辿り着いたのが毎日夕暮れにチャコとリハビリに着ていた河原だった。

ひどい空腹を感じていたが思い出の詰まった河原へ降りてみた、厳しい寒さにコートの襟を立てて歩いてみる、大小の石ころに躓かない様にそっと歩いたがその場に力尽きてしゃがみ込んでしまった、寂しさと寒さが立ち上がる気力を奪っていた、そして空腹で立ち上がる体力も無い大林の目に、風に揺れる草がチャコの気配を運んできた、2ヶ月近くまともに食事を摂っていない大林の意識が遠退く・・・・・・。


草原で、彼女は立ち止まった男の正面に向いていた、掛ける言葉に困ってしまい動かなくなった男の左手を、両手でそっと包み込んで沈黙の中で男が話し出すのを待ちます。

男は決心したように、

「会いたくて寂しくて仕方ないけど、きっとチャコは幸せに暮らしているはずだし

チャコがこっちに来たときは、今の人を虹の橋で待つでしょうから、その人とチャコが天国に来た時に会えればいいですよ・・・」

男は彼女の優しさに素直な気持ちにさせられている。男の左手を包み込む彼女の手を右手でそっと離して

「でも不思議だなぁ~、君といると心が和らいで妙な懐かしさを覚えるよ!」

彼女は、男の言葉にはっとしました、

自分と同じ奇妙な感覚を男も感じているんだと思ったけど言葉にしませんでした。

「大林さん、森の奥の判定所を抜けるとまた草原があるんですよ、その場所へ行けたら・・・、大林さんはたぶんその草原へ行くことなると思います、その草原の終わりまでご一緒しますね」

「ありがとう」

男は彼女の言い回しが少し気になったが深く考えなかった、そして二人はまた森へ向かって歩き出した。

途中に小川が流れている、彼女はそっと小川に足を差し込んで

男の方を振り返って嬉しそうに笑顔を見せた。

すると彼女の影が覆った小川の水面が嬉しそうにパシャパシャと跳ね上がった。

男は、不思議そうにその光景を眺めながら、平穏な気持ちでいる自分に気が付いていた。

「さぁ、渡りましょ!」 と彼女が声を掛けて男に手を差し出した。

「ありがとう」

男は、彼女の手を掴んで小川に入っていった。

小川は浅く流れる水は澄んでいて水草が水中で揺れているのが見えるほどだ。

男の足は徐々に感覚を取り戻していっているように感じられた、

足の裏に感じる水底の砂を踏み締める感覚が心地よかった。

突然、「きゃっ!」 と彼女が水草に足を取られて転んだ、

それでも彼女は、楽しそうに水の中をゴロゴロ転げ回って笑っている。

男はその光景が不思議に懐かしく感じた、微笑ましい気持ちで彼女に手を差し出して起こしてやって、小川を渡りきった。

自分の奇っ怪な振る舞いに男が訝しげな表情を浮かべている様に感じた彼女は、照れ笑いを見せて、体を小刻みにブルブルっと振って水を切った。

「君は、不思議な娘だねぇ」

男の言葉に照れ笑いを浮かべて

「私、いつも水を見ると飛び込みたくなっちゃうんです、今日は大林さんが一緒だからやっちゃいけないとおもってたけど・・・

さぁ行きましょ!もうすぐ森ですよ、人それぞれだけど森を抜けるのはすぐなんですよ」

しばらく無言で森を目指して歩いている二人だったが不意に彼女が男に話し掛ける、

「大林さんは、どうして体が不自由になっちゃたんですか?生まれつき不自由だったんですか?」

男は少し照れくさそうに

「生まれつきじゃないんですよ、自分で商売を始めて一年程してからストレスで脳梗塞になってね、後遺症で左半身が麻痺してしまったんだ」

働き盛りで、重要な仕事を終えてやっとこれからだと思った矢先に倒れてしまった自分の不甲斐なさをおもうとやりきれなくなっていた。

それは開店して一年が来ようとしていた冬の終わり頃だった。

男は繁華街に3階建てのビルを借りて1階を店舗2階を事務所兼作業場にあててCDショップを営んでいた、階段は細くて急だったが2,3階は住居用と貸し出されていたので事務所として使っていた、20畳程ある2階の部屋にはシンクがついていて、隣の部屋にはトイレ、浴室が完備されていた。

徹夜で事務処理をするときは3階へ資料を持って上がって作業し、そのまま泊まる事もあった。

そんな時は、翌日の早朝家に戻って当時飼っていた愛犬にご飯と水を与えてまたすぐに店に出ていた。

その日は確定申告の為の資料を税理士に手渡した日だった。オープン用に仕入れした商品や備品の領収書類が膨大にあった、整理仕分けに数日徹夜が続いていた。

そして助成金の申請が承認され助成金がおりる事に決定したと連絡が入った日でもあった。

助成金の申請をするために何度も役所へ足を運び複雑な書類を何度も訂正を求められやっとのことで申請することが出来たので嬉しい知らせだった。

男は安堵し一息ついていた時にそれは襲ってきた。

他県へ出張販売して帰ってきて間もない事もあって疲労が溜まっていたのか?

朝から急に体がだるく感じていた、タバコを吸っていた左手首が突然倒れて膝に火の付いたままのタバコが落ちたのだった。

この時は特別何も感じなかったが右肩を掻こうとした時左手首がゆうことを利かなかった急に怖くなってトイレに行って落ち着こうと立ち上がろうとした瞬間だった、今まで経験したことない程のあり得ない態勢でひっくり返って立ち上がる事が出来なくなっていた、ほんの1~2分の間の出来事だった、すぐに救急車で運ばれたが入院中にますます症状は悪化していった、脳幹にも傷が及んでしまったらしいのだ。

「そうなんですか、辛かったでしょうね」

「そうでもないよ、心が折れてなかったからね」

男は嘘をついていた、確かに退院後の男は元の自分に戻ろうと人目のない場所を探しては懸命にリハビリをしていたものの、一人ぼっちのいい知れない恐怖と戦ってきたのだった。

彼女も、なんとなく男の奮闘ぶりを見て知っていた様な気がしていた・・・。

彼女は何かを思い出せそうな気がしているが、あまりにも漠然としていてもどかしさだけが彼女を襲っていた。

彼女は深く詮索するような話をすることがためらわれた、

そして二人は、たわいもない話しをしながら森へと入っていく。

そこは、森と言うより林にちかく、木漏れ日が差し込んでいた。

男は、不思議そうに森の中を見回しながら、

「本当に、鳥の囀りさえ無いね、動物はいないんだなぁ・・静かだ」

「そうですね、みんな虹の橋へ行ってから天国へいくみたいですから、でもね私達に見えていないだけでね私達の回りには大勢の魂が判定所へ向かっているんですよ」

彼女の話に少し不気味さを感じたが、二人の足音だけが聞こえる静けさの中で男は目を懲らしてみた、

すると自分達と反対方向へ進む人影が一瞬うっすらと見えた気がした。

「ねぇ君、今僕らと反対方向へ進む人影が見えた気がしたんだけど?」

「それは、残念ながら地獄へ向かう人の魂だとおもいます、人に嘘をついて欺いたりして人を傷つけたりした人は私達が渡ってきた小川の向こうが地獄になっていて心を開放出来ずに永遠に苦しんでそこから抜け出せないんですよ、さぁ着きましたよ」

そこは突然に現れた。

「ね、すぐだって言ったでしょ!」

彼女は、男へ振り向いてそう言った。

「判定所って言うから裁判所の様な建物があるのかと思ったよ」

「それは人それぞれイメージの問題ですよ!

本当は、森を歩いてるうちに知らない間に判定されてそこに辿りつくんです、

だからさっき大林さんが見た魂は同じ方向から入ってまた同じ方向へ知らない内に出て、あの小川の向こう側へ辿り着いて自分が地獄にいるんだって知ることになるんですよ」

「そうなんだぁ・・なんだかこわいね!」

「私達も、いつ森を抜けられるか分からないから森の中の判定所って言っているんです」

男が眺めている景色は、草原の所々に赤や黄色の花がそよ風に揺られている、あきらかに先ほどまでいた草原と違って見える景色だった。

二人はその草原へと足を踏み出し歩き始めた。

男は気持ちの良い陽気のせいか、沈黙に耐えれなくなったせいか?特に興味が有ったわけではない質問で彼女に話し掛けた。

「さっきは、初対面だったし僕も状況が飲み込めなかったから聞かなかったけど、君はどうして名前がないの?」

「名前がない訳じゃぁ無さそうなんですけど・・・ごめんなさい、自分でも分からないから言わなかったけど、私ここに居る時の記憶しかないの」

「えっ、過去の記憶がないってことなの?」

男は意外な彼女の答えにあまり驚いて見せては気の毒だと思ったが

ついつい言葉を詰まらせてしまった。

「そんなに驚かないで」

案の定彼女は少し傷付いた様子だった。

「ごめんよ、君も誰かが死んでここへ来た人の魂なのかなぁ~?」

男は無神経すぎた言葉を取り繕う様にいう。

「僕はてっきり君は神様の使いの天使かと思ったよ、」

「だったら私、悲しいわ」

「どうしてだい?」

「毎日、こうして死者の魂を案内するのはけっして楽しいことじゃないんですもの、

特に地獄へ案内するのは・・・」

彼女は、少し憂鬱そうな表情を浮かべた。

「そりゃぁそうか、悪いこと言っちゃたね、ごめんよ・・

僕は、君といると奇妙な感覚を覚えるんだ、」

彼女は男の言葉にまたハッとさせられた、何かスッキリとしないもどかしさで

平静を装うことが難しくなりそうな不安感を覚える。

「先輩は、時が来ればすべて理解できるからってしか教えてくれないの」

「意味深な言葉だね・・・・」

”余計な質問をして失敗したなぁ”男は深く詮索するような事を聞くのは止めておこうと思った。

また二人は、しばし無言で歩いて行く。

男は、何年もの間忘れていた普通に歩く感覚と、春の日に覚える幸福感を満喫しながら愛犬の顔を思い浮かべていた。

「大林さん!」

不意に呼ばれて我に返った男に彼女は、

「この近くに私のお気に入りの水飲み場があるの、すぐに行って帰ってくるからゆっくり歩いて真っ直ぐに行っててください」

そう言うともの凄い早さで駆け出して行ってしまった。

彼女は、この日始終感じている奇妙なもどかしい気持ちを落ち着けるため男から少しの間離れて冷静さを取り戻したかった。

男が、こんなところで水って不思議な娘だな~と思っていると、しばらくしてまた凄い勢いで彼女が帰ってきた、息を切らす彼女に、

「そんなに急いで帰って来ることないんだよ!

まだ目的の場所って遠いんでしょ?」

息を整えながら彼女は、

「距離じゃないんです、その人にとって必要な時間なんです・・」

「森を抜けて随分歩いた気がするけどねぇ」

「それは、大林さんがまだなにか心に残していることがあるからじゃないのかな?って思いますよ!」

チャコのことかな・・・?

男は、最後に会えなかった事は残念に思っているが、里親になってくれた人がただ可愛いだけで可愛がってくれているのじゃなく、チャコを愛してくれているを知っているので心配はしていなかったが、

一つ気掛かりな事はあった。

「大林さん、私は道先案内人って言いましたけど、本当は道じゃなくて心の方だと思うんです、

だから心に残してあるものが有ったら喋って心を開放してくださいね」

「そおかぁ・・じゃぁその時が来れば自然と辿り着いちゃうんだね」

「そうですよ、だから誰にも話せなかった事があったら話して下さいね!」

「じゃぁ、誰にも話せなかった事聞いてくれるかい?」

男は、ポツリポツリ語り出した。

「パグの男の子にチャコって女の子みたいな名前って変でしょ?」

男の斜め前を歩いていた彼女は、男の方を振り向くでもなく首を横に振った。

そんなこと無いですよ、と言わんがばかりに無言で・・

「僕は、営業回りの仕事をしている時に、捨てられていたメスのビーグル犬の赤ちゃんを

連れて帰ったんだ、まだ当時は僕の母親も健在でね、息子が仕事から帰ってくるなり

子犬を連れて風呂場へ入って行ったから驚いていたよ」

母親の懐かしい思い出を重ねながら回想にふけって話を続けた。

ビーグル犬は黒と茶色の斑模様が特徴的なのが一般的だが

連れ帰った子犬のビーグルは薄茶色っぽくビーグル犬らしくなかったが、耳が大きくて垂れていた、

それが唯一ビーグル犬らしい特徴だった、

捨て犬ではあったけど、ひどく汚れた感じは無く、あまり匂ってもいなかった

「帰りに犬用品とか何も買って帰らなかったから僕のシャンプーで洗ってやったんだ、

気持ち良さそうにグーグー言ってたよ・・・」

もう20年以上前の記憶を鮮明に思い出しながら、男の顔は少し嬉しそうだった、

彼女は、時たま男を振り返って見ては表情を確認して歩いて行く。

「体を乾かしてやって放してやるとね、初めての家の中を珍しそうにクンクン嗅ぎ回ってウロウロしてね、台所で夕食の用意をしている母親のところへ尻尾ふって近寄ってまるでご飯の催促してる様だった

なぁ・・・ 」

大林の家族は、弟と妹そして母親の4人家族だった、父親は早くに亡くなっていた、

弟は大学を卒業後、県外の大手企業に勤め同居していなかった。

台所に立つ母親の後ろ姿は、仕事と家事に忙しく疲れ切っている様で服装や髪型に

気を使う暇などないように見た、エプロン姿で家族の食事の用意に慌ただしくしている姿に大林は申し訳ない気持ちを覚える事があった、足下に寄ってきては物珍しそうにクンクンと臭いを嗅ぎ回る子犬に構ってやる余裕などなくチョンと踵で子犬を追い払う仕草をみせた、それでも子犬はよほどお腹が空いていたのか台所の母親の足下へ何度もすり寄っていた。

「でね、リビングでみんなで夕食をとりながら名前を何にしようかって話をしてたんだ」

ビーグル犬はご飯に煮干しをのせて味噌汁をかけてもらって有り合わせの容器に盛ってもらったご飯を必死で食べていた。

「もちろん母親は、ご飯は用意してくれたけど『捨ててきなさい』って言ってたけどね、

、母さんは女手一つで僕ら三兄弟を育てるために仕事と家事で大変な苦労をしてきてたからね、気持ちは分からなくでもなかったけど、僕はどうしても見捨てる事が出来なかったんだ・・・

で結局捨て犬は可哀想だねってことで飼うことにしたんだ、母さんは優しい人だったからね・・・」

男は母親の話をすると懐かしさの中に寂しさを覚えている様だった、

「僕が名前を『小さいメス犬だからチ子にしよう』って言ったら母さんが『それじゃぁ、前のお宅のワンちゃんと同じ名前になるから気まずい』って言うからチャコにしたんだ」

初めて出来た家族にはしゃぎ回るチャコは嬉しそうだった。

食事をしている家族のまわりをウロウロしたりソファーに飛び乗ったりしていたがやがてリビングの片隅に置いてあるクッションに自分の居場所を見付けたようでのんびりと収まっていた、慌ただしい一日に疲れたんだろう目を閉じて深く息をついた、時折家族の話し声に反応するように片目を開けては家族の様子を見てまた目を閉じた。

「当時、僕はまだ犬は庭で飼うものって認識しかなかったから、半年ほど経って成犬の大きさになった

チャコを庭で放し飼いにしようと犬小屋を買ってきて庭に放してやったんだ、最初は嬉しそうに庭をグルグル駆け回っていたんだけど、家族が家の中へ入って顔が見えなくなったら寂しそうに鳴き出してね・・・僕を必死で呼んでいたんだろうなぁ・・・」

当時の思い出が走馬灯の様に男の頭に浮かんできた。

子犬特有の好奇心一杯だったチャコは、庭の隅々まで臭いを嗅いではフッと我に返った様にダッシュしては息ををぜいぜいと切らしていた。

忘れていた記憶が幸せなものとばかりは限らない、それが男を苦しめはじめる。

彼女は、無言のまま男と手を繋いだ、男は思い出の中にいてそれに気付かない。

「犬の気持ちかぁ・・・」

男はつぶやく。

「パグに出会わなかったら気が付いてやれなかっただろうなぁ・・」

男は、誰に言うでもなくつぶやいて、自己嫌悪に苛まれ出した。

「僕はね、何年経っても庭で吠えるばかりするチャコの気持ちを考えもせずに、吠える度に近所迷惑だ!って、チャコォォ!!って大声で怒鳴りつけちゃってたんだよ・・・あまりにも吠えるばかりするから

口を両手で握って僕の顔に近づけてじっと目を見て駄目だって事を教えようとしてしまったんだ、

その時のチャコの悲しそうな目がね、どうして気付いてくれないのって言ってる気がするんだよ、

言葉が喋れないあいつの気持ちに僕は気を付けてやる事が出来なかったんだ!」

チャコの気持ちに気付かない浅はかな考えだった自分にいたたまれなくなってきた男はふさぎがちになって下を向いていた。

彼女は、真っ直ぐ前を向いたまま男の手を引いて力強い調子で歩き続けた、

男に掛ける言葉はなかった。

「僕には、家族もあったし彼女もいた、友達も会社の仲間も大勢いたけど

チャコには僕しか居なかったのになぁ・・・・」

男は下唇を噛んだ、急に感傷的な気分になってしまった様だ。

男にチャコと一緒に散歩していた思い出が蘇ってくる。

「当時、僕の家はね市街地を少しはずれて、国道からもそれた丘の上の住宅地にあったんだ、

住人以外の車の出入りは少なくて静かな場所でね、住宅地の外れに裏山へ抜けるアスファルトで

舗装された坂の小道があってね、その小道沿いにゴルフの打ちっ放しの練習場があって夜遅くまで

ライトでてらされているんだ、そこを下っていくと農家が数件あるだけでね、すぐに裏山へ

通じる道があって、チャコを散歩させるにはもってこいの場所でねぇ・・・」

大林は、夜の遅い時間に散歩をさせていた、住宅地はリードを付けてチャコを散歩させてやり、

住宅地の外れまで行くとそこからはリードを外してやって自由に歩き回らせてやっていた。

彼女に引かれる手の感覚がチャコに引っ張られるリードの感覚と重なって本当にチャコを散歩

させている気分になっていく。

目を閉じると、散歩に夢中になって男から離れてしまった事に気が付いては、振り返って男の姿を確認して安心してまた歩き出すチャコの後ろ姿が目に浮かんでくる。

「ある日、いつものように裏山の入り口に向けて下る小道でリードを外して散歩させている時だったなぁ、アスファルトの脇に生えた草むらをチャコが歩いていたら”キャン!”って鳴いて足を痛そうにしてビッコで僕のところへ戻ってきた事があったよ、散歩を途中止めにして家まで抱きかかえて帰った事もあったなぁ・・・」

男は思い出に入り込んで独り言を喋っているようだ。

彼女は、男の話に耳を傾けながらなにやらそわそわしている、

男は、相も変わらず思い出の中で彼女の様子は気にしていない。

「僕が、しょっちゅう大声でちゃこ!って怒鳴っていたから近所の人はみんなうちの娘がチャコって名前だってを知っていたんだ、

そうしたらある日ね、どこの家の子か分からないけど小学生の低学年らしき三人組の女の子が、僕の家の門のところへ来て、『チャコちゃ~ん』って呼ぶんだ、その日僕は休日で家に居たんだ、僕はたまたまベランダで洗濯物をほしていたからその光景を見てたんだけどね」

大林の職場は、外食産業関連の顧客ばかりだった為に週末の連休を取ることが難しく平日の水曜日と日曜日のいちよう週休二日だった。

「そしたら庭で昼寝していたチャコが嬉しそうにその子達の方へ尻尾振って近づいていくんだよ、

その日から度々その女の子達が遊びに来るようになってね・・・僕が仕事の日も遊びに来てくれたのかも知れないけどね、

僕は、チャコに友達が出来たんだと思って、少し嬉しかったんだよ・・・」

男の思い出は幸せだった時に変わって来ている様子だ、ふさぎがちだった顔が上を向いて目を閉じて笑みをこぼしている。

「チャコはね、よく庭から脱走して困ったもんだったけど、ある日また庭に居ないや!っておもって通りを見たら友達の三人組の女の子と帰って来るのが見えたんだ、

それが女の子四人で楽しそうにスキップしてる様に見えたんだ・・・

嬉しそうなチャコの姿を見ると僕はさすがに脱走したことを怒れなくてね、遊んできたの?楽しかった?って気持ちになって優しく庭へ入れてやって頭を撫でてやったもんだよ!」

大林はあの時は本当に楽しそうな四人の女の子に見えた事が不思議だった。

今でも一枚の写真の様に思い出す光景だった。

ちょっとした脱走犬で近所では有名だったチャコは、近所の酒屋でお菓子でも貰ったのか、とても嬉しそうに3人の女の子と横並びで歩いて帰ってきていた、時たま女の子達を見上げるように、そのウキウキとしたチャコの表情が大林にスキップをしながら帰ってきている様に写ったのだろう。

「僕は、会社の仲間とよく飲みに行っては夜中に帰る事が多くてね、でもチャコは何時になってもちゃんと出迎えてくれたんだ、母さんは僕にいつも『夜中に帰ってきてチャコと騒がしくすると近所迷惑だからチャコにかまったら駄目!』って僕を叱ったもんだよ・・チャコは庭で一人ぼっちにさせられて寂しくてしかたなかたんだね、だから僕が帰宅すると嬉しくて仕方なかったんだきっと」

閑静な住宅地では夜中の車の出入りだけでも騒がしく聞こえてしまう、

大林にとっては叱られた思い出と言うより平穏な日々の思い出の様だ。

「正月には、家族揃って母さんのおせち料理で雑煮を食べておとそで乾杯して庭でバーベキューをするんだけどね決まって焼くのはタラバガニと殻付き牡蛎なんだ肉を焼くと煙が出て近所迷惑だからね、そんな時一番はしゃぐのはチャコなんだ、普段は家の中と外で仲間はずれにされてる気分だったろうけど、その時ばかりはチャコを囲んでみんなでバーベキューを楽しむからね、」

一番家族を恋しがっていたのはチャコだったなぁと思うと胸が詰まった。

「タラバガニと牡蛎のバーベキューはよくやったんだよ、会社の仲間とか呼んでね、」

男は、矢継ぎ早に思い出話を続ける、まるで早く話さないと思い出が逃げて行くことを恐れているかの様だ、あふれ出る思い出話は男が長い間孤独だった証みたいなものだった。

「チャコが知らない内にタラバガニの脚を一本くすねて土の中に隠してた事もあったよ、

見つかったら怒られるとおもったのかな?・・・」

大林は職業柄、一般では手に入りにくい食材を安く買って帰っていた、業務用食材を営業して回るてまえ料理人達と対等に話をするため食材の知識はプロ並みになっていた。

タラバガニも会社で取り扱っている商品だった、特に5キロ箱に2肩半しか入ってない特大サイズのタラバガニは喜ばれた、バーベキューの時に1肩丸ごと網にのせて焼いていると豪勢に見えた、牡蛎もシーズンになると漁港の市場へ出向いて一斗缶に2000円程で気軽に手に入っていたもんだった。

ある何でもない日にチャコが隠しておいたタラバガニの脚を咥えて庭をウロウロしている姿を思い出していた。

彼女は、相変わらず男の手を引いて歩いている、少し歩調が早くなっているみたいだった。

男は、自分勝手に思い出話をしている自分に気が付いて、彼女に

「少しここらで腰を下ろして休もうよ」

と言うと、彼女も我に返って

「そうですね、ちょっと休みましょうか、楽しそうに話す大林さんの思い出話に、私もつられて歩くペースを気にするのを忘れてました」

「いやぁ~、楽しかったよ、誰でも愛犬との思い出は多いと想うけど、他人の犬の思い出話なんて誰もきいてくれないからね・・」

「もっと話してくれてもいいですよ、」

二人は草の上に腰を下ろして遠くを眺めていた。

男はさっき反省したばかりなのにまた聞いてしまった、

「君は走るのが速いから何かのスポーツ選手じゃなかったのかな?」

「まだはっきりと思い出せないから分からないんですけど、違うと思います・・・

漠然とした予感しかしないけど違うとおもいます・・・」

またもどかしさに襲われ沈み込みそうになる彼女の様子に男は余計なことを言ってしまったと気付いて何か取り繕おうとしようとした

「いいんだよ無理して思い出そうとしなくも、自分勝手に思い出話して君の存在を忘れてたから、話し掛けたかっただけなんだよ」

「私の事は気にしないで話してみて下さい、大林さんの”その時”が来るヒントが心のどこかに隠れてるかも知れないんですから」

彼女も男の気遣いを察した。

「僕もこんなにもビーグルのチャコの事を思い出すなんて思わなかったよ・・・」

「自分では気が付かないところに傷があったりするんですよ」

「パグのチャコに出会ったから犬の気持ちが分かる様になったんだなぁ~・・・

最後に一目チャコに会いたかったなぁ~せめて一度でいいから一緒に走り回ってやりたかったよ・・・・僕はあいつを連れて車でいろんな所へ行っては懸命にリハビリをしたもんさ、何度も大怪我をしながらね、あいつだけさ僕の苦しむ姿を知っているのは・・・」

男は、パグのチャコとリハビリに励んでいた頃を思い返していった、杖をついての懸命なリハビリだった、スタスタと歩けていた頃の記憶を頼りに病院でのリハビリ方法を思い起こして参考にしながら、自己流で間違った方法に陥らないように歩き続けた。

動かない体のもどかしさが肉体的と精神的な苦しみに変わってくる、そんな時一心不乱に走り回るチャコの滑稽な姿に癒されるのだった。

すると不思議とビーグルのチャコの姿がフラッシュバックして見えてくる。

そんな男の胸の内を知るよしもない彼女は

「大林さん、話の続きをしてみてください」

我に返って男は

「ああ、そうだね話が少し逸れちゃったね・・・

しばらくしてね、母さんがね癌だって事が分かったんだ、僕は自分で言うのもなんなんだけど、献身的に尽くしたよ・・母さんが病気だって事が分かる前までは二人っきりで食事をするのもなんだか照れくさかったんだけどね、母さんの弱った姿をみるとさ自分自身の心に甘えは許さなかった、これ位でいいやとか出来るだけとかは許さなかったんだ、どれだけ仕事で大変だってやるべき事にたいして理由をつけて仕方ないって事は絶対にしなかったんだけどね・・・力が足りなかったよ

就職して県外で離れて暮らす弟が結婚して子供が生まれててね、初孫の成長を楽しみにしてたんだ母さんは・・・最後の言葉が孫の顔を見て”かわいいねぇ”って言ったきりになっちゃたんだ・・・

しばらくは、空を見上げると母さんが笑っているように見えたよ、

僕に”泣かないの!”って言ってる気がしたよ・・・・

昔にテレビドラマのシーンで見て嘘くさいなぁって思ってたけど、本当にそう見えたんだ

母さんが病気になって僕が献身的に尽くしていると、会社の上司や仲間が凄く良くしてくれたんだ、ありがたかったなぁ~、

だからって言う訳じゃないけど葬式をして貰った教会の孤児院へみんなから貰ったお花代を全額寄付したよ、誰か困っている人を助けたかったんだ・・・」

大林の介護は献身そのもだった、朝目覚めると一番に天気が気になった、母親の気分転換を兼ねて食材の買い出しに近所のスーパーへ連れて行くのが日課だったからだった、一流ホテルのレストラン並の食事を食べさせてあげたい、そうすれば食欲も沸いてきて食べてくれるのじゃないか?そう考えていた、食事を摂って体力が戻れば抗がん剤の治療が受けられる、命が一年でも二年でも長らえることが出来たなら、清々しく深呼吸が出来る日が訪れてくれるなら桜見物でもしながら孫を抱っこせてあげたい、大林は必死の思いだった。

仕事は会社の上司の計らいで、一日の内数時間だけ出て自分のやるべき仕事だけ片付けたら丸一日出勤してたことにして貰っていた、会社も大林の仕事の質を受け継げるだけの人材が係長クラスにも居ないことを知っていた、顧客からの信頼が厚かった大林が会社の業績のためにも必要だったのだ。

大林もこの事に天狗になっていなかった、いつも感謝の気持ちを持っていた。

大林は何をやらせても起用だった、母親のために初めて作る食事も毎日自炊をしていたかの様だった、

職業が役に立っていたのだろう、毎日営業でレストランや旅館の厨房に出入りしている中で目にした料理人達の技を覚えていたのだった。

料理人達の賄い飯をよばれることもしょっちゅうだった、年齢も30代に入り職場の同僚や後輩達を連れて食事に行くのも高いランクの店が多くなり舌も肥えていた、自分の味わった美味しさを母親に食べさせてあげたい

常々そう考える様になっていた。

大林が母親に献身的に尽くしていたのには理由があった、父親が早くに亡くなっていたため女手一つで子育てをしていた苦労を見てきていたからとゆうこともあったが、元来頭の回転が速く心根の優しい性格だったからだとも言えよう。

ある夜、突然に

「お母さんの様子がおかしい、お兄ちゃん病院へ連れて行ってあげて」

と妹に起こされて慌てて車を走らせてから急になだれ落ちる様に母親の介護にいたる経緯にも理由が有った、掛かり付けの病院での診察はいい加減なものだった為に、近くの大学病院へ紹介状を書いて貰って訪ねた。

数日間の検査入院からの転院して診察とゆうこともあって、食事を摂っていなかった事が分かるといきなりの胃カメラの検査になった、怯える母親の姿に大林も動揺を隠しれなかった。

検査室からハンカチで口元を押さえながら痩せた体で力なくヨロヨロと出てきた母親の肩に手を添えて支えながら廊下のイスに腰掛けようと寄り添う大林に、か細く震える声で

「昭規、お母さん癌かもしれない、検査していた若い男が面白半分に『ここにもある、うわっ!こにもある』って言ってたの、家に帰りたい生きて帰れるなら胃でも腸でも取ってもらいたわ、昭規助けて」

息子にすがりつく母親の弱気な姿を見たのは初めてだった、

「母さん大丈夫さ、僕が先生にしっかり話を聞いてくるよ、絶対に母さんを死なせたりさせるもんか」

大林は強がってみせ、母親を安心させたかった、内心不安で心細かったが悟られない様にしていた、この事が大林を献身的な介護へ向かわせた。

母親の死の悲しみを乗り越えようともがき苦しんでいた当時を振り返る。

「母さんが死んでしまった後に子供達に内緒で飲んでいた薬を見つけた時は、苦しかったよ、体調が良くない事を自分でも不安に感じていたんだと思うと辛くなったよ・・

犬の躾の本も有ったよ、なんだかんだ言ってもチャコの事を一番気に掛けていたのは母さんだったからね、」

肉親の死に直面したらどれだけ尽くしても、どれだけ頑張っても後悔は必ず残る、

男の心に母親の死に対する悲しみは癒えているものの寂しさは残っている様子だ。

「チャコはねぇ、母さんが死んでしまった日は、日頃と様子が違っている雰囲気に不安そうでオロオロしてたよ・・・」

空が白み始める早朝に母親の遺体を自宅に連れ帰っていた。

その日自宅には、日頃顔を見せない親戚やら、訃報を聞いた大林の友人や会社関係の人達が重々しい雰囲気で出入りを繰り返し騒々しかった。

「チャコは、寂しがりやで愛情に敏感な子だったからね!きっと悲しみを感じてたんだと思うよ・・」

「大林さんの死を悲しんでる人も居るんじゃないの?」

「僕は、体が不自由になってから親族の厄介者だったんだ、きっと清々してる奴の方が多いさ!人前では泣いてみせるだろうけどね・・・」

「そんな悲しい事言わないで」

「僕も、ひねくれた事は言いたくないけど事実なんだよ、生活に困っている事は容易に想像出来たはずだけど誰一人として生きている時に近寄ろうとはしなかったもんね・・」

男の話す事はただの被害妄想ではなかった、こんな事を言いたくなる様な場面に遭っていた、自分で事業をして裕福に勝手気ままな暮らしをしていた大林が体を不自由にした途端に妬みともおもわれる仕打ちに何度となく遭って来たのだった、特に叔母の妬みは醜く体が不自由で思い立った時に素早く行動出来ない男の先回りをするかの様に誹謗中傷してふれ回っていた、男が何かおかしいなぁ、歯車が合わないなぁと感じる先にはそうした親族の影が見え隠れしていた。

彼女は帰す言葉に詰まった。

「僕の心の救いはチャコだけだったんだ、ビーグルとパグのね・・・

僕はね、母さんが死んでしまった後も、長い間遺骨を家においていたんだ、毎朝、冬は熱いお茶を夏には冷たい麦茶を入れてあげて、夕食も必ず手作りでね、生きている時にしてあげていた様にね、そして好きだった薔薇の花で遺骨の周りを飾っていてあげてたんだ・・・」

台所に立っていると、隣の部屋に飾っている母親の遺影が大林を見守る様に見えていた、だから大林は台所仕事をしていると安心感をおぼえていた、

男は、愛する者の気配はすぐに消えない事を実感していた、

流れゆく歳月の中でゆっくりとゆっくりと薄れていく、それはまるで遠く離れた知人からの葉書が次第に途絶えだして思い出に変わっていくかの様に。

「母さんが死んだ後も会社の仲間は、良くしてくれたんだ、本当に感謝してたよ、

母さんの死は悲しかったけど、仲間に囲まれて幸せだったよ、

その幸せを困っている人に分けてやりたいと考えていてね・・・、

友人の一人にレコード屋へ勤めている奴が居て、休みもろくになくて給料もまともに払ってもらえないから、”独立して自分で店をやりたい”っていつも色んな場所で愚痴っててね、周りの友達もそんな職場は辞めちまえって言ってたんだ、でもそんな友達から”あいつに自分で店なんか出来るわけないって”言われてたんだ、僕はそう言う裏表がある人間が嫌いでね結局僕が力を貸してやるって言っちゃたんだ・・・

僕は、世話になった会社に新規で大口得意先の契約を取って、それを置き土産に会社を辞めて友人を助ける為に一から店作りに奔走したよ、」

大林には友人をたすけてやるに至った秘密の事情があった、亡くなった母親が生前に唯一楽しみにしていた孫の明良が数ヶ月後、先天性の発達障害を抱えていることが分かったのだった。

大林がその子と初めて会ったのは母親の入院の見舞いに訪れた弟の龍太が子供を連れて帰ってきたときだった。

お嫁さんに抱っこされて母親の病室に入ってきた時の一瞬の出会いで心が通じ合った気がした。

明良は初対面となる叔父にあたる大林に目を輝かせ満面の笑顔を向けた、大林ははじめ子供に興味がなかったが、その笑顔とクリックリの眼差しに心を打ち抜かれてしまった。

その子が発達障害を抱えて言葉がうまく話せず伝えたい事を伝えられずに苦しんでいるとおもうと酷く心が痛んだ。

弟の龍太は積極的に子育てに関わり自閉症を抱える親達が参加する支援団体の地域支部長まで務めていた、同じ病を持つ子供を抱えた人達の子育てに経験を生かしてアドバイスする頼れる存在となっていた。

本人達は外から見るほど不幸では無い、苦難を克服する幸せを与えられた家族の様に笑顔で暮らしている、

大林が友人を助けてやらずにいられなくなったのは社会的弱者を見て見ぬ振りをすることが甥っ子が理不尽ないじめを受けているのを見て見ぬ振りをするのと同じと感じていたからだった、そして不幸ではないにしろ明良の将来に一抹の不安を覚えているであろう弟夫婦に明良の将来の就職口を作ってやりたかったからだ。

店舗地選びで不動産屋を巡ったり、店のロゴマークのデザインの打ち合わせでデザイナーの所へ行ったり、店舗の改築のため建築技師と度々打ち合わせをして商品集めで知人に声をして回ったり、広告の打ち合わせに新聞社へ出向いたりその他オープンに必要だった雑用の全ての段取りに慌ただしく動いていた当時を思い出していた。

「でもねぇ・・苦労してやっとここまできたかって思う度に、問題が起きるんだ、力を貸してやったその友人だよ、何にも気を配れないから凡ミスを繰り返してね仕事が増えるばっかりさ・・・」

店をオープンさせたのは4月の終わり頃ゴールデンウィークに合わせてだった。

大林が助けてやることにした友人とは、中学時代の高原とゆう同級生だった、

背が低く、ぷっくりと出たお腹に黒縁めがねをかけた容姿は、その男のだらしない人生をよく物語っていた。

大林は学生時代の高原の事は全く記憶に無かった、高校を卒業して友人の家で音楽に没頭している頃にふいに遊びにやって来るようになった高原と知り合ったのだ。

高原は口下手で内向的な性格だったが、その奇っ怪な振る舞いや言動が大林達を笑わせていた。

大林はハードロックに夢中になってギターを弾いているいる時期だった、高原も同じ趣味を持っていてギターを得意げに弾いていた、見た目に似合わない趣味を持つ高原に大林は興味を持ちその頃から深い親交を持つ様になっていった。

大林は海に山に友人達とバーベキューを楽しむためよく出掛けていた、そんな時高原はいつも置いてけぼりを味わっていた、のけ者にされていた訳じゃないレコードショップに勤めていた高原はサービス業だったから休みが友達と合わないからだった。

日頃親しく付き合っていた大林はそんな高原を放っておけなかった、自分の有給休暇を高原の休みに合わせて取っては高原のドライブに付き合っていた。

口下手で内向的な高原に彼女など出来るはずもなかった、大林は自分の彼女は紹介したが

高原に彼女を作らせようと女性を紹介するのは避けていた、別の友人の結婚式で新婦の女友達に奇っ怪な行動を気持ち悪がられて敬遠されていたのを目の当たりにしたからだった、高原は普段友人を笑わせていた振る舞いを気持ち悪がる女性達を笑いのセンスが無いくらいにしか考えなかった。

それでも大林にとってこの情けない人生を送ってきた高原は放っておけない存在だった。

そんなある日のこと、大林が仕事の帰りに高原の勤めるCDショップでCDを2~3枚買い仕事を終えようとしていた高原を自宅へ送ってやることになった時だった。

「高原、ラーメンでも食って帰るか!」

「良いねェ、でも俺今日も金持ってねェよ!でも今日は大林に話したいことが有るから行こうか」

そお言うと店のレジから現金を抜き取って帰り支度を始めた。

高原は、レジから金を抜くのは給料の未払い分を払って貰っただけとしか認識がなかった、犯罪行為とは考えてもいない様子だ。

高原が金を持ってないのはいつものことだった、気にせず大林は高原を乗せて自宅近くの郊外にあるラーメン屋へ車を走らせた。

注文をすませ水を一口飲んでタバコに火を付けて高原が話し出した。

「大林、今日やっと独立するから辞めますって社長に辞表を出したよ」

日頃から口だけだった高原が妙に晴れ晴れとして自慢げに言った。

「そうかぁ、ついに本気でやる気になったのか、でこれからどうするんだ?」

「おう、店長が一月遅れで辞めるからそれまでに計画を練るよ!」

「ちょっと待てよ、店長ってお前がいつも悪口言ってたあの店長か?一緒にやるつもりなのか?」

「お、おお、そのつもりだけど・・・」

運ばれてきたラーメンの湯気にめがねを曇らせながら言った。

「高原、お前いつも言ってたじゃないか、給料の未払いやボーナスが支給されなくなったのは店の売り上げが悪くなったからだって、その原因は店長が新譜が出たら出ただけ仕入れをしては売り残して不良在庫を大量に抱えるからだって、大丈夫なのか?そんな人と一緒にやってさぁ、よく考えろよ!」

よくよく話を聞いてみると自分で独立して店を始める訳じゃなさそうだった、

日頃不満を口にしていた高原を誘って店長が店を始める話しに、高原が乗っかっただけらしい。

「それは止めておけよ、店長とだけは一緒にやったら駄目だやるなら自分一人でやれよ」

「お、おお?」

独立できる事に浮かれて状況を理解出来てない高原に、大林は悪い予感がして止めてやらないといけないと感じた。

話の内容から、家庭の有る店長が待遇の悪さから生活に行き詰まって独立しようとしていて、利益の出ているコーナーを担当している高原を自分の店に引き抜いて、独立とゆう言葉を餌に出資までさせようとしている。

大林にはそうとしか聞こえなかった、世間知らずの子供が悪知恵のはたらく大人にいいように利用されようとしているなんとかしてやらないといけない、大林は感じてしまった。

「高原、わかったのか?」

「でも、もう辞表も出してしまったし・・・」

「いつも自分で店をやるって言ってたじゃないか!自信がないのか?」

「いやぁあ・・店をするにしても一人じゃ資金がないし・・・・」

「じゃぁ、いつも言ってたのはなんだったんだ!情けないなぁ」

煮え切らない高原の態度に苛立ちを覚えた大林は

「店長と一緒にやるのは止めると約束しろ!だったら俺が助けてやる!店も作って経営もしてやるし資金も援助してやるよ!分かったな!」

「ん?ォォ大林もやってくれるのか?分かったよ・・」

このお人好しの行動が大林の人生を破滅させるとは思いもしなかった。

大林はオープン準備中の高原の間の抜けた行動に苛立つ気持ちを抑え

「いいか高原オープンしてからがお前の本番だからな!オープン前の不甲斐なさは忘れてやるからしっかり仕事をしろよ!」

事務所で大詰めの作業をしながら釘を刺した。

「おお、分かった」

高原の返事は連日の夜通しの作業でつかれているのか?力なさげだった。

オープンしてしばらくしてからの事だった。

その日注文してあったCDが店頭に届いた、大林は納品書と商品を検品していて気づく。

「あれっ!高原これってお前が注文したの?」

CDを手にとって高原に見せた

「あ~あ多分そうだと思う」

大林から手渡されCDを確認した高原の答えた声に後ろめたい様な自身なさげなものを感じ取った。

「なんでこれ注文したんだ、中古も新品でも在庫あるぞ」

「あ~これは業者が間違って送ってきたんじゃないかなぁ」

「だったらすぐ電話して交換か返品して貰えよ」

「う~ん、大林さぁこの業界は簡単に返品は受けてくれないんだよ」

業界の先輩ぶった筋の通らない言い分に苛立ちを覚えた大林は

「そんな馬鹿な話はあるもんか!俺が話しするから電話掛けろよ!」

それでも高原は電話するのを躊躇っていた、店内にはまだ客の姿はなくレジカウンターの中で納品書とにらめっこをしている。

「大林、ちょっとまってくれ俺が発注するときナンバーを書き間違ったのかもしれない、確認してくるからちょっと待ってくれ」

そお言うと2階の事務所へ上げって行った。

CDにはアルバム毎にナンバーが付いていてそのナンバーで注文する事が業界では当たり前だった、アーティストやタイトルで注文する事は珍しい。

この間大林は考えていた、〈在庫も確認せずに適当に注文したな、前にも同じ事が有った、いい加減な仕事ぶりは直らないな!〉会社員として営業して回っていた自分と高原の仕事に対する姿勢の違いにウンザリさせられる事が多く失望を覚えていた。

5分と経たず2階から降りてきた高原は

「ナンバーは書き間違えじゃなかった、多分発注用に送ってきていた資料にナンバーが間違って載っていたんじゃないかな?」

さすがに同じ言い訳じゃ、まずいと思って考えたんだろうな!大林は心の中で疑っていた。

「だったら尚更業者の責任じゃないか!返品できるだろ!」

大林の的を得た返しに困った高原は、

「でも今回はナンバーの参考を買ってきた雑誌でしたから業者に返品を求めるのは無理だと思う・・」

言う度に言っている事が違う高原との蒟蒻問答にくたびれた大林は

「まぁ、お前の好きにしろよ!俺たちは勤め人じゃないんだからな!横着してミスったら自分に跳ね返ってくるだけだぞ!」

あきれて捨て台詞を吐いた。日常茶飯事だった高原の言い訳と嘘にストレスが頂点に達しようとしていた、それでも大林は店を軌道に乗せようと必死だった。

「店をオープンしてからも自分の失敗を誤魔化そう誤魔化そうとしてね、小さな嘘を重ねるばっかりでね・・・・

口先だけでなんにも出来ないそいつじゃ洒落にならないと思ってリカバリーするために

駆けずり回ったよ、なんせ僕は会社まで辞めてそいつを助ける為に奔走したんだからね、

生活出来るだけの収入は確保しなくちゃならなかったからね・・・、そいつを影で馬鹿にして笑ってるやつらを許せない気持ちもあったんだ、でも一緒にやってみて分かったよ、いつも馬鹿にされていたのはそいつの自業自得だったって事がね」

「大林さんは人が良すぎるのね、愚か者よ」

「その通りさ!でもね見て見ぬふりは出来ないんだよ性格だね!そうゆう意味じゃ不器用さ、楽に暮らせる人生がどれなのかよく分かっていながらもね、楽しくてやり甲斐の有った会社辞をめちゃったんだから・・・」

「で、お店は順調になったの?」

「最初は順調だったんだけどね次第に友人のミスが足を引っ張り始めたのさ、僕は不甲斐ない友人のリカバリーをするために助成金の認定を受ける為に役所を回ったり、県外に行って出店で販売したりしていてね体が相当疲れていたんだと思うんだ、そこまでやっても友人は僕に問い詰められる度にその場凌ぎの為だけにいい加減な事を言って誤魔化そうとしていてね、それが僕にヒシヒシと伝わるんだよ、そのことがストレスだったんだ、体の疲れと重なって脳梗塞で倒れて左半身に重度の麻痺が残っちゃたのさ・・・」

彼女は男の愚かさに少しあきれ顔だった

「馬鹿みたいですね、大林さんって・・・」

「ああ、そうさ、そいつを助けるって想いが僕を酔わせていたんだね、自業自得さ」

男は自虐的な笑いを浮かべた。

親の育て方が悪い、親のプレッシャーが強くて嘘で誤魔化す様な性格になっていったとおもわれた、あまりにも自立心が無い、三十も過ぎているのに実家に居候していて精神年齢は小学生並だった、男は自分の人生を無茶苦茶にして善意と友情を踏みにじったかつての友人に深い恨みを感じると共にそれを見抜けなかった自分への嫌悪感も感じていた。

「体が、不自由になってからもネットで販売したりイベントを考えて店を建て直そうとしようとしたけど無駄だったね、結局親を連れてきて、はした金を僕に渡して逃げたよ・・・

一人になって苦労したさ、店の整理するのがきつかったね、困り果てたさ。

空の段ボール箱一つさえ移動させることも出来ない体で、店の後片付けは泣きそうになったよ、

そのさなかでも、こんな事も嘘ついてたのか!って思わせられる事が次から次へでてきたよ・・・・

でも、死んでしまった今となってはどうでも良いことさ、友人だったって事で逆の色眼鏡でみてたから僕が甘かったのさ・・・」

「そんな人本当にいるんですね、酷い話だわ!地獄行きねきっと」

彼女も、男の話を聞いている内にやり場のない怒りを覚えた。

「でもね、倒れて入院してからも会社を辞めてしまった僕に同僚だった当時の仲間は良くしてくれたんだ、

得意先のお客さんが僕へ励ましのメッセージを書いてくれた焼酎のボトルを持ってきてくれたりしたんだよ・・・

入院中も毎日訪ねてきてくれてね、退院するときもみんなで手伝いに来てくれたんだよ」

夏の暑いさかりだった、車椅子から足に嵌める装具に変わる頃だ、半年ぶりの退院だった。

向かえに来てくれたかつての同僚の車はワゴンタイプで車高が高かった、片手で取っ手になんとか掴まりよじ乗ろうとしたが体がコンパスの様な状態になって回転してしまいそうになる、麻痺した左半身に筋肉の硬直が襲ってくるそれをなんとか堪えて座席に座って平然とした顔を作った、そんな状態で家に帰って生活出来るのかと心配されるのを恐れたからだった。

男は、当時の様子を思い出していたが家に帰った時そういえばチャコはどうしていたんだっけ?記憶がないなぁ・・・あの当時はチャコのことなど気にも止めてなかった自分を思い出している、

半年も一人ぼっちにさせてしまったのに酷い男だ、自分を恥じた。

食事と水は、妹の旦那が出社途中に家によってやっていてくれたようだった。

余談だが、妹は母親が病気になってから結婚した、母親に花嫁姿を見せたいからとゆうのがその理由だそうだ。

大林の会社の仲間は、皆酒好きだった、大林が退院するとゆうことは当然の流れで宴会がはじまると思っていた、男も皆が期待していることは十分知っていた、

元々嫌いじゃない、むしろ大好きだった。

「でね、まだ午前中だったけど、やっぱり退院祝いで宴会が始まったんだ、僕は入院中テレビでグラスに焼酎のロックで氷をカラカラ回しながら飲んでる番組を見ながら楽しそうだなぁ~って、自分も会社の仲間と楽しくやっていた頃を想像してたんだ、だから楽しかったよ!」

その日は、会社の先輩と、いつも大林を慕って良くしてくれていた後輩が集まって宴会が行われていた、二階で暮らしていた大林の生活の不便さを考えて一階のリビングにベッドが用意されていた、妹の計らいだった事は承知していたが、大林は家族や仲間に甘えていたから感謝の気持ちが希薄だった当時の自分を思い起こす。

「その夜に、呼吸が苦しくなって病院へ入院する嵌めになっちゃたんだ、親戚は酒なんか飲むからだって、あからさまに厄介者あつかいだったね、でも僕はあの日のことはよく覚えているけど、ベッドから起きてトイレに行くとき時、素っ裸でエベレストに登山しに行く様な不安に襲われたのさ、倒れても看護婦さんも居ないし、一人になってしまった恐怖さ、退院初日で左半身麻痺の体で日常生活を送ることに慣れてなかったからね・・

やっとベッドに戻った頃に鼓動が早くなってきて軽くパニックになって息が苦しくなったんだ」

事実は分からない、その後二週間の再入院を終えて一人で暮らす生活になってから、大林は体の苦しさ以外に恒常的ににおそってくる不安感と戦う日々が始まった。

「その夜、自分で救急車を呼んだかは思い出せないんだけどね、サイレンの音がして救急隊員や近所のお世話になってた人が駆け付けてくれたんだけど、その人混みをかき分けて一番に僕のところへ来てくれたのがチャコだったんだ、心配で心配でたまらなかったんだろうね、僕の顔をペロペロ舐めてくれてたんだ・・・・救急隊員に邪魔だからどかされようとしても僕の所へ来ようとしてくれてね・・・・」

男は、涙をこらえるように口をキュッと結んだ。

でもにるみるうちに目に涙が溢れそうになった。

「チャコありがとう、ありがとう・・・・」

とつぶやきの言葉にした途端に大粒の涙が溢れ出した。

彼女は、咄嗟に男の涙を拭いてあげようと両手を男の頬に添えた。

男の涙が彼女の手に伝うといままで感じていた奇妙な感覚がよりいっそう彼女を襲った。「大丈夫?大林さん・・・」

「ああ、大丈夫だよ」

男は、顔を上げて彼女の顔を見て

「ありがとう」

そう言うと男は、鼻をすすりながらポツリポツリ語り出した、

「僕は、チャコを歩いて散歩させてやることが出来なくなったんだ、だからねちょっと遠かったんだけど、山の奥に空港が有ってその近辺に空き地が沢山あってね、車どころか人もあまりいない場所へチャコを車に乗せて連れて行っては放して遊ばしてやってたんだ、僕も足に装具を嵌めて杖をついて同じコースをグルグル回って歩く練習をしていたんだ、初めチャコは僕の周りをウロウロしてばかりだったけどね・・・

家からその空き地までは距離があったからチャコにとってはちょっとしたドライブさ」

男は草原の風に髪を靡かせて遠くを見つめる様に目を細めていた、遠い記憶を手繰って行く様に語る。

「運転席のすぐ後ろの座席で窓から顔を出して気持ち良さそうに耳を風に靡かせていたよ・・・僕はそれをバックミラーやサイドミラーで確認しながら運転していたんだ、」

大林は、体が不自由になってから以前の様に出勤出来なくなっていたために、チャコとの時間が増えていた、男にとって車を運転している時間だけが不自由な身体のことを忘れる一時だった、この忘れかけていた思い出がパグのチャコとリハビリして回っていた記憶を思い出す度にビーグルのチャコがフラッシュバックの様に浮かんでくる原因の様だった。

「だからね、チャコが死んでしまってからも、車のミラーにチャコが写る気がしてたまらなく寂しくなったもんさ・・・・」

二人は、草原に腰を下ろして休んだままだった、

男が不意に背後を気にして顔をキョロキョロさせた。

「どうしたの?大林さん」

「いやぁ~、こんな話しているせいかな?チャコの声が聞こえた気がしたんだ・・」

「森を風が抜ける時にたまに音が風に乗って聞こえてくることがあるのよ、チャコちゃんの事思い出して感傷的な気持ちになってるからだわ・・」

「そうだね、まだ自分で店を始める前の頃の事なんだけどね、

朝会社へ行こうと玄関のドアを開けるとチャコが待っていて足に絡みついてくるんだ、

家の中の僕の様子がチャコには分かってたんだね、当時はこんな風には

考える事は出来なかったけど今にして思えばチャコはずっと耳を澄まして

家族の様子をきにしてたんだなぁ・・、

そして門を出て車に乗り込もうとしていると塀から顔を出して僕を見ているんだ、

車で出掛けると寂しそうにね遠吠えをずっとしていたんだよ、

僕はずっと聞こえていたんだけどね、夜遅く帰って寂しいおもいをさせていたんだ・・・」

男はまた元気がなくなった。

「痛てて!」

「元気出して!」

彼女が、男の脇腹をつねったのだ。

「そうだね、メソメソしても始まらないね、でもねチャコの気持ちを考えたら続かないんだよ・・」

「駄目ねぇ、あっそうだ!先輩から貰った虹の橋の本を読んであげるわ!」

そう言って彼女は、服の下から薄っぺらい冊子を取り出した。

「あっこれ、詩だわ・・読むわね・・・・

『幸せと愛の奇跡に満ちている虹の橋の入り口に雨降り地区とゆう場所があります、そこではいつもシトシト冷たい雨が降り、動物達は寒さに耐え悲しみ打ちひしがれています、残してきた誰かさん、特別の誰かさんの流す涙です。

大抵の子は半年もしないうちに、暖かい陽差しの中に駆け出して仲間と戯れ、遊び、楽しく暮らすことができます。ほんの少しの寂しさと、物足りなさを感じながらも・・・

でも、2年経っても、ずっと雨降り地区から出ていかない子達もいるのです、地上に残してきた特別な誰かさんがずっと悲しんでいるので、とてもじゃないけど、みんなと楽しく遊ぶ気になれないのです、地上に残してきた誰かさんと同じ辛い想いをして同じ悲しみに凍えているのです。地上にいる誰かさんの幸せと愛に満ちた思い出こそが虹の橋を創り上げているのです。ですから別れの悲しみだけに囚われないでください。

そして、何よりも大事なことを、伝えにやって来たのです、命の儚さと愛しさを、束の間に感じる慈悲の心の尊さを。

その短い生涯の全てを以って、教えてくれるのです、癒えることのない悲しみだけを残しに来るのではありません、思い出して下さい、動物達が残して行ってくれた形にも、言葉にもできない、宝物を。

それでも悲しかったら、目を閉じてみてください、虹の橋にいる彼らの姿が見えるはずです、信じる心のその中に、その場所はあるのですから・・・』

はぁ~、大林さんこれが虹の橋なのよ」

彼女は、動物を愛する人々の間で伝わる物語である虹の橋の中から雨降り地区の章を一気に読み切った。

大きく息をついて男の顔を心配そうに見つめる。

男も彼女に申し訳なさそうな顔を向けて

「ごめんね、心配させたんだね・・・

でも分かったよ、君が読んでくれている間考えたんだ、僕が流す涙は、悲しみの涙じゃなくって、後悔の涙だったんだ・・・自分勝手な奴だろ?

せっかく君が元気づけようとして読んでくれたのに、こんなひねくれた事ゆうなんて」

確かに、チャコの幸せそうにしている時の思い出を話す男は幸せそうだった。

「ううん、いいのよ大林さんが心根が優しい人だってわかっているから・・・

不自由な身体でとっても頑張ってきたんですものね、嘘つかれたり裏切られたりしてきたんですもの、一人ぼっちで寂しかったら心も荒むのも当然だわ、私には遠慮無く話して下さいね、誰だって愛する者を失った時は自分を責めたりして後悔するわ・・」

男は彼女のこの言葉に、見た感じの印象よりずっと大人だなぁと思った。

草原に腰を下ろして休んだままの男は膝を抱えて時折組んだ腕に鼻を擦り付ける仕草をみせた、

記憶を辿るのが怖くなっている様子で

「ここからのチャコの思いでは僕がずっと悔やんでる出来事ばかりになっちゃうんだけどね・・・」

「いいわよ、聞かせてね懺悔を」

彼女は、語尾に嫌みを言う茶目っ気をみせて男にニコッとして見せた。

男も、彼女に気恥ずかしい様な照れ笑いを返す。

「いつもの様にチャコを連れて空港近くの空き地へ散歩に連れて行った時のことなんだけどね・・・

僕は自分で決めたリハビリメニューを済ませてからチャコを呼んだんだ、

そこの空き地には何度も行っていたから、チャコは自由に歩き回る様になっていてね、

僕が呼んでも無視して行っちゃうんだ、僕は何とかリードを付けようと思って近づくんだけど・・近寄ると逃げるんだ、そして僕の方を振り返ってはまた散歩を続けるんだ・・・

何度も”チャコ!おいで、帰るよ!”て呼んだけど無視する様に逃げるんだ・・

すごく馬鹿にしておちょくられている気分になってしまったよ、

僕は動かない身体のもどかしさと、それを見て取って僕を見下してあざけ笑う奴らに毎日が腹が煮えくりかえる思いをしてたんだ、だから、

チャコおまえも僕が何も出来やしないって見下すのかってカッとなっちゃたんだ、その頃の僕はへんに心が歪んでしまっていたんだよ今にして思えばだけどね・・・

歩いてじゃとてもチャコに追いつけそうになかったから車へ戻ってね、やっとの思いで車へ辿り着いてチャコを追いかけたたよ、空き地から山奥へ向かう細い道をね、そしたら草むらからひょっこり顔を出してキョロキョロ何かを探してる風のチャコを見つけたんだ、」

男は、そこまで話すと大きく息をついた。

「僕は、チャコめがけてアクセルを噴かしたんだ・・・

跳ねるギリギリの所で車を止めてチャコの首根っこを掴まえて怒鳴りつけて車へ投げ入れたんだ・・・

怖い思いをさせてしまった・・」

他人に、傷付けられるより、相手の心を傷付けてしまった方が、自分が傷ついてしまう、特にそれが愛する者への場合は・・・男は自分のしてしまったことで酷く傷ついてしまった様だ。チャコを思い出す度にこの出来事が蘇ってくる、そして手の届かないところへ逝ってしまったチャコに謝ることすら出来なくなってしまい深い後悔を生んだ。

「僕のことを心から心配してくれたチャコを・・・

僕のことを心から愛してくれていたチャコを・・・

僕の一時的な感情だけで怖い思いをさせてしまったんだ・・・」

チャコの怯える目が男の心に深い傷となって残っていた、

悔やんでも悔やみきれない出来事だった。

「苦しんだのね・・・」

彼女は、男の苦しみ様から悲劇的な結末を想像してしまっていたが、男がチャコを殺してしまって無いことに少し安堵した。

「苦しんださ、逃れられない苦しみさ、

この後、もっと辛い現実を知って苦しんだよ、

その時チャコは、もう年老いていて耳が遠くなっていたんだ・・・

僕が呼ぶ声も聞こえなくてね、何も聞こえない不安な世界で僕の姿を確認出来て安心して、昔の様に散歩していただけだったんだ」

男は話しながら彼女をちらっと見ては視線を足下に向ける、俯く男の目はひどく寂しさに襲われている様にみえた。

「よく考えたらね、その空き地から山奥へ通じる道はね、僕が元気だった頃に歩いてチャコを散歩させていた場所とそっくりだったんだ、おまけに僕が歩いて追いかけている状況は昔の頃そのまんまだったんだよ・・・

チャコも体に老いを感じながらも・・・僕と一緒に散歩していた若かりし日を思い出して散歩してたんじゃないかな?・・・・」

「チャコちゃんは、きっと大林さんに出会えて幸せだったわ、間違いないわよ」

「酷い仕打ちをしてしまったのにかい?でももしそうだったら嬉しいなぁ、」

男は、悲しみのあまりの苦しさはチャコの心を思うあまりに自己嫌悪に陥って

懺悔をせずにはいられないようだ。

「チャコちゃんは天寿を全う出来たの?」

彼女の男の言葉を誘うあいずちは気が利いている、彼女に促されるように男の話は続いた。

「僕と暮らし始めてから14年程経っていたから寿命といったらそうなのかもしれないけど、結局は病気さ、それから、少ししてね逝っちゃたんだ・・・」

遠い思い出に想いを馳せるように遠くを眺める。

「それまで聞こえたことなかったんだけどね、庭からチャコのイビキが聞こえる様になってね、心配になったから見てやったらね、

あそこって鼻筋って言うんだろうか?口の上かな?凝りみたいな瘤が出来てたんだ、それで病院へ連れて行ったんだけどね、そこの病院は藪医者だったみたいでね、症状の説明だけされて治療も何もしてくれなかったんだよ、僕が『息が苦しそうなんで何か方法はないんですか?』って聞いて初めて鼻の通りを良くする簡単な手術をしてもらったんだ・・・」

秋も深まり冬の近づきを感じさせる季節のある日の事だった、大林は足の装具は付けるのが手間が掛かるので付けてない日が多くなっていた。

しかし半身麻痺の人特有の悩みである足首の内反の症状は改善されきっていなかった、しゃがむ事は大林にとって非常に辛い動作だった、がチャコのでき物を見てやろうと右手を地面に付けしゃがもうとした、その途端ひっくり返って庭に仰向けに寝転んでしまっ。

そこへ男の様子に気付いたチャコが寄ってきて顔を除き込む、大林は顔になにか垂れていることに気付き頬を指で拭ってみるとチャコの鼻から垂れ落ちてきた液体だった、少し粘り気があったが鼻水じゃなく膿の様におもえ嫌な予感が大林の頭をよぎる、チャコのイビキの原因が悪い病のせいじゃないのか?そう思うと大林は居ても立っても居られなくなり電話帳で動物病院を探した、診察の予約を入れ急いで車を走らせ病院へ向かった、簡単な手術をして貰う間、一旦店に顔を出し様子を確認して病院へ戻る。

戻ってみるとチャコは大きめのガーゼをあてがわれてケージの中で眠っている日頃敏感に反応するのに大林が向かえに来たことに気が付かない、麻酔のせいなのかな?と思ったが連れて帰ろうと起こした、チャコは足下がふらついていて車に飛び乗ることが出来なかった、この光景が男に母親が入院中ヨロヨロと力なく歩く姿にダブって見え胸がグッと詰まる寂しさと不安を覚えさせた。

「化膿止めの薬をもらったけどチャコは薬だけじゃ飲まないんだ、竹輪を買ってきて竹輪の穴に薬を入れて食べさせたよ、片手だったから苦労したけど、でもチャコの為だったから必死さ、本当はね、その時すぐにでも別の病院へ連れて行ってやりたかったけど、抱きかかえてやれなかったたんだ、かといって歩かせるのは辛そうだったから様子を見たんだ・・・

結局一月もしない初冬の寒い日に庭でカチンカチンになって逝ってしまってたよ・・・」

男は、あの時医者を変えていたらと思うと自分の体が情けなくてやりきれない、パグのチャコを里子に出したのもこの事がトラウマになっていた様だ。

「チャコが亡くなってしまった日、毛布にくるんで家の中にいれてやりたかったけど当時の体じゃ無理だったんだ・・・優しい娘だったのに僕は最後まで不甲斐なかったよ・・・」

彼女が、使った懺悔といゆう言葉は当たっていた、男が長々と語る物語は、懺悔そのもだった、愛する者への仕打ち、そして後悔と無意味な自己反省・・・・

「僕がチャコにしてしまった酷い仕打ちはこの事だけじゃないんだ、日頃僕はチャコが人間社会で共存するためにやっちゃいけないことを躾で覚えさせていたんだけどね、知り合いが訪ねて来る度にチャコはね嬉しくなって忘れちゃうんだ、その度にチャコを叱ってしまったんだ」

チャコは、訪ねて来る人に飛びついて喜んでいた、訪問者もその愛想の良さに嫌な顔をするわけでもなく可愛がってくれていた。

大林はこの事に少しの不安を覚えるのだった、調子に乗ってはいけない皆がみんな犬好きな訳では無い現に大林が留守の時を狙って近所の住人から”お宅の犬がうるさい!猿轡でも嵌めさせろ!”と苦情が来ていることを知っていた、有らぬ噂が囁かれている事も知っている、だから大林は躾に厳しかったのだった、チャコが憎いなんてことは有るはずもない、愛していたからこそ厳しくあたったのだ。

「大林は無茶しすぎだぞ、優しくしてやれよってよく言われたよ」

大林は知人達の言葉を気に留めてなかった。

「一緒にくらしていない奴は無責任さ、甘やかしたせいでチャコが他人に迷惑掛けて、そのせいでチャコに怪我でもさせられたらどうするんだ責任なんて取れないだろ?チャコになにかあって悲しいのは僕だけだものね、でも他に方法が有ったんじゃ無いかと思うと辛くなるよ、家の中に入れてやるとかチャコともっと一緒に居てやるとかね、一人っきりにさせる時間が多かったから寂しくさせてしまって人が来るとハシャいで忘れちゃうんだろうからね・・」

大林は他人から誤解されることを恐れていなかった、真実は自分だけが知っていれば良い、自分自身に恥じる事だけはしてはいけない、それが大林の信念だった。

男は立ち上がって、彼女に手を差し出して

「少し歩こうか・・」

二人はごく自然に手を繋いで歩き始める。

随分、時は過ぎた様だが、辺りはまるで変わらない相変わらず草原の陽差しは柔らかでそよ風は心地良い。

「ここは本当に心地良いね」

「そうよ、生きていくのは辛いわ、だからここは苦しみから解放されるのよ」

「君の言う意味がなんとなく分かってきたよ、天国へ行く前にここで心の苦しみを全て脱ぎ捨てて行くんだね」

「その通りよ、ここで強い恨みや寂しさで心を開放出来ないと、魂のまま地上へ逆戻りよ、そうなったら永遠に苦しいわよ」

男は、彼女の顔を見やった、

「大林さんの体をこんな風にしてしまう原因の高原って人への恨みが残っているんじゃないかしら?」

男は高原の事を思い出すと腹立たしく思わない事は無かった。

「多少はね許せない気持ちは有るよ、でもね僕は自業自得だって思うようにしたんだよ、過ぎた事をいつまでもネチネチ恨みに持つ性格じゃないし、君と話してたら馬鹿馬鹿しく思えてきたよ、パグのチャコの事は里親になってくれた人を信用しているから心配はしてないんだ、幸せは願ってるけどね・・・ 」

遠く離れた場所から打ち上げ花火の様に天に昇っていく光が男の視界に入った、しかしそれは花火の様に花開くことなく天に消えていった。

「あそこに見える花火みたいなのはなに?」

「あれは魂が天国へ向かってる現象だわ、随分遠くに見えるから心を開放するのに時間がかかった人達ね、あの人達も気が付かないうちに突然景色が変わって自分が天国にいると気付くはずよ」

「そおかぁ~、母さんに会えるかなぁ」

「必ず会えるわよ!その前に虹の橋へ迎えに行かなくちゃね・・」

男は、彼女の言葉に我に返る気がした。

「チャコは母さんと行ったんじゃないの?」

「お母さんは、チャコちゃんより先に逝ったから大林さんが迎えに行かなくちゃ、待ってるわきっと・・」

男にとって、思いもよらない言葉だった。

そおか、僕は馬鹿だな、自分勝手に思い出話をして悲しんでいるだけでチャコの事を忘れているじゃないか!

「地上で最後に一目だけでもチャコちゃんに会えたら良かったですね、自分でも気付かない心残りがあるんじゃないかしら?」

彼女は、男の顔を見やった。

「ああ、会いたくって残念でたまらなかったけど・・・チャコと二人の生活には戻れないのが分かっていたからね、里親になってくれて今チャコを愛してくれている人に精神的な負担をかけたくなかったからもういいんだよ・・・」

男の表情は、自分の体のせいでパグのチャコとの生活を諦めてしまった事からくる後悔の思いを振り切るような悲しい様な複雑な顔だった。

「チャコはね・・あっビーグルのね!

初めて出来た家族に幸せそうだったよ、僕が庭で飼い始めるまではね・・・」

「でも庭で繋がれて飼われてるワンちゃん多いわ・・」

「そうだけどね、チャコは犬小屋へ入ろうとしなかったんだ、冬は寒そうだったよ・・・

犬小屋の中に毛布を敷いてやったり入り口にTシャツをカーテン代わりに張ってやったけどリビングの近くで家族の声が聞こえる場所へ穴を掘って寝てたんだよ・・寂しかったんだきっと」

庭はチャコの掘った穴でデコボコだらけになっていた。特にリビングのすぐ脇の場所は壁にピッタリと沿って掘られていたそこに丸まって寝ると家の中の声がよく聞こえる場所だった。

「そうね、冬の寒さより家族の声の方が暖かい気持ちにしてくれたんだわ」

男は自分の気持ちに同調してくれる彼女の言葉、そしてチャコの気持ちを代弁してくれるかの様な彼女の言葉に安らぎの気持ちが生まれた。

「やっぱりそう思うかい?当時の僕は、寒そうにしているのをなんとかしてやろうと自分のトレーナーの袖を切って夜露に濡れないように着せてやってたんだけど、チャコの気持ちに気付いてない的外れな行動だったよ・・・」

大林は学生時代に部活動の練習で着ていた思い出が詰まった捨てきれずに取ってあった古着の袖をチャコの丈に合わせてハサミで切ってやり、銅の裾部分にゴムを入れてチャコの銅のサイズに合い易い様に手を加えて着せてやっていた、それでも素人が見よう見まねで作った服だったせいもあって、すぐに脱げてしまっていた肩の部分がスカスカで襟首の周りがだぶついていたからだと気が付いていなかったからだった。

「でもね、嬉しかったわ、毎晩脱げた服を着せにやって来てくれたのが・・・・・・・・・・きっと」

男は、意味深な彼女の言葉を聞き流した。

「そうなら嬉しいけどね・・・

チャコが居なくなってなんだか気が抜けちゃってね、その頃さっき話した助けてやっていた友人が裏切って逃げたんだ、その頃僕はもうその友人に助けてやらなくっちゃって感情は消えていたんだ、だから障害を抱えた体でも生きていける為に計画していた新事業が有ったんだけど、そいつの裏切りのおかげでその事業さえも白紙になっちゃったんだよ・・・2年程温めて少しづつ準備していたんだけど無駄になってしまったんだ、途方にくれたよ、そいつの親が手切れ金みたいにして持ってきた金は店をたたむ費用や税金でなくなって無一文になってね、おまけに障害のある体さ・・・平気な顔してたけど何度も自殺を考えたよでも奮起してチャコを偲んで犬服の店をするために会社を起こしたんだ」

男は資金集めに金融機関を回ったり事業立ち上げに必要なあらゆる事を一から一人で奔走していた、けれどもレコード屋を立ち上げた時と比べ、体が不自由なため テキパキと動けず難儀をしていた、杖をついて銀行へ融資の相談に行った時の歩くことの苦しさに追い打ちを掛けるかの様な行員の好奇な視線に耐えていた。

体の不自由さを悟られない様に毅然と歩くように努める苦しさは言語に表しがたいものがあった、何故そんな無理をしたのか?それは日頃から障害者と分かった途端に高飛車な態度に出る業者の営業マンに苦労させられていたからだった。

温めてきた新事業が白紙に戻り途方に暮れていた男に犬服販売とゆうアイディアが浮かんで店作りに着手し始めた頃の話になる。

CDショップの改築に親身になって力を貸してくれた業者と途中で連絡が付かなくなって店内の改築を依頼する業者の手当に困っていた大林は、知人に新しく紹介して貰った業者に連絡してみた。

「少し前までCDショップをしていたんですが今度犬服の店を始めるので店内の改装してくれる業者を探しているんです、前にお願いした業者は見積もりを持ってくるって言ったきりで連絡取れなくて困っているんですお願い出来ますか?」

片手で仕事の電話をするのは健常者では想像が付かない困難がある、いつでもメモが取れる状態を作って準備万端で電話を掛けなくてはならない、メモを取るのも肩で受話器を挟んでメモを取っていると用紙が動いて字が書きづらい、ちょっとしたことでもあらゆる事態に対応出来る工夫が必要だった。

紹介して貰った業者へは知人からある程度自分の体の事は話してあると聞いていたので少し気が楽だった。

「良いですよ、それじゃぁ今日の夕方6時頃うかがいますから店内を拝見させて下さい」

新しく紹介して貰った先の業者の電話対応は良い印象だった。

約束の時間に現れた内装業者の営業マンは電話に対応していた吉井と名乗る一見40代の小柄な男だった、

大林は麻痺して醜く硬直した体を引きずって店内を説明した、設置していた棚の取り外しと壁紙の張り替え、試着ルームの設置など希望する改築の内容を細かく伝えた、すると業者の男はメジャーで採寸を始めた、大林はその様子を見ながらタイミングの良いとこで話し掛ける。

「どの位の費用が掛かるのか見積もりを出して欲しいんです、設備投資の資金融資を銀行にお願いしているので銀行へ見積書を提出しないといけなくて出来れば月末までに見積もりを頼みたいのですが大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ、元々ショップ様に改装してあるから費用もそんなに掛からないと思うし図面と一緒に10日程お時間頂ければお持ちします」

吉井は、採寸をし簡単に図面をノート書きながら答える、吉井の返答は明快で気持ち良かった。

「しかし凄いですね、その体でこれだけのことを一人でやろうとしているなんて!」

「いやぁ、そんなこと無いです、それよりもうこれで今日の仕事終わりですか?」

「ええ、このまま家へ直接帰るだけですよ」

大林は、気持ちの良いこの営業マンに好感を覚え頼み事をしてみた。

「申し訳ないですが近くの駐車場に車を停めてあるんでそこまで乗せていってもらえませんか?」

「ええ良いですよ、そんなことぐらい遠慮無く言って下さいよ、車を回してくるから待ってて下さい」

吉井はすぐに車を回して来た、車内は綺麗とは言い難かった、生活感が滲んでいてその車を運転している姿は先程まで話をしていた人と同じなのか?と思える程に生活くたびれた様に見えた。

大林の車までほんの5分程の駐車場へ送って貰う社内で大林は、吉井の障害者に対する興味本位の質問に答えていた。

「杖をついて歩くのはたいへんでしょう?」

「ええ、大きな交差点は青信号になっても時間内で渡りきれるかドキドキですよ」

障害のある体の苦労話を聞かれる内にすぐに駐車場へ着いた、この会話がまずかったのだろうか?。

「それじゃぁ見積もりお願いします、その時間に待ってますから」

「分かりました、それじゃぁお体お大事に」

愛想良く吉井は返答をして、大林をを駐車場に下ろすと走り去った。

しかしこの吉井が愛想が良かったのもここまでだった、約束の日時に現れなかった、見積書を受け取る為に事務所で待っていた大林は約束の時間を過ぎてもいっこうに姿を見せない吉井に苛立ちを覚えた、〈なにか都合でも悪くなったんだったら連絡でもしてくりゃ良いのになにやってんだ!〉

痺れを切らして大林から連絡してみると”見積もりをするのに大工をお店まで連れて行こうと思っていた”と言ってきた。

見積もりを持ってくると約束した日が今日なのに今更何を言っているんだと思ったがこういった体が不自由な事で見下された様に平然と誤魔化そうとされる場面に遭遇する事が多かったので言っても無駄だと分かっていたから何も言わなかった。

こうゆう事例の一人一人を問い詰めても時間の無駄だった、こうゆう事例に対処出来る策を持っている事となんでもネガティブに考えないことが大切だと考えるようになっていた。

社会は身体障害者に対して甘くはなかった、"大変ですね"と声を掛けてくれる人の大半は立て前だけだなと男は感じていた。

どんなに親しい人間であっても、元気だった頃どんなに親切にしてあげた人間であっても時間が経つに連れ男の体の不自由さをお荷物に感じて敬遠しはじめる、またそんな風に感じる自分自身とも戦っていた、かつての自分はどこへいってしまったのか自己嫌悪に陥る毎日であった。

「僕はね、金儲けと言うより愛犬家の人達が喜べる犬服の専門店にしたくて、いずれは飼い主さんが捨てるに捨てれない古着をリホームして犬服を作るサービスをしたかったんだ、手元には食べていけるだけのお金が残ればいいと考えてて、でね看板犬がいるなってことになってね、そこで出会ったのがパグだったんだ、店の名前をチャコにしてたからそのままチャコって名前にしたんだ、これがオス犬にチャコって女の子みたいな名前をつけた理由さ!」

目が開いて間もなくヨチヨチ歩きの小さなチャコに離乳食を作って食べさせて大切に大切に育てていく内に大林にとってかけがえのない大切な家族になっていった、指に付けた離乳食に必死でむしゃぶりつく真っ黒な小さい体のチャコ、大林に全幅の信頼をよせている純真な瞳のチャコ、それがかつての人間らしい優しさを失いそうになる男をを引き留めてくれる存在だった。

「パグのチャコが僕の気力を支えていてくれたんだ、そして犬の気持ちを理解できる様にしてくれたんだ、おかげでビーグルのチャコの気持ちにも気が付いたよ・・

僕はね、パグのチャコの成長だけが喜びだったんだ、・・・」

男は、辺りの様子が騒がしくなっていることに気が付いた。

「あれっ」

鳥達の囀りや、楽しそうに走り回る動物達の群れ、そして今の今まで手を繋いで歩いていたはずの彼女の姿が見えなくなっていた。

すると不意に背後から声がした。

「彼女も思い出したみたいですね、あなたの心の内を理解できて開放されたみたいですね、不自由な身体のあなたを残して、心配だったんだろうね・・・」

声の主は、彼女が先輩と呼んでいた小太りの男だった。

「彼女は、いつまで経っても仲間達と遊ぼうとせずに鬱ぎ込んでいたから、見かねた私が死者の魂の案内役としてここへつれてきたんですよ、いつの日かこんな時が来るかも知れないと思ってね・・・あなたには申し訳ないけど私は彼女を救ってあげたかったんですよ!」

「じゃあ彼女はひょっとして・・・」

「そうですよ、あなたの心から失われる事の無いビーグルのチャコですよ、あの子はあなたに言葉で伝えたい事があると言ってたけどあなたの気持ちを知った途端に元居た世界に戻ってしまったみたいですね」

「伝えたい事って何だったんでしょうか?」

男は恐る恐る聞いてみた。

「あなたの体をとても心配していました、それとあなたをすごく愛していたと言葉で伝えたいと言ってましたよ」

男は、大粒の涙が溢れ出すのを止めることは出来ませんでした、涙で滲んだ景色のむこうに戯れあう犬の群れの中から一匹が尻尾を契れんばかりに振って男の元へ駆け寄ってくるのが見えた、、そして男の胸に飛び込む様に跳ねて来ました、男はひざまいて両手を広げ迎え入れます。

「チャコ会いたかったよ、ありがとうな、愛してたよチャコ、ありがとう、ありがとう」

男は心の中にある全ての愛で何度も何度も告げます

「何度も夢見たよチャコ、辛く当たってごめんよ!チャコ!会いたかったチャコォォ・・・また僕の心を救ってくれたんだね、ありがとう!ちゃこ」

再会できた喜びの涙が溢れる男の顔へ、いつまでも続く幸福のキス、

辺りはままばゆく優しい光に包まれ始める。

男はチャコの瞳を見つめて両手で思いっきり抱きしめます。

あふれ出る涙が、障害を負って辛い人生を送ることで歪みかけた男の心に平穏を与えた、

男の心が安らぎに変わろうとし始める頃、まるでパレットの上の絵の具が混ざり合う様に男とチャコが混ざり合っていきます。

そしてもう二度と離れることはない、体を脱ぎ捨てた二つの魂が一つになって母親の笑顔に抱かれる様に天国へ向かって虹の橋を渡って行くのだった。

虹の橋伝説の一節にある様に、信じる心の中にその場所はあるのではないだろうか。

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