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日常とSF

人生ガチャポン

作者: くるみ
掲載日:2026/05/15

 仕事帰りの駅で、湊は終電を逃した。


 スマホの充電は三パーセント。財布の札入れには千円札が一枚だけ。外では雨が降っている。明日の朝までに出さなければならない資料は、まだ半分も終わっていなかった。


 上司からのメッセージは、既読をつけないまま通知欄に積もっていた。


「進捗どう?」

「明日朝イチで確認します」

「念のため、今夜中に共有して」


 湊は駅の壁にもたれた。

 もう無理だ、と思った。

 声に出したわけではないのに、その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。


 そのとき、改札横に、見慣れないガチャポンが置かれていることに気づいた。


 子ども向けのキャラクターものでも、観光客向けの土産ものでもない。白い本体に黒い文字で、ただこう書かれていた。


「人生ガチャポン」


 その下に、小さな注意書きがあった。

「一回三百円」

「いま困っていることを、少しだけ解決します」

「代わりに、あとで少しだけ困ります」


 ふざけていると思った。

 けれど、湊は疲れすぎていて、笑うこともできなかった。小銭入れを開けると、百円玉が三枚あった。


 入れて、回した。


 ガコン、と音がした。


 透明なカプセルの中には、小さな紙が入っていた。


「タクシーが一台だけ止まります」


 顔を上げると、本当に駅前に一台のタクシーが滑り込んできた。空車だった。

 湊は、考えるより先に乗り込んだ。

 運転手は何も聞かず、家の近くまで運んでくれた。料金は、ちょうど千円だった。


 部屋に着くと、スマホの充電は切れた。

 でも、パソコンは動いた。資料も、なんとか仕上がった。翌朝の会議で、上司は少しだけ機嫌がよかった。

 助かった、と思った。


 その日の昼、湊は財布を見て、昨日入れておいたはずのポイントカードが一枚なくなっていることに気づいた。

 少し困ったが、大きなことではなかった。


 それが、最初だった。


 次に人生ガチャポンを見つけたのは、会社の非常階段の踊り場だった。

 その日、湊は取引先へのメールで致命的な添付ミスをしていた。送るべきではない社内メモを、見積書と一緒に添付してしまったのだ。


 送信ボタンを押した直後、パソコンの画面の端で、送信中の小さな円が回っているのが見えた。添付ファイルが重いせいで、処理に時間がかかっているらしい。

 血の気が引いた。


 止まれ。


 止まってくれ。


 誰かに見られたら、顔色だけで何かを察されそうだった。


 ふと視線を上げると、廊下の奥にある非常階段のドアが、少しだけ開いていた。

 隙間から、白い光が漏れている。

 湊は吸い寄せられるように、非常階段の踊り場へ向かった。

 そこに、あの白いガチャポンがあった。


「いま困っていることを、少しだけ解決します」

「代わりに、あとで少しだけ困ります」


 湊は震える手で財布を開け、百円玉を三枚入れた。


 ガコン。


 カプセルの中の紙には、こう書かれていた。


「送信処理が、まだ終わっていません」


 湊は慌てて席に戻ってパソコンを見た。

 送ったはずのメールは、まだ送信トレイに残っていた。会社のWi-Fiが一瞬切れたのか、添付ファイルのアップロードが止まっていたのだ。


 湊はすぐに社内メモを外し、正しい見積書だけを添付し直した。

 数秒後、メールは何事もなかったように送信済みフォルダへ移動した。

 取引先からは何も言われなかった。

 社内でも問題にならなかった。


 代わりに、その週、湊は大事な予定を一つ忘れた。

 大学時代の友人と、数年ぶりに会う約束だった。

 友人からのメッセージには、こう書かれていた。


「忙しいなら仕方ないけど、せめて連絡はほしかった」


 湊は謝った。

 友人は「大丈夫」と返してくれた。

 大丈夫、という文字は、あまり大丈夫そうではなかった。

 それでも湊は思った。


 あのメール事故に比べれば、まだいい。



 人生ガチャポンは、苦しいときだけ現れた。

 家賃の引き落としに失敗した朝。

 母からの着信に出られず、折り返す気力もない夜。

 プレゼン直前に、資料ファイルを削除した午後。

 恋人に「最近、何を考えているかわからない」と言われた帰り道。


 そのたびに、白い機械は、駅の柱の陰や、会社の非常階段や、誰も使っていない会議室の隅に、ひっそり置かれていた。

 湊が三百円を入れると、いつも、目の前の穴だけが塞がった。


「管理会社からの連絡が一日遅れます」

「母は今日は深く聞いてきません」

「別保存されたファイルが一つ見つかります」

「恋人は今夜だけ、追及しません」


 便利だった。

 あまりにも、便利だった。

 ただし、その代わりに失うものは、少しずつ重くなっていった。


 最初はポイントカードだった。

 次は、小さな約束だった。

 その次は、誰かからの信用だった。

 その次は、自分が何に傷ついていたのかを説明する言葉だった。

 母からの電話に出なくても、その日は困らない。

 恋人と話し合わなくても、その夜は乗り切れる。

 上司に「無理です」と言わなくても、その場は終わる。


 でも、何も終わっていなかった。

 むしろ、少しずつ悪くなっていた。


 家賃は翌月に重なった。

 仕事は、断らない人のところへ集まった。

 母は、電話の回数を減らした。

 恋人は、「大丈夫?」ではなく、「もういいよ」と言うようになった。


 湊は何度も思った。


 次で最後にしよう。


 けれど、本当に苦しいとき、人は根本的な解決より、今すぐ息ができる穴を探してしまう。


 ある夜、湊は会社のトイレで吐いた。

 鏡を見ると、自分の顔が、自分のものではないように見えた。目の下には濃い影があり、口元だけが妙に笑っていた。

 スマホには、上司からのメッセージが来ていた。


「明日までに追加でお願い」

「君ならできると思ってる」


 恋人からも来ていた。


「今日、ちゃんと話したい」

「逃げないで」


 母からも来ていた。


「元気なら、それでいいです」


 その一文が、いちばん痛かった。

 トイレを出ると、廊下の突き当たりに、人生ガチャポンが置かれていた。

 いつもより、白く光っている。

 注意書きが変わっていた。


「一回三百円」

「根本的な苦しさを、少しだけ感じにくくします」

「ただし、根本的な問題はそのまま残ります」


 湊は、しばらく立ち尽くした。


 回してはいけない、と思った。


 今度こそ、わかった気がした。

 この機械は、奇跡をくれるのではない。

 最悪の一歩手前で、偶然を少しだけねじ曲げるだけだ。

 そして、そのたびに、自分が本当は向き合うべきだったものを、少しずつ遠ざけていく。


 湊は財布を開けた。

 百円玉が三枚あった。

 ガコン。

 カプセルの中の紙には、こう書かれていた。


「今夜、何も感じなくて済みます」


 その瞬間、胸の奥に詰まっていたものが、すっと軽くなった。

 上司のメッセージを見ても、苦しくない。

 恋人の「逃げないで」を見ても、痛くない。

 母の「元気なら、それでいいです」を見ても、泣きそうにならない。


 湊は席に戻り、追加の仕事を始めた。

 返事を待っている人たちには、何も返さなかった。


 次の日、恋人から短いメッセージが届いた。

「もう終わりにします」

 湊はそれを見て、しばらく画面を眺めた。

 悲しいはずだった。

 でも、悲しみは、薄いガラスの向こう側にあるようだった。


 会社では、上司が言った。

「最近、助かってるよ。無理がきくから」

 その言葉を聞いたとき、湊は初めて、自分が何を売っていたのか少しわかった。


 時間ではない。

 小銭でもない。

 運でもない。

 困ったときに、困ったと言える力。

 大切な人に、向き合う力。

 自分の限界を、守る力。

 人生ガチャポンは、それを少しずつ景品に変えていた。


 その夜、駅の改札横に、また白い機械があった。

 機械の前には、若い会社員が立っていた。片手にスマホを握りしめ、今にも泣きそうな顔をしている。


 湊は声をかけようとした。

 それ、回さないほうがいいですよ。

 そう言うだけでよかった。


 けれど、言葉が出なかった。

 何を失うのか。

 どう悪くなるのか。

 うまく説明できなかった。

 自分自身、まだ何も解決できていなかった。


 若い会社員は、百円玉を三枚入れた。

 ガコン、と音がした。


 湊のポケットの中で、スマホが震えた。

 母からだった。

 出る前に、留守番電話に切り替わった。


「今日、少しだけ声が聞きたいです」


 目の前の人生ガチャポンは、白く静かに光っている。


 湊は、財布を取り出した。

 小銭入れには、ちょうど三百円があった。

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