人生ガチャポン
仕事帰りの駅で、湊は終電を逃した。
スマホの充電は三パーセント。財布の札入れには千円札が一枚だけ。外では雨が降っている。明日の朝までに出さなければならない資料は、まだ半分も終わっていなかった。
上司からのメッセージは、既読をつけないまま通知欄に積もっていた。
「進捗どう?」
「明日朝イチで確認します」
「念のため、今夜中に共有して」
湊は駅の壁にもたれた。
もう無理だ、と思った。
声に出したわけではないのに、その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
そのとき、改札横に、見慣れないガチャポンが置かれていることに気づいた。
子ども向けのキャラクターものでも、観光客向けの土産ものでもない。白い本体に黒い文字で、ただこう書かれていた。
「人生ガチャポン」
その下に、小さな注意書きがあった。
「一回三百円」
「いま困っていることを、少しだけ解決します」
「代わりに、あとで少しだけ困ります」
ふざけていると思った。
けれど、湊は疲れすぎていて、笑うこともできなかった。小銭入れを開けると、百円玉が三枚あった。
入れて、回した。
ガコン、と音がした。
透明なカプセルの中には、小さな紙が入っていた。
「タクシーが一台だけ止まります」
顔を上げると、本当に駅前に一台のタクシーが滑り込んできた。空車だった。
湊は、考えるより先に乗り込んだ。
運転手は何も聞かず、家の近くまで運んでくれた。料金は、ちょうど千円だった。
部屋に着くと、スマホの充電は切れた。
でも、パソコンは動いた。資料も、なんとか仕上がった。翌朝の会議で、上司は少しだけ機嫌がよかった。
助かった、と思った。
その日の昼、湊は財布を見て、昨日入れておいたはずのポイントカードが一枚なくなっていることに気づいた。
少し困ったが、大きなことではなかった。
それが、最初だった。
次に人生ガチャポンを見つけたのは、会社の非常階段の踊り場だった。
その日、湊は取引先へのメールで致命的な添付ミスをしていた。送るべきではない社内メモを、見積書と一緒に添付してしまったのだ。
送信ボタンを押した直後、パソコンの画面の端で、送信中の小さな円が回っているのが見えた。添付ファイルが重いせいで、処理に時間がかかっているらしい。
血の気が引いた。
止まれ。
止まってくれ。
誰かに見られたら、顔色だけで何かを察されそうだった。
ふと視線を上げると、廊下の奥にある非常階段のドアが、少しだけ開いていた。
隙間から、白い光が漏れている。
湊は吸い寄せられるように、非常階段の踊り場へ向かった。
そこに、あの白いガチャポンがあった。
「いま困っていることを、少しだけ解決します」
「代わりに、あとで少しだけ困ります」
湊は震える手で財布を開け、百円玉を三枚入れた。
ガコン。
カプセルの中の紙には、こう書かれていた。
「送信処理が、まだ終わっていません」
湊は慌てて席に戻ってパソコンを見た。
送ったはずのメールは、まだ送信トレイに残っていた。会社のWi-Fiが一瞬切れたのか、添付ファイルのアップロードが止まっていたのだ。
湊はすぐに社内メモを外し、正しい見積書だけを添付し直した。
数秒後、メールは何事もなかったように送信済みフォルダへ移動した。
取引先からは何も言われなかった。
社内でも問題にならなかった。
代わりに、その週、湊は大事な予定を一つ忘れた。
大学時代の友人と、数年ぶりに会う約束だった。
友人からのメッセージには、こう書かれていた。
「忙しいなら仕方ないけど、せめて連絡はほしかった」
湊は謝った。
友人は「大丈夫」と返してくれた。
大丈夫、という文字は、あまり大丈夫そうではなかった。
それでも湊は思った。
あのメール事故に比べれば、まだいい。
人生ガチャポンは、苦しいときだけ現れた。
家賃の引き落としに失敗した朝。
母からの着信に出られず、折り返す気力もない夜。
プレゼン直前に、資料ファイルを削除した午後。
恋人に「最近、何を考えているかわからない」と言われた帰り道。
そのたびに、白い機械は、駅の柱の陰や、会社の非常階段や、誰も使っていない会議室の隅に、ひっそり置かれていた。
湊が三百円を入れると、いつも、目の前の穴だけが塞がった。
「管理会社からの連絡が一日遅れます」
「母は今日は深く聞いてきません」
「別保存されたファイルが一つ見つかります」
「恋人は今夜だけ、追及しません」
便利だった。
あまりにも、便利だった。
ただし、その代わりに失うものは、少しずつ重くなっていった。
最初はポイントカードだった。
次は、小さな約束だった。
その次は、誰かからの信用だった。
その次は、自分が何に傷ついていたのかを説明する言葉だった。
母からの電話に出なくても、その日は困らない。
恋人と話し合わなくても、その夜は乗り切れる。
上司に「無理です」と言わなくても、その場は終わる。
でも、何も終わっていなかった。
むしろ、少しずつ悪くなっていた。
家賃は翌月に重なった。
仕事は、断らない人のところへ集まった。
母は、電話の回数を減らした。
恋人は、「大丈夫?」ではなく、「もういいよ」と言うようになった。
湊は何度も思った。
次で最後にしよう。
けれど、本当に苦しいとき、人は根本的な解決より、今すぐ息ができる穴を探してしまう。
ある夜、湊は会社のトイレで吐いた。
鏡を見ると、自分の顔が、自分のものではないように見えた。目の下には濃い影があり、口元だけが妙に笑っていた。
スマホには、上司からのメッセージが来ていた。
「明日までに追加でお願い」
「君ならできると思ってる」
恋人からも来ていた。
「今日、ちゃんと話したい」
「逃げないで」
母からも来ていた。
「元気なら、それでいいです」
その一文が、いちばん痛かった。
トイレを出ると、廊下の突き当たりに、人生ガチャポンが置かれていた。
いつもより、白く光っている。
注意書きが変わっていた。
「一回三百円」
「根本的な苦しさを、少しだけ感じにくくします」
「ただし、根本的な問題はそのまま残ります」
湊は、しばらく立ち尽くした。
回してはいけない、と思った。
今度こそ、わかった気がした。
この機械は、奇跡をくれるのではない。
最悪の一歩手前で、偶然を少しだけねじ曲げるだけだ。
そして、そのたびに、自分が本当は向き合うべきだったものを、少しずつ遠ざけていく。
湊は財布を開けた。
百円玉が三枚あった。
ガコン。
カプセルの中の紙には、こう書かれていた。
「今夜、何も感じなくて済みます」
その瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、すっと軽くなった。
上司のメッセージを見ても、苦しくない。
恋人の「逃げないで」を見ても、痛くない。
母の「元気なら、それでいいです」を見ても、泣きそうにならない。
湊は席に戻り、追加の仕事を始めた。
返事を待っている人たちには、何も返さなかった。
次の日、恋人から短いメッセージが届いた。
「もう終わりにします」
湊はそれを見て、しばらく画面を眺めた。
悲しいはずだった。
でも、悲しみは、薄いガラスの向こう側にあるようだった。
会社では、上司が言った。
「最近、助かってるよ。無理がきくから」
その言葉を聞いたとき、湊は初めて、自分が何を売っていたのか少しわかった。
時間ではない。
小銭でもない。
運でもない。
困ったときに、困ったと言える力。
大切な人に、向き合う力。
自分の限界を、守る力。
人生ガチャポンは、それを少しずつ景品に変えていた。
その夜、駅の改札横に、また白い機械があった。
機械の前には、若い会社員が立っていた。片手にスマホを握りしめ、今にも泣きそうな顔をしている。
湊は声をかけようとした。
それ、回さないほうがいいですよ。
そう言うだけでよかった。
けれど、言葉が出なかった。
何を失うのか。
どう悪くなるのか。
うまく説明できなかった。
自分自身、まだ何も解決できていなかった。
若い会社員は、百円玉を三枚入れた。
ガコン、と音がした。
湊のポケットの中で、スマホが震えた。
母からだった。
出る前に、留守番電話に切り替わった。
「今日、少しだけ声が聞きたいです」
目の前の人生ガチャポンは、白く静かに光っている。
湊は、財布を取り出した。
小銭入れには、ちょうど三百円があった。




