第4話:雨音のコンチェルトと、錆びた周波数
百貨店を後にした直後、ホログラムのような青空が突如として鉛色に濁り、湿った風が蔦の葉を一斉に裏返した。
三十年前のナノマシン暴走以降、地球の気象サイクルは植物たちの蒸散作用によって劇的に変化し、午後の「慈雨」はもはやこの世界の定時連絡のようなものだった。
「アキ。雨滴の衝突音から推測される降水強度は 32mm/hです。……生体組織の過度な冷却を避けるため、前方 50mの『旧・市立中央図書館』への退避を推奨します」
シロの多脚がアスファルトを叩く「ガシャン、ガシャン」という規則的な駆動音が、降り始めた雨粒の音にかき消されていく。
二人は、巨大なシダ植物が玄関を覆い尽くした図書館へと滑り込んだ。
内部は、かつての知の集積地とは思えないほど静まり返り、剥落した漆喰の粉と、湿った古書の紙の匂いが、鼻腔の奥にツンと残る。
アキのバールが、入り口の回転扉を固定する蔦を「ブチッ」と引きちぎると、外部の激しい雨音は一瞬にして遠のき、巨大な石造りの空間特有の重厚な静寂が二人を包み込んだ。
「……ふぅ。……助かったわ。シロ、ちょっとだけ休もうか」
アキは、カビの生えていない革張りの閲覧椅子を見つけ、深く腰を下ろした。
シロはアキの傍らにどっかりと座り込み、内部炉の排熱ファンを「ファン、ファン」と回して、彼女の濡れた髪を優しく乾かし始める。
「アキ。……この施設の地下には、旧時代の緊急放送用アンテナが残存しています。……電離層の反射条件が最適化されたため、微弱な電波を受信しました。……再生しますか?」
「電波……? まだ、何かが飛んでるの?」
「肯定。……かつての大戦時に打ち上げられた、自律型放送衛星『ボイジャーIV』の遺構です。……主を失ったまま、太陽光発電が続く限り、彼は音楽を地上へ垂れ流し続けています」
シロの重厚な装甲の下にある、かつての広報用外部スピーカーが「ブツッ、ザザ……」という砂嵐のようなノイズを吐き出した。
やがて、そのノイズの向こう側から、ピアノの旋律が一本の糸のように手繰り寄せられてきた。
ショパンの『雨だれ』。
128kbpsにまで劣化したデジタル音源は、時折音飛びを起こし、幽霊の囁きのように頼りない。しかし、その一音一音が、静まり返った図書館の天井へと昇り、石の壁に反射してアキの心へと染み込んでいく。
「……綺麗な音。……人間って、こんなに繊細なものを作ってたのね」
「記録によれば、この楽曲は『雨の音』への恐怖を、芸術へと昇華させたものとされています。……現在のアキの心拍数は 62bpm 。……リラックス状態にあると推測されます」
窓の外では、本物の雨が「光合成型変異体」たちの葉を激しく叩き、彼らは無機質な彫像のように、その調べを全身で受け止めている。
アキは、シロの無骨な脚に頭を預け、目を閉じた。
シロの内部で回転するハードディスクの「カリカリ」という読み込み音と、スピーカーから流れる古いピアノの音が重なり、一つの新しい音楽を形作っている。
「……ねえ、シロ。世界が終わった後の方が、……昔よりずっと、贅沢な気がするわ」
「肯定。……アキが隣で眠り、私がそれを観測し続ける。……私のプログラムには、これ以上の優先事項は存在しません」
雨は止む気配を見せず、図書館の暗闇の中で、ノイズまみれのピアノだけが、人類の残した最後の一片の情熱を、いつまでも奏で続けていた。
それは、20年前の地獄を生き延びた鋼鉄の獣と、一人の少女に贈られた、最高に静かな子守唄だった。




