第1話 勇者の裏側で始まった戦い
勇者エルクが出征する朝、王都の南門は祭りのような熱気に包まれていた。
白銀の鎧をまとった本軍が整列し、聖印旗が風をはらむ。
その中央に立つ勇者へ、民衆は花を投げ、女たちは祈り、子どもたちは木剣を振って叫んだ。
「勇者様が魔物の軍勢を討つぞ!」
「これで戦争も終わりだ!」
誰もがそう信じている顔だった。
その熱狂を、アルト・レグスは三つ離れた場所から眺めていた。
王国軍左翼所属、十人隊長。
本軍のさらに外側を受け持つ三千の中の、末端の小隊長だ。
勇者のすぐそばで戦うわけでもない。
敵将を討ち取って名を上げる立場でもない。
王国軍の左翼で敵を引きつけ、本軍が中央を突破しやすくする。それが彼らの役目だった。
「よう、十人隊長殿。今日は勇者様の武勇伝の端っこにでも名前が載るといいな」
隣を歩く槍兵のガドが、皮肉とも冗談ともつかない声をかけてくる。
「載らないだろうな」
「ですよねえ」
アルトが答えると、小隊の連中が小さく笑った。
部下は十人。
いや、正確には九人だった。
補充予定だった一人は前哨で怪我をして、まだ戻っていない。
新兵が三人、農兵上がりが二人。
鎧も槍も使い込まれた古い品ばかりで、まともに装備が揃っているとは言い難い。
十人隊長という肩書きだけ聞けば立派だが、現実は三千人の王国軍の中でも下から数えた方が早い立場だった。
それでもアルトは、進軍の列の中で周囲をよく見ていた。
こういう時、勝ち戦だと浮かれて周りを見なくなる兵ほど早く死ぬ。
それを彼は何度も見てきた。
遠征三日目。
王国軍は決戦予定地に入った。
本軍は中央の平野を進み、勇者を先頭に魔物の軍勢の主力と正面からぶつかる。
左翼の三千は丘陵と林沿いを進み、敵の横を牽制して本軍を援ける。
大まかな構図はそう聞かされていた。
戦前、百人隊長が地図を広げて言った。
「敵の本隊は中央に出る。お前たち左翼が相手にするのは、せいぜい別働の群れだ。踏ん張って時間を稼げ。本軍が中央を割れば、それで勝ちだ」
軽い口調だった。
周りの兵も似たような顔をしていた。
勇者がいるのだから主役は本軍だ。
自分たちは脇役でいい。
王国軍左翼全体に、そんな空気が流れていた。
だがアルトは、東の丘の向こうを見て眉をひそめた。
土煙が妙に濃い。
別働の群れにしては広がりが大きすぎる。
しかも動きが重い。
数だけではなく、前に出ている連中の足取りが揃っている。
統率が取れた軍の動きだった。
「ガド」
「はい?」
「あの丘の向こう、見えるか」
「土煙っすか。ずいぶん多いですね」
「多いで済めばいいがな」
嫌な汗が首筋を伝った。
左翼の三千は、広く細く縦陣形を展開している。
ここは狭隘地であり、そもそも大軍を展開する場所には不向きな場所でもある。
だから本軍のようにぶ厚い陣ではない。
受け止めるための布陣ではなく、本軍の横撃を防ぐための配置だ。
もしここへ想定以上の数がぶつかれば、前から押されるだけで逃げ場はなく、場合よっては被害が一番出てしまう場所でもあった。
前にいた別の隊長が笑った。
「怯えるなよ、十人隊長。勇者様がいるんだ。敵も中央へ突っ込むに決まってる」
その言葉が終わる前に、丘の向こうから角笛が三度鳴った。
低く長い音だった。
腹の底に響く、不吉な音だった。
次の瞬間、丘を越えて黒い群れが姿を現した。
先頭は巨大な盾を持った魔物たち。
続いて長槍を握る背の高い亜人種。
その後ろには狼にまたがった騎兵めいた影。
さらに左右へ広がるのは、投槍や弓を持つ魔物の列。
誰が見てもわかった。
別働ではない。
あれは本隊だ。
「て、敵本隊だ!」
「馬鹿な! 本軍の正面じゃなかったのか!?」
「伝令! 将軍へ急げ!」
左翼の前線が一気にざわついた。
アルトはその混乱の中で、敵の進み方だけを見た。
ためらいがない。
まっすぐこちらを踏み潰し、そのまま抜ける気だ。
――本軍の横ではなく、背中を狙っている。
「隊長! どうします!?」
新兵の声は、半ば悲鳴だった。
アルトは即座に怒鳴る。
「盾を前! 槍は低く構えろ! 荷車を寄せてこの細い狭隘を更に狭めるんだっ! 散るな、ここで散ったら終わりだ!」
九人が慌てて動き出した。
周囲では、命令待ちで立ち尽くす兵と、勝手に後ろへ下がり始める兵が入り乱れている。
上からの指示はまだ届かない。届いたとしても遅いかもしれない。
敵はすでに近い。
左翼の外側にいた別の十人隊が、最初の突進を受けてあっさり押し崩された。
兵が倒れ、旗が折れ、そこから黒い波がなだれ込む。
「左が抜かれたぞ!」
「下がれ! 後ろへ!」
「違う、持ち場を守れ!」
命令は混線し、兵たちの顔から血の気が引いていく。
アルトはすぐ近くの入り組んだ地形に目をつけた。
ここよりも更に狭い。
荷車を寄せれば正面から押し寄せる数を削れる。
だがそこは、最前列でもあった。
「隊長……ここ、真っ先に潰されますよ」
ガドが低く言った。
「わかってる」
囮どころではない。
踏み潰されて終わる場所だ。
それでもアルトは丘の向こう、本軍の方角を見た。
本軍はいま勇者を先頭に中央へ押し込んでいるはずだ。
そこへ左翼を抜いた敵本隊が横から回り込めば、王国軍は勝ちを目前にして背中を刺される。
勇者が前で勝っても、戦は負ける。
アルトは剣を抜いた。
「聞け!」
九人の視線が集まる。
怯えた目、怒った目、諦めかけた目。
「ここを抜かれたら、本軍の背中に敵本隊が刺さる」
誰も口を開かなかった。
「俺たちは主役じゃない。勇者様みたいに名を刻む立場でもない。だが、脇役のせいで王国軍が負けるのは御免だ」
アルトは今まさに激戦地とも言える前方の狭隘地を指した。
「ここで止めるぞ。少しでいい。少し持たせれば、本軍が勝つ時間になる」
そして迫る黒い群れを睨みつけた。
「だから、死ぬ気で粘れ」
敵の角笛が、二度目に鳴った。
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