「柱の点検など、誰にでもできる」と追放された私は――大陸を支える十二本の柱、その全部の鍵を持って帰りますね? ~前世保全技師は契約書を読みます~
「リィナ・トールハイト。貴様との婚約を破棄する」
聖柱大聖堂の壇上で、大司教アルヴィス・セレストは、千人の信徒を背にそう告げました。
十二年ぶりの〈柱祭〉。天井の採光窓から落ちる光が、彼の白金の髪を神々しく縁取っております。演出としては満点でございます。
「柱守などという役職は、時代遅れだ」
彼は祭服の袖を払いました。
「梯子を上って柱を撫でるだけの雑用に、公費の年額四千金貨は過大である。――点検など、誰にでもできる」
(はい出ました)
(『目に見えない仕事は仕事じゃない』理論)
隣に立つ聖女ミレーユが、両手を胸の前で組み、花のように微笑みました。
「わたくしの祈りがあれば、柱は永遠に立ちますわ」
天井から光の粒が降ります。見事な演出魔法でした。信徒たちが「おお」と声を上げ、拍手が波になって広がっていきます。
わたくしは、深く礼をいたしました。
「かしこまりました」
場が、少しだけ静まりました。
おそらく、泣くか、叫ぶか、縋るかを期待されていたのだと思います。断罪の場というのは、断罪される側が暴れてこそ興行として成立するものですから。
申し訳ございません。わたくし、そういうのは十九年前に卒業いたしました。
正確には――前世で、卒業いたしました。
前世の名は三谷柚希。日本という国の、中堅インフラ保守会社。保守計画課。七年勤務。ダムと橋梁の点検周期設計、劣化予測、予算折衝。
会議室の蛍光灯の下で、課長がこう言ったのを覚えております。
「三谷さん、点検って、何も起きないんでしょ? なら減らせるよね」
何も起きないようにしているのです、と申し上げました。
伝わりませんでした。
そして三か月後、橋の床版が抜けました。
――ああ、この感じ。
あの日の会議室と、まったく同じ匂いがいたします。
顔を上げますと、アルヴィス様が少しだけ眉を寄せていらっしゃいました。
「……何か、言うことはないのか」
「ございません。――ああ、一点だけ」
わたくしは、腰の帳面に触れました。
「第一天柱の次回充填推奨は、二十一日以内でございます。記録簿の最終頁に書いてございますので、お手すきの際に」
「……そうか。覚えておこう」
覚えておこう、だそうです。
(覚える気がある方は、この場で紙にお書きになります)
わたくしは三つ編みを肩の後ろへ払い、灰青の作業衣の裾を直しました。腰に提げた測尺が、こつん、と小さく鳴ります。
大聖堂の、ちょうど真上。
屋根を突き抜けて空へ伸びる白い柱――第一天柱の基部が、わずかに見えております。
【構造視】。
数値が、視界の端に浮かびました。
『第一天柱/基部応力 七十二パーセント/微細亀裂 十一箇所/次回充填推奨 二十一日以内』
二十一日。
わたくしは、その数字を、もう誰にも申し上げませんでした。
──────────
手続きは、驚くほど迅速でした。
翌朝には教団の書記官が屋敷に参りまして、黒い鞄から三十枚ほどの書類を取り出しました。
「屋敷の接収でございます。聖女様の祈祷所にいたしますので」
「承知しております」
「あと、こちらが下働きの解雇通知書。十四名分」
十四名。
わたくしは、その紙束を受け取りました。紙の端が、少し湿っております。昨夜の雨でしょうか。それとも書記官の手汗でしょうか。
裏庭に出ますと、老ドロウが梯子を抱えて立っておりました。
六十八歳。四十年間、父と、わたくしと、二代にわたって柱を登り続けた男です。魔法は使えません。ギフトもございません。ただ、柱を叩いた音の違いだけは、誰よりも正確に聞き分けます。
彼は帽子を取り、節くれだった指でそれを握りつぶしながら、こう言いました。
「お嬢様。わしらの、給金は、どうなるんで」
自分の不安ではなく、生活の現実を先に口にする。この方は、いつもそうでした。
「今月分は、わたくしの私財からお支払いいたします」
「そんな、お嬢様」
「ドロウ。十四名、全員の名前と、ご家族の人数を、紙に書いてくださいませ」
「……へえ」
「それから、梯子は置いていってくださいませ。あれは教団の備品です。――ご自分の工具は、必ずお持ち帰りを」
老人の目が、じわりと赤くなりました。
「お嬢様はなあ」
彼は、後ろに集まっていた下働きたちに向かって、唐突に言いました。
「雨の日も登ったんですわ。雨の日こそ水が入るからって。先代もそうでしたが、お嬢様は、先代より登っとる」
誰も、何も言いませんでした。
言ったところで、書類は変わりませんので。
──────────
その日の午後、わたくしは教団の記録保管室に参りました。
埃の匂い。天井まで届く棚。ランプの油の匂い。
主任のセルヴィア・ロンデール様が、分厚い眼鏡を押し上げて、わたくしを見ました。四十二歳。教団内で最も地位が低く、最も多くを知っている女性です。
「トールハイト様。最終の受領印を?」
「いいえ。引き継ぎ資料の確認に参りました」
「……そう」
彼女は立ち上がり、奥の棚へ歩いていきました。そして、紐で縛られた紙束を、どさり、と机に置きました。
封蝋が、光っております。
一つも、割れておりません。
「第七柱、基部亀裂進行報告。受理番号、四千八百二十一番から、四千八百六十八番まで」
「四十八通」
「ええ。すべて未開封でございます」
わたくしは、その束に触れました。一番古いものは、紙が黄ばんで、角が丸くなっております。
自分の筆跡です。十二年分の。
「わたくしは、上層部に十九回、進言いたしました」
セルヴィア様が、抽斗を開けました。中には、几帳面に綴じられた控えの束。
「十九回、黙殺されました。その記録も、全部ございます」
「……残しておられたのですね」
「わたくしの職務は、記録することでございますので」
「……そのまま棚へお戻しください。証拠は、動かさないほうがよろしいので」
彼女は一瞬だけ手を止め、それから黙って束を棚へ戻しました。
そして、眼鏡を直し、ほんの少しだけ声の調子を変えました。
「トールハイト様」
「はい」
「あなたの字は、年々、丁寧になりますね」
――十二年。
十二年で、わたくしが仕事に対していただいた評価は、それが唯一でございました。
「……ありがとうございます」
わたくしは、深く頭を下げました。
(証拠は動かさない。前世で、三回学びました)
──────────
屋敷を出る前夜、弟のルカが泣きました。
九歳。わたくしと同じ薄い栗色の髪。背丈はまだ梯子の三段目にも届きません。首には父の形見――十二の面を持つ、小さな鍵を下げております。
「姉様」
彼は、わたくしの作業衣の裾を掴みました。
「ぼく、梯子登れるよ。かわりにやるよ。だから、姉様を追い出さないでって、ぼくが言う」
「ルカ」
「言えるよ。ぼく、大司教様に言える」
わたくしは、竈に火を入れました。
小麦粉と、蜂蜜と、少しの塩。
前世のレシピです。丁寧に捏ねると、この世界の粗い粉でも、ふっくら焼けます。残業帰りの深夜、一人で捏ねていたときに覚えました。あのころは、これしか自分を甘やかす方法がございませんでしたので。
焼き上がった蜂蜜パンを割りますと、湯気と一緒に甘い匂いが立ちました。
「お食べなさい」
「……」
「熱いですから、ゆっくり」
ルカは、両手で受け取って、ひとくち齧りました。そして、ぼろぼろ泣きながら、ふたくち目を齧りました。
わたくしは、彼の頭を撫でました。
「登らなくていいのよ」
「でも」
「ルカ。柱守の仕事は、梯子を登ることではありません」
「……ちがうの?」
「壊れる前に気づくことです。そして、気づいたことを、紙に書いて、渡すこと」
わたくしは、擦り切れた点検帳面を膝に置きました。父の遺品です。
「わたくしは、四十八通書きました。一通も読まれませんでした」
「……じゃあ、意味なかったの?」
「いいえ」
わたくしは、帳面の表紙を指で撫でました。
「読まれなかった、という記録が残りました」
ルカは、よくわからない顔をして、それでも頷きました。
賢い子です。わからないことを、わからないまま覚えておける子は、賢いのです。
「ねえ、姉様。柱、どうなるの?」
わたくしは、窓の外を見ました。
夜空に、十二本の白い線。地底の魔力層から伸びて、この大陸を支えている柱。
第七柱の基部に、数値が浮かびます。
『基部亀裂 進行度 八十九パーセント/充填停止時 推定崩落 九十四日』
「折れますね。九十四日後に」
「えっ」
「でも、大丈夫です」
わたくしは、ルカの首の鍵を、指先で直してやりました。
「お父様が、仰っていたでしょう」
――柱はな、折れる。必ず折れる。
――だから柱守は、折れ方を決めておく。
無口な父が、仕事の話をするときだけ饒舌になった、あの声を思い出します。
わたくしが九歳で点検周期表を作り直したとき、父は何も言わず、自分の帳面を書き換えました。
褒め言葉は、一度ももらっておりません。
それで、十分でございました。
「姉様。蜂蜜パン、もうひとつ食べていい?」
「どうぞ」
わたくしは、二つ目を割って渡しました。
──────────
解雇手続きの最終日。
教団本部の執務室で、アルヴィス様はわたくしに背を向けて立っておられました。
「……リィナ。君を、憎んでいるわけではない」
「存じております」
「時代が変わったのだ。信仰を、より純粋な形に戻すべきだと、私は」
「ええ」
「君の父上には、世話になった」
(過労で死にました)
(四十一歳でした)
わたくしは、机の上に書類を置きました。三枚。
「こちら、最後の手続きでございます。〈古柱法〉第三条に基づく、保全義務の解除契約です」
「古柱法?」
彼は、振り返りました。
「千年前の契約魔法でございます。柱守家が『保全義務』を負い、教団が『報酬と権限』を負う。相互契約です」
「ああ……聞いたことがある気がするな」
(気がする、だそうです)
(前世でも、契約書を読まない決裁者を三人見ました。三人とも、あとで大騒ぎになりました)
「第三条には、こう書かれております。『保全義務の解除は、教団の署名をもって成立する』」
「つまり、君を解任する書類だな」
「わたくしが義務を負わなくなる書類でございます」
「同じことだろう」
まったく違います。
ですが、わたくしは、もう一度だけ、顔を上げました。
人生で、本当にたった一度だけ、わたくしが相手の目を正面から見た瞬間でございました。
「猊下」
「なんだ」
「お読みになってください」
沈黙。
彼は、ふっと笑いました。
「君は、私を子ども扱いするな」
そして、羽根ペンを取り、三枚すべてに、流れるような美しい署名をなさいました。
所要時間、十二秒。
十二年分の契約が、十二秒で解除されました。
書類が、淡く光りました。
〈古柱法〉の契約魔法が、わたくしの胸の奥で、ことり、と音を立てて外れていくのがわかりました。
十二年間、ずっとそこにあった重みです。
軽くなりすぎて、少しだけ、ふらつきました。
「では、これで」
わたくしは、書類の控えを鞄に収めました。原本は教団保管、控えは義務者保管。第三条にそう書いてございます。もちろん、彼はご存じありません。
「リィナ」
扉の前で、呼び止められました。
「……その、なんだ。聖女殿は、悪い方ではない」
「存じております」
「君も、どこかで新しい暮らしを」
「ええ。そういたします」
わたくしは、扉を開けました。
大聖堂の長い廊下。両側に並ぶ柱の彫像。すべて、わたくしが実物を登ったことのある柱の模型です。
振り返らずに、一言だけ申し上げました。
「もう、支えません」
「え? 何か言ったか」
「いいえ」
扉を閉めながら、申し上げました。
「記録には、残りますので」
──────────
辺境ドラグノ領は、王都から馬車で九日かかります。
十四名の下働きとその家族、弟のルカ、荷車三台。老ドロウが途中で二度腰を痛めましたが、それ以外は順調でございました。
第三柱の麓にある砦の門をくぐりますと、その男が立っておりました。
身の丈、二メートル強。
黒鱗の混じった浅黒い肌。金の縦瞳。額から後ろへ流れる二本の短い角。
竜人将軍ガウェイン・ドラグノ。王都の貴族が子どもの脅し文句に使う名前の男です。「悪い子にはドラグノ将軍が来るぞ」と。
無表情のまま、彼はわたくしの前に立ち、無言で手を差し出しました。
掌の上に、鍵が一つ。
「……空き家だ。鍵を、持て」
「将軍。これは」
「……十二年、茶を飲ませた縁だ」
わたくしは、鍵を受け取りました。
金属が、まだ温かいのです。おそらく、ずっと握っておられたのでしょう。
「将軍。あのお茶、従卒の方が淹れてくださっていると伺っておりましたが」
「……」
「毎月、わたくしが第三柱の点検を終えて降りてくる、その三分前に、ちょうど飲み頃の温度になっておりました」
「……」
「三分前でございます。十二年間、毎回」
「……ばれていたか」
「ええ」
凶相の竜人将軍の、角の付け根のあたりが、じわりと赤くなりました。
後ろから、明るい藍色の鱗をした若い竜人が走ってきて、勢いよく口を開きました。
「将軍が空き家の鍵をお渡ししたんですよね? あれ、三日前から毎日掃除してたやつです! 屋根の雨漏りも自分で直して、昨日なんか薪を二百本——」
「ハウレル」
「はっ、失礼しました」
副官のハウレル・ドラグノ様。二十五歳。上司の恋愛的無能さに日々頭を抱えている方だと、後に知ることになります。
「……あ、あとこちら、辺境警備隊からの依頼書っす。十七件」
「……早いですね」
「噂が先に届いてまして。『王都から構造鑑定ができる方が来る』って。うちの領、橋が命綱なんすよ。谷が多いんで」
わたくしは、依頼書の束をめくりました。
第四渓谷橋梁、建造三十八年、補修記録なし。
北坑道支保工、木製、更新時期不明。
城壁南面、基礎沈下の疑い。
(ああ)
(仕事だ)
十二年間、誰にも読まれなかった報告書を書き続けた人間が、十七件の「診てください」を同時に渡される。
不覚にも、少し、目の奥が熱くなりました。
「お引き受けいたします」
「料金はいくらっすか?」
「一件あたり、銀貨八枚で」
「安すぎません?」
「初回ですので。――二回目から、適正価格を請求いたします」
ガウェイン様が、ほんのわずかに頷きました。
それから、懐から布包みを取り出し、無言でわたくしに差し出しました。
開けますと、堅焼き菓子が三枚。十二年間、毎月いただいていたものと、同じ形。
「……いただきます」
「……ああ」
ハウレル様が、何か言いたそうに口を開きかけ――将軍にじろりと見られて、両手で自分の口を押さえました。
不思議な方々でございます。
──────────
冒険者ギルド・ドラグノ支部での登録は、三分で終わりました。
「職種は?」
「構造鑑定士でございます」
「……なんですかそれ」
「橋と坑道と城壁の、壊れる前の箇所を見つける仕事です」
受付嬢は、台帳に『その他』と書きました。
「戦闘スキルは」
「ございません」
「魔法は」
「注魔のみ。攻撃は一切」
「……ランクF、でいいですね」
「結構でございます」
最下位です。前世の新人研修と同じ気持ちで、謹んで拝受いたしました。
一か月後。
「ランクFのまま依頼達成数だけ三桁いってる人、初めて見ました」
ハウレル様が、ギルドの掲示板を指さして笑いました。
達成数、百四件。ランク、F。
理由は単純で、構造鑑定にはランク昇格条件である『討伐実績』が一件もないからでございます。制度の設計ミスですが、文句は申しません。ランクは給金に関係ありませんので。
「第四渓谷橋、落ちる三週間前だったって領主会議で大騒ぎっすよ。隊商四十人と馬二十頭が谷底だったって」
「ええ。報告書に、そう書きましたので」
「ええ、って」
わたくしは、帳面を閉じました。
──────────
『柱守工房』の看板を、老ドロウが彫ってくれました。字が曲がっておりますが、味がございます。
十四名の再雇用。全員と、契約書を交わしました。
一条ずつ、声に出して読み上げました。業務内容、労働時間、賃金、支払日、安全装備の支給義務、労災時の補償。
ドロウは、署名の段になって、手を止めました。
「お嬢様」
「はい」
「わしら、契約書ってのを、初めて見せてもらいましたわ」
「……」
「四十年、働いて、初めてですわ」
彼の目が赤くなっているのを、わたくしは見ないふりをいたしました。
前世で学んだことの中で、最も役に立っているのは、劣化予測式ではございません。
『書面に残す』ことです。
──────────
――王都・聖柱大聖堂。
一か月目。
第七柱の基部から、石の粉が落ち始めました。
白い、細かい粉です。朝、掃除夫が気づいて報告しました。
「聖女様。少々、柱の様子が」
ミレーユは、祈りました。
光の粒が降りました。信徒が泣いて拝みました。
粉は、止まりませんでした。
二か月目。
第三柱の魔力圧が低下し、王都北区の灯火が夜通し消えました。三日間。
教団は布告を出しました。
『近年、聖女様の祈りの霊験を疑う不敬者が増えております。柱の変調は、民の信仰の不足によるものです』
アルヴィス様が起草なさいました。
彼は、本気でそう信じておられました。信仰が足りない。だから祈りが届かない。筋が通っております。彼の頭の中では。
ミレーユは、毎日十二時間祈るようになりました。
三か月目。
第七柱に、人の背丈ほどの亀裂が走りました。
同日、大陸東端が三十センチ沈下。海水が畑に入りました。二百ヘクタール。麦が全滅しました。
ミレーユは、柱の前で祈り続け、鼻血を出して倒れました。起き上がって、また祈りました。
「祈っているのに」
彼女は、誰にともなく言いました。
「……どうして、止まらないんですか」
誰も答えませんでした。
大人たちは、彼女に『大丈夫』と言わせることだけが上手で、『なぜ大丈夫なのか』を説明したことが、一度もなかったのです。
──────────
その夜、アルヴィス・セレストは、生まれて初めて記録保管室の扉を叩きました。
「主任。柱守の……点検記録というものは、あるか」
セルヴィア・ロンデールは、眼鏡を押し上げました。
「ございます」
「見せてくれ」
彼女は立ち上がり、奥の棚へ歩き、紐で縛られた紙束を机に置きました。
どさり、と重い音がしました。
「第七柱、基部亀裂進行報告。受理番号、四千八百二十一番から、四千八百六十八番まで」
「……何通ある」
「四十八通。すべて未開封でございます」
封蝋が、ランプの光を反射しました。
一つも、割れておりません。
「誰が……誰が、止めていた」
「誰も止めておりません。猊下の執務机に、毎月お届けしておりました」
「……」
「猊下が、お開けにならなかっただけでございます」
彼は、一通目の封を切りました。
日付は十二年前。筆跡は、まだ少し幼い。
『第七柱、基部北側に微細亀裂を確認。進行度三パーセント。年二回の充填で抑制可能と判断。費用見積、年額六十金貨』
二通目。
『進行度七パーセント。充填を年三回に増やしたく、ご裁可を仰ぎます』
十通目。
『進行度二十二パーセント。現状の充填回数では抑制が追いつきません。人員増を要請いたします』
二十七通目。
『進行度五十一パーセント。本報告書は十二通目の再提出です。ご一読いただけておりますでしょうか』
四十一通目。
『進行度七十八パーセント。わたくしが登れなくなった場合、第七柱は九十日以内に崩落いたします。後任の育成をお願いいたします』
四十八通目――最後の一通。日付は、婚約破棄の三週間前。
『進行度八十九パーセント。本年の充填を完了。これにより崩落予定を百八十日延伸しました。
なお、わたくしの身に何かあった場合に備え、崩落時の被害を最小化する処置を、第一柱より第十二柱まで、各基部に施してございます。
詳細は本報告書の別紙三にございます。
ご一読ください。
柱守 リィナ・トールハイト』
別紙三は、開かれないまま、封の中にありました。
アルヴィスは、椅子に座ったまま、動かなくなりました。
「……彼女は、何回、柱に登っていた」
セルヴィアは、別の台帳を開きました。
「年間延べ、三百十二回」
「……」
「十二年間で、三千七百四十四回でございます」
ランプの芯が、じ、と鳴りました。
「私は」
大司教の声は、かすれておりました。
「私は、梯子を撫でるだけの雑用だと、言った」
「ええ」
セルヴィアは、眼鏡を押し上げました。
「千人の前で、仰いました」
──────────
教団の使者が辺境に着いたのは、雨の日の夕方でした。
わたくしは、工房の土間で縫い物をしておりました。ドロウの作業衣の肘が破れたので、当て布を入れているところです。
「リィナ・トールハイト様。大司教猊下が、お戻りくださいと」
「わたくし、解雇されております」
針を止めずに、申し上げました。
「緊急なのです! 第七柱が、もう——」
「ええ」
「大陸が、沈みます!」
「ええ」
わたくしは、糸を歯で切りました。
「四十八通、そう書きました」
使者が、言葉を失いました。
雨の音が、屋根を叩いております。
「……お願いします。猊下は、三日前から食事を摂っておられません。聖女様は、祈りすぎて倒れられました」
「お気の毒です」
「あなたが戻れば!」
「戻りません」
「なぜ!」
わたくしは、顔を上げました。
「契約がないからでございます」
「契約」
「〈古柱法〉第三条。保全義務の解除は、教団の署名をもって成立いたしました。――猊下ご自身の、ご署名です」
「そ、それは手続き上の——」
「手続きが、すべてでございます」
わたくしは、縫い終わった作業衣を畳みました。
「無報酬・無権限・無契約で柱に登る人間を、世間では『柱守』とは呼びません。『部外者』と呼びます。部外者が柱の核に触れれば、〈古柱法〉第十一条により、死刑でございます」
「……」
「わたくし、法は守る性質でして」
使者は、しばらく俯いておりました。
そして、濡れた帽子を握りしめて、こう言いました。
「……では、なんと、お伝えすれば」
わたくしは、少し考えました。
「『別紙三をお読みください』と」
「別紙……?」
「四十八通目の報告書に、添付してございます。封を切れば、入っております」
「それを読めば、柱は止まりますか」
「いいえ」
わたくしは、立ち上がりました。
「止まりません。もう、止まる段階ではございませんので」
「で、では!」
「ですが」
窓の外、雨の向こうに、第三柱の白い影が見えます。
「――折れ方なら、決めてございます」
使者が去ったあと、土間の隅で、ガウェイン様が立ち上がりました。
ずっとそこにおられたのです。無言で。
「……行くのか」
「呼ばれれば」
「呼ばれねば」
「行きません」
「……」
彼は、少し黙ってから、短く言いました。
「翼は、出す」
「まだ、何も申し上げておりませんが」
「……出す」
それだけ言って、彼は雨の中へ出ていきました。傘も差さずに。
ハウレル様が、頭を抱えました。
「あの人、三十五年あんな調子なんすよ。わかります? 『心配だから必要なときは俺が飛ぶ』って言いたいんすよ。十文字で済むのに、三文字にするんすよ」
「存じております」
「……え、わかるんすか」
「十二年、お茶をいただきましたので」
わたくしは、残っていた堅焼き菓子を一枚、口に入れました。
硬くて、ほんのり塩気があって、噛むほど甘くなります。
十二年間、ずっとこの味でした。
──────────
王都。緊急柱議会。
円形の議場に、国王ヴィルヘルム四世、教団幹部十二名、七か国の大使。そして、傍聴席を埋め尽くす貴族たち。
中央に立たされたのは、わたくし一人でございました。
「リィナ」
アルヴィス様が、席を立ちました。
憔悴なさっております。白金の髪は乱れ、目の下は落ちくぼみ、祭服の袖口が汚れたままです。
「頼む。君しか、柱を直せない」
傍聴席がざわめきました。
三か月前、千人の前で「誰にでもできる」と言った男が、同じ女に「君しかできない」と言う。
よい対比でございます。
わたくしは、点検帳面を小脇に抱えたまま、議場の中央で、軽く頭を下げました。
「三点、ご説明がございます」
「……三点?」
「はい」
わたくしは、指を一本立てました。
「【第一点】柱は、祈りで立っておりません」
「……なっ」
「〈天柱〉は、魔力の結晶柱でございます。祈りは確かに魔力を注ぎます。ですが、注ぎ口の亀裂を塞ぐ作業は、まったくの別物です」
わたくしは、帳面を開きました。
「水瓶に水を注ぐ行為と、水瓶のひび割れを埋める行為。同じだとお考えでしたか」
「それは……」
「わたくしの記録によれば、年間延べ三百十二回の点検作業のうち、祈祷で代替可能なものは、九回」
「九……」
「残り三百三回は、梯子を登って、手で、埋めておりました」
議場が、静まり返りました。
「な……三百三回だと……?」
「はい。十二年間で、三千七百四十四回」
国王陛下が、玉座の肘掛けを掴みました。
「ま、待て。十二年で三千……だと?」
「三千七百四十四回。日付、天候、気温、作業時間、使用魔力量、すべて帳面の第一章から第十二章にございます」
わたくしは、帳面の頁を繰りました。
「平均すると、三日に二回。――雨の日も登りました。雨の日こそ、水が入りますので」
傍聴席から、小さな声が漏れました。
誰かが、泣いているようでした。
わたくしは、二本目の指を立てました。
「【第二点】解除契約は、あなた方が署名なさいました」
「っ……!」
「〈古柱法〉第三条。『保全義務の解除は、教団の署名をもって成立する』。猊下は三か月前、この書類三枚に署名なさいました」
わたくしは、控えを卓上に置きました。
「所要時間、十二秒でございました」
「……」
「わたくしは、お読みくださいと申し上げました。議事記録係の方、三か月前の執務室の記録はございますか」
「あっ、はい! 『お読みになってください』『君は、私を子ども扱いするな』と——」
「結構です」
アルヴィス様が、机に両手をつきました。
「読んでいない……だけだ……!」
わたくしは、彼を見ました。
静かに、申し上げました。
「ええ。四十八通もお読みになりませんでしたから、一貫性はございますわ」
議場が、どよめきました。
大使の一人が、口を押さえて笑いをこらえているのが見えました。
「——記録保管室主任、セルヴィア・ロンデール様」
「はい」
灰色の髪の女性が、埃まみれの事務服のまま、証人席に立ちました。
彼女は紙束を掲げました。封蝋が、議場の灯りを反射します。
「第七柱、基部亀裂進行報告。四十八通。すべて未開封」
どさり、と机に置きました。
「わたくしは上層部に十九回、『お読みください』と進言いたしました。控えはこちらの十九通。黙殺の署名も、すべて揃っております」
彼女は眼鏡を押し上げました。
「わたくしの職務は、記録することでございます。読ませることではございません。――読むのは、受け取った方のお仕事でした」
議場が、凍りつきました。
わたくしは、三本目の指を立てました。
「【第三点】柱守の鍵について」
「鍵……?」
「〈古柱法〉第九条。『柱の核に触れられるのは、柱守の血に結ばれた十二の鍵のみ』」
わたくしは、傍聴席の最前列を振り返りました。
「ルカ」
「はい、姉様」
九歳の弟が、席を立ちました。
小さな手が、首から下げた鍵を外し、高く掲げます。
十二の面を持つ、父の形見。
――十二色の光が、同時に灯りました。
議場の天井まで届く、赤、青、白、金、緑。十二本の光が、それぞれの柱の方角へ伸びていきます。
「……十二色に、光っておる」
国王陛下が、呆然と呟かれました。
大使たちが、椅子から立ち上がりました。
「つまり……」
東方大使の、かすれた声。
「この大陸は、この姉弟の手の中にある……?」
わたくしは、首を振りました。
「いいえ」
「では」
「手の中にあったのに、誰もご覧にならなかった。――それだけのことでございます」
長い沈黙のあと。
国王ヴィルヘルム四世が、玉座から立ち上がりました。
でっぷりとした体躯。白髪混じりの赤茶の髭。疲れ切った目。
彼は、議場を横切り、わたくしの正面に立ちました。
そして、頭を下げました。
議場が、息を呑みました。
王が、平民の技師に、頭を下げたのです。
「……年額四千金貨の削減決裁書に、余が署名した」
「存じております」
「読まずにな」
「……」
「三十年、教団に任せておけば問題ないと思うてきた。一度も、柱を見上げたことがなかった」
彼は、顔を上げました。
「柱守殿。――余に、何ができる」
わたくしは、帳面を閉じました。
「東端の三つの漁村を、ただちに移転させてくださいませ」
「……移転?」
「第七柱は、本日より七時間以内に折れます」
議場が、絶叫に包まれました。
──────────
混乱の中、床に座り込んで泣いている娘がおりました。
ミレーユ。十七歳。自称聖女。
淡い金の巻き毛が乱れ、祭服の裾を両手で握りつぶして、しゃくり上げております。
「わたし」
彼女は、わたくしを見上げました。
「わたし、本当に、祈れば大丈夫だって、言われて……! 毎日、十二時間祈って、鼻血が出ても祈って、それでも止まらなくて、わたしが悪いんだって、信仰が足りないんだって……!」
わたくしは、彼女の前に膝をつきました。
灰青の作業衣の膝が、議場の大理石で汚れました。構いません。どうせ石粉だらけです。
「ミレーユ様」
「っ……」
「あなたのせいではありません」
「でも!」
「あなたに『大丈夫』と言わせた、大人のせいです」
彼女の嗚咽が、止まりました。
「……え」
「十七歳の娘に、大陸の重さを背負わせて、その仕組みを一度も説明しなかった。それは、あなたの罪ではございません」
わたくしは、帳面を開きました。赤い栞を挟んである頁です。
「それから、もう一つ。訂正させていただきます」
「……なに、を」
「祈りには、意味がございます」
彼女の目が、見開かれました。
「柱の注魔速度が、祈祷時に一割上がります。平均すると九・七パーセント。わたくしの記録に、ちゃんと残しております」
わたくしは、セルヴィア様に目配せしました。
彼女が、四十八通のうちの三十三通目の封を切り、読み上げました。
「『第七柱、注魔効率調査。聖女ミレーユの祈祷時間帯と非祈祷時間帯で、基部注魔速度を各百二十回計測。祈祷時に平均九・七パーセントの効率向上を確認』」
「……」
「『当該差分により、年間の充填作業を十一回削減できている』」
セルヴィア様が、眼鏡を押し上げました。
「『――聖女の祈祷、有効。継続を推奨』」
議場が、静まりました。
ミレーユは、口を半開きにしたまま、動きませんでした。
「わたしの」
声が、震えております。
「わたしの、祈りが」
「年に十一回分でございます」
わたくしは、帳面の数字を指さしました。
「わたくしが、十一回、梯子を登らずに済みました。――つまり、あなたは十二年間、わたくしを百三十二回、休ませてくださったことになります」
「……っ」
「ありがとうございました」
彼女は、両手で顔を覆いました。
泣き方が、変わりました。
さっきまでは、怯えて泣いておりました。今は、別の泣き方です。
(ええ、わかりますとも)
(自分の仕事に、初めて数字がついた日の泣き方です)
(わたくしも、前世で一度だけ、ありました。『三谷さんの予測、当たってたね』と、一度だけ。あの一言で、三年は戦えました)
「どうして」
ミレーユが、顔を上げました。
「どうして、教えてくれなかったんですか」
「書きました」
わたくしは、立ち上がりました。
「三十三通目に、書いてございます」
封蝋の割られた紙が、彼女の膝の上に落ちました。
十二年ぶりに、開かれた紙です。
アルヴィス様が、少し離れた場所で、その様子を見ておられました。
彼は、何も言いませんでした。
言えることが、何もなかったのだと思います。
──────────
空は、竜の背から見ると平らではございません。
ガウェイン様の背で、わたくしは第七柱を見ておりました。
飛ぶ前、彼は何も聞きませんでした。「飛べますか」とだけ申し上げたら、「乗れ」と。
理由を尋ねないことが、この方の信頼表明でございます。
第七柱。地底から天へ伸びる、直径四十メートルの白い結晶柱。
その基部に、家ほどの亀裂が、口を開けておりました。
軋む音が、空気を伝って腹に響きます。
『基部崩壊まで 残り四十一分』
【構造視】の数値が、戻っております。国王陛下が、議場で即座に発令なさいました。『柱守リィナ・トールハイトに、一時的な保全権限を付与する』と。
権限が戻った瞬間、十二年分の数値が、どっと視界に流れ込みました。
懐かしい重さです。
「リィナ。間に合うか」
竜の喉から、低い声。
「間に合いません」
「……」
「直すのは、無理でございます」
わたくしは、腰の帳面を取り出しました。
「ですが、折れ方なら、十二年かけて設計いたしました」
「……設計だと」
「点検のたび、基部に魔力の楔を一本。十二本の柱すべてに、延べ四千二百十一本。――下働きには『おまじないです』と申しておりました」
「……なぜ、そんなものを」
風が、作業衣を叩きます。
「わたくしは、いつか自分が辞めさせられると思っておりました」
「……」
「前世でも、そうでしたから。点検予算は、必ず削られます。真っ先に削られます。何も起きていないから、です」
十二年前。わたくしは七歳でした。
父に連れられて、初めて第七柱に登った日。父は、亀裂の走る基部を見上げて、こう言いました。
「柱はな、折れる。必ず折れる。だから柱守は、折れ方を決めておく」
「将軍。基部の、西側十五メートルへ」
「承知した」
竜が旋回し、亀裂の口の前へ。
わたくしは、竜の背に立ち、掌を亀裂へかざしました。
柱守の血。十二年分の魔力の記憶。
「〈古柱法〉第九条に基づき、第七天柱の核に触れます」
白い光が、掌から走りました。
基部に沿って、光の線が走ります。一本。二本。十本。百本。
四千二百十一本の楔が、順番に、音を立てて目覚めていきました。
どん。どん。どん。
心臓の鼓動のようです。
「何をしている」
「折らせております」
「は?」
「ただし、西へ。――海の方角へ。十二年間、そう設計いたしました」
亀裂が、音を立てて開きました。
柱が、傾き始めます。
――けれど、崩れませんでした。
楔が、砕け方を導いております。
柱は、粉々に爆散するのではなく、巨大な層状に、順番に、剥がれ落ちていきました。
上から下へ。一層、また一層。
石の雪崩が、ゆっくりと、西の海へ流れていきます。
まるで、解体現場の発破のように。
前世で、わたくしが何度も立ち会った、あの光景のように。
制御崩落。
柱が、折れました。十二本のうちの、一本。
大陸が、ぐらりと揺れました。
東端が、沈みます。
――三十センチ。五十センチ。一メートル。一メートル五十。一メートル八十。
二メートル。
……止まりました。
「……大陸が、止まった」
「二メートルで。残り十一本が、受け止めました。――十二年分の点検で維持してきた、余力でございます」
海岸線が、ずれました。
三つの漁村が、海に入りました。家屋、百四十七棟。
住民は、全員避難済みです。国王陛下が、七時間で動かしてくださいました。
死者、ゼロ。
ですが、失われた土地は、戻りません。
竜の背で、わたくしは帳面を開き、鉛筆で数字を書き込みました。淡々と。
「リィナ」
「はい」
「……泣いていいぞ」
「泣きません」
わたくしは、数字を書き終えました。
「村三つ、畑二百ヘクタール、漁場三か所。死者ゼロ。――これが、十二年分の手抜きの請求書でございます」
風が、作業衣を叩きました。
竜の翼が、わたくしを、静かに王都へ運びました。
──────────
半年が過ぎました。
第七柱の再建現場は、朝が早うございます。
日の出前から足場が組まれ、石工が二百名、注魔術師が四十名、下働きが三百名。
その最下層。足場の一番下で、梯子を担いでいる男がおります。
白金の髪は短く刈られ、祭服の代わりに、泥だらけの作業衣。
元大司教アルヴィス・セレスト。
現職――第七柱再建現場、最下級の梯子係。
「……はい。梯子、三番、二十八段、上げます!」
声が、かすれております。
三か月目に、手の皮がすべて剥けました。包帯を巻いて、また登りました。
四か月目に、高所で足を滑らせ、老ドロウに襟首を掴まれて助かりました。
「坊主。三点支持じゃ。手を離すなら足を二本、足を離すなら手を二本」
「……はい」
「お嬢様が、十二年、ずっとそうしとった」
「……はい」
彼が初めて報告書を書いたのは、五か月目のことでございました。
王都から辺境の工房に、一通の封書が届きました。
『第七柱 再建現場 第二十三週 作業報告
一、基部西側の仮設支保、沈下を確認。下部の土が柔らかい。
二、注魔術師の交代時に、魔力が切れる時間が毎日ある。三十分ほど。
三、足場の第四層、揺れが大きい。危ない。
梯子係 アルヴィス』
字が、震えておりました。
ペンの持ち方が、まだ固いのです。十二年間、美しい署名しかしてこなかった手ですから。
わたくしは、赤いインクを取りました。
『第一項、沈下量の数値が必要です。測尺の使用方法は別紙を参照のこと。
第二項、良い観察です。交代時の魔力断絶は年間で換算すると百八十二時間の損失になります。交代手順の見直しを進言なさい。
第三項、数値の単位が抜けております。「揺れが大きい」では記録になりません。振幅を測ってください。
――再提出』
封をして、送り返しました。
二週間後、再提出が届きました。
数値が、入っておりました。
──────────
王都では、聖柱教団が解体され、『柱保全庁』に改組されました。
初代長官は、空席のままです。わたくしが、辞退いたしましたので。
「長官職、本当によいのか」
国王陛下が、わざわざ辺境までお越しになりました。でっぷりとした体で、馬車に九日。
「わたくしは、現場におりますので」
「……そうか」
陛下は、しばらく第三柱を見上げておられました。
三十年間、一度も見上げたことがなかった柱を。
「では、現場が何を言っても王が従う、と法に書く。第十五条。『柱保全庁の現場技師が発した安全上の警告は、王令に優先する』」
「……陛下」
「余は、もう、読まずに署名はせん」
わたくしは、深く頭を下げました。
十二年で二度目の、心からの礼でございました。
ミレーユは、新設された『注魔補助官』に就任いたしました。
祈りは、祈りのまま。ただし、勤務記録と、数値評価がつきます。
毎月、彼女のもとに一枚の紙が届きます。
『注魔効率寄与率 九・四パーセント/当月削減作業回数 一・二回/評価 ――良』
最初にそれを受け取った日、彼女は紙を胸に抱えて、三十分間動かなかったそうです。
「あの子、今まで『すごいですね聖女様』しか言われたことなかったんすよ。『九・四パーセント』のほうが嬉しかったって、泣いてました」
ハウレル様が、そう教えてくださいました。
「ええ」
わたくしは、茶を淹れました。
「数字は、嘘をつきませんので」
──────────
辺境ドラグノ領、柱守工房。
朝の五時。竈に火を入れ、蜂蜜パンを焼きます。
公費は、契約更新で年額二万金貨になりました。四千金貨の、五倍です。
「高すぎませんか」と柱保全庁の事務官に聞かれたので、こうお答えしました。
「適正価格でございます」
内訳書を、四十二頁ご用意いたしました。人件費、資材費、危険手当、交代要員の確保費、記録保管費、そして――後任育成費。
「柱守が一人しかいない体制が、今回の事態の根本原因でございます。十年で十二名育てます」
事務官は、黙って署名なさいました。今度は、四十二頁すべて、お読みになってから。
老ドロウは、若手の打音検査を指導する立場になりました。
「ええか、柱ってのはな、喋るんじゃ」
こん。
「これが健康な音じゃ。ほれ、こっち」
こつ。
「濁っとるじゃろ。中に空洞があるんじゃ。これを聞き分けられるようになるのに、わしは十年かかった」
若手が十二名、真剣な顔で頷いております。
その最前列に、ルカがおります。
十歳になりました。背丈が、梯子の八段目まで届くようになりました。
第五柱の定期点検。わたくしと、ルカ。二人で登りました。
中腹で、彼が立ち止まりました。
「姉様。第五柱の東側、音が違う」
わたくしは、彼の指さす場所に【構造視】を向けました。
『微細空洞 深度十二センチ 進行度四パーセント』
――ございます。
「……よく聞こえました」
わたくしは、帳面を開きました。
「合格です」
ルカが、にっと笑いました。前歯が、一本抜けたままです。
「報告書、ぼくが書いていい?」
「どうぞ。――ただし、数値の単位を忘れずに」
「わかってる!」
──────────
その日の夕方。
工房の外で、ガウェイン様が立っておられました。
両手に、布包み。
「……菓子だ」
「いつもありがとうございます」
包みを開きますと、堅焼き菓子。十二年と半年、同じ形、同じ味。
彼は、しばらく黙っておりました。
金の縦瞳が、あちこちに泳いでおります。
そして、ようやく。
「……竜人族は、柱を守る者に、菓子を贈る」
「はあ」
「千年前からの、礼だ」
「……将軍」
わたくしは、菓子を一枚、手に取りました。
「十二年間、毎月いただいておりましたが」
「……ああ」
「それはつまり――」
竜人将軍の、角の付け根から耳にかけてが、見事に真っ赤になりました。
工房の窓から、ハウレル様が顔を出しました。
「言っちゃいます? 言っちゃいますね? 竜人族が柱守に堅焼き菓子を贈るのは、千年続いてる求——」
「ハウレル。黙れ」
「はっ!」
沈黙。
夕日が、第三柱を橙に染めております。
わたくしは、菓子を齧りました。
硬くて、ほんのり塩気があって、噛むほど甘くなります。
「……お返事は、書面でよろしいでしょうか」
「は?」
「わたくし、口頭ですと、記録に残りませんので」
「……」
「期限は、設けません。いつまでも、お待ちいたします」
ガウェイン様が、ゆっくりと息を吐きました。
「……三日くれ」
「承知いたしました」
(三日)
(おそらく、下書きを二十回は書き直されます)
(ええ、存じております。そういう方でございますので)
──────────
その夜、わたくしは帳面を整理しておりました。
父の形見。角の擦り切れた、十二年分の点検帳面。
古い帳面の、最後の頁を開きました。
――空白のはずでした。
わたくしは、十二年間、この頁を使わずに残しておりました。なんとなく、父が何か書くために残しておいた頁のような気がして。
灯りを近づけました。
一行、ございました。
黒ではなく、薄い茶色のインク。経年で色が変わったものです。
筆跡は――父の、字でした。
『第十三の柱、位置不明。要調査』
……。
わたくしは、三度読み返しました。
第十三の柱。
大陸エルデンヴァルトを支える〈天柱〉は、十二本でございます。〈古柱法〉にそう書かれております。千年前から、十二本です。
ルカの鍵も、十二面。十二の鍵で、十二の柱。整合しております。完璧に。
――ですが。
わたくしは、棚から父の遺品箱を取り出しました。
十二面の鍵の、原寸図。父が描いたものです。
図面の隅に、小さく一行。
『第十三面、内部に存在。開封法不明』
窓の外、第三柱の白い光。
十一本の柱が、この大陸を支えております。第七柱を失って、残り十一本。
わたくしは、ずっと不思議に思っておりました。
十二本のうち一本を失って、なぜ、二メートルで止まったのか。
計算上は、四メートル四十センチ沈むはずでした。わたくしの設計では、そうなるはずだったのです。
二メートル四十センチ分。
誰かが、受け止めたのです。
──────────
工房の扉を開けました。
夜風が、三つ編みを揺らします。
壁に立てかけてある梯子。父が使い、わたくしが十二年使い、これからルカが使う梯子。
わたくしは、それを担ぎました。
肩に、重みが戻ります。懐かしい重みでございます。
「姉様?」
背後で、寝ぼけた声。
ルカが、戸口に立っておりました。首の鍵が、月の光を弾いております。
「どこ行くの。今から!?」
「ええ。――数えてまいります」
「なにを」
「柱を」
「十二本でしょ?」
わたくしは、振り返らずに答えました。
「――本当に?」
──────────
〈あとがき〉
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
『読まれなかった四十八通』の物語、いかがでしたでしょうか。
リィナの戦い方は、剣でも魔法でもなく、帳面と契約書と、三千七百四十四回の点検記録でした。
第十三の柱については、次章より本格的に追ってまいります。
――もし少しでも「続きが読みたい」と思ってくださいましたら、ブックマークと評価をいただけますと、作者が梯子を登る励みになります。
『第十三の柱、位置不明。要調査』
調査報告書は、必ずご提出いたします。
今度は、お読みいただけますでしょうか?




