いつか見た夢の岸辺で
白くて、何も見えない。
濃い霧の向こうに飛び出たのは、茫漠とした意識の果て、何秒とも何時間ともわからない時間感覚の“果て”だった。霧の向こうに広がる空には、無数の飛行機が飛んでいた。音のない世界だった。
雲も、地面も。ただ、青い世界が続いている。はるかに遠く、はるかに近く。まるで、すべての色が解け合ったかのような鮮やかさだった。
視界の中に映る、「水平線」は。
それからどれくらい飛んでいただろう。
気が遠くなるほどの陰鬱とした時間の流れの中で、微かな光が見えた。
——光?
それは日差しのような鮮やかな色彩を帯びたものじゃなかった。かといってぼんやりとした、水彩画のような曖昧な「質感」を帯びたものでもなかった。不時着した零戦の機体と、霧に覆われた土地。気がつけば、そこに「空」は無くなっていた。無数に飛んでいた飛行機は、海辺の波打ち際に整列するように並んでいた。翼が折れているものもあれば、機体が潰れているものもあった。どれもこれも不時着したように、穏やかな波のそばで“倒れていた”。
どれくらいの時間が経っただろう。
白い砂浜。
色のない大地。
歩く。
ただひたすらに歩く。
そこに景色という景色はなく、ただ、物静かな平穏だけが、世界の全てを覆っていた。
俺はいつ飛行機を降りたのか?
一体ここはどこなのか?
そんなことがうつらうつらと視界の中にチラついても、ただ、どうしようもなく動いていく足だけが、乾いた地面の上にあった。
…しもし
もしもし
声。
それがどこから聞こえてくるのかはわからなかった。耳元に届く仄かな振動。それでいて遠い、限りなく沈黙に近いノイズ。霧の中に現れた白装束姿の「誰か」は、顔を持っていなかった。
…いや、それどころか、その「人」が男か女かさえわからなかった。
得体の知れない気配が、旋風の如くさっと足元に駆け抜けていった。人である。「誰か」である。それだけはどこかぼんやりと感じられた。不思議と、怖さはなかった。
「あなたも狭間に来たのですね」
「狭間…?」
「ここは霧の世界。現世と現世を結ぶ境界線です」
「現世と現世…?俺は死んだのか?」
「いいえ。少なくとも、まだ」
「どういうことだ」
「あなたは今生と死の間際にいる。それだけは確かです」
「生と死…?」
「この狭間に来たものは、皆さんそういった方達です。この世界に留まるものたちもいます。死ぬのが怖く、どうしても前に踏み出せないのです。あなたはどうですか?」
「死ぬのが怖い?」
「ええ。ここに辿り着くものは皆、「死」を間際に控えているものたちです。この霧を越えた先には、何もありません。——何も。その現実を受け入れることができずに、留まろうとする者がいるのです。あなたは、死ぬのが怖いですか?」
「それは…」
死ぬのが怖くないものなんていない。そう思うことに、少しも疑念はなかった。事実、俺も怖かった。操縦桿を握るあの間際まで、足が震えていた。
ただ、思ったんだ。
エンジンの始動音の向こうで、ゼロの機体が揺れる。ガタガタと鳴り響く振動と、ガラス越しの世界。勢いよく空に飛び立ったあの時、もしかしたら、「明日」にたどり着けるかもしれないと思った。これから戦地へと向かう自分が、どういう状況に置かれているかがわからないわけではなかった。それでもなぜか、強烈に沸騰する感情があった。
「空」が近かった。
「青」が近かった。
視界は遥かに良好だった。
遮るものは何もなかった。
どこまでも飛んでいける気がしたんだ。
翼を広げて。
たとえ戦地から、帰ってこれなくなったとしても。
「俺は飛んでいかなければならない」
「と、言いますと?」
「…よくはわからないんだ。ただ、無性にそう思える自分がいる。もちろん、引き返せるものなら引き返したい。帰れる場所があるなら、帰りたいさ。でも…」
「でも?」
「きっともう、間に合わないんだと思う。引き返せる場所はないんだと思う。地上から飛び立ったあの時に、そう感じた。水平線の向こうに行くしかないと思った」
「…そうですか」
亡霊のようなその人は、寂しく頷くように俺の前を歩き、「ついてきてください」と、その一言だった。
「あなたが向かう先がどこに続いているかは、誰にもわかりません。ですが、これだけは言えます。この霧の向こうに行くための手段は一つだけ。それはあなた自身が、「霧」になることです」
「…俺自身が、「霧」に?」
「はい。ここはあらゆる世界の運命が収束している場所です。しかし残念ながら、人が人の運命を変えることはできません。運命とは世界の秩序です。世界が破綻しないための「均衡」なのです。この「霧の世界」は、その均衡が崩れないために存在しています。時計の針が、たった一本しか存在しないように」
「…理解が、できないんだが…」
「無理もありませんね。しかしあなたがここに来たということは、あなたにはまだ、やり残したことがあるのではないですか?」
「やり残した…こと?」
「この「霧の世界」は、“時間が永遠に経過しない”場所でもあります。そしてそれ故に、人の魂が集う場所でもあります。世界は運命の歯車の内側に動いています。川の水が海へと流れ着くように。雲が風に流されていくように」
「人の「魂」が…?」
「ええ。ですから、あなたは試みなければなりません」
「試みる…?試みるってなにを?」
「生きること。生き続けようと思うこと。そう思うものだけが、霧の晴れた空に行けます」
生きる…こと?
亡霊が言っていることを、すぐには理解できなかった。言葉がわからなかったわけではない。むしろ、その「言葉」の矛先に向いているものが何かを、どこかでわかっている自分がいる。そんな気がした。真っ白な、——視界の中で。
「あなたは、この「世界」の未来を切り開くために飛んだ。違いますか?」
「この世界の、——未来?」
「世界はあらゆる可能性に満ちています。「運命」が存在するとは言いましたが、その運命と言うのは、その可能性の一つ一つが、確かな形になっていく場所でもあります。世界にはまだ、「明日」が訪れていません。あらゆる可能性、あらゆる不確定的な要素の中に、揺らぎ、波打っています。たった1つの形も持てないまま。…たった1つの空も、持てないまま」
「日本はどうなっていくんだ?」
「「日本」?それはあなたの住んでいた「場所」ですか?…いいえ。そんなことを聞くのは野暮ですね。しかし、“それ”がどうなっていくのかは問題ではありません」
「というのは…?」
「未来はまだ決まっていない。そう言うのがいいのでしょうか?「時間」はまだ動いているのです。——そう、永遠に。途切れることもなく変化が続く。たった一つの確かな答えなどどこにもないのです。あなたが空に飛び立った時のように」
亡霊は微笑んでいた。
それでいて遥かな眼差しを向けていた。
それがどこに”向き”、どのような“時間”を持っているのかはわからなかった。
ただ、無性に寂しい感情だけが、茫漠とした霧の中に漂っていた。
先が見えない。
はっきりとした「境界」もない。
そんな不確かな“景色”の中に。
「あなたが飛んだ先に続いている「未来」を、見たくはないですか?」
「——未来?」
「ええ。その世界は、あなたが望んでいる未来ではないかもしれません。しかし確かなことは、その「世界」がこの世界の全てではないということです。先ほども申し上げたように、世界は無数の可能性に満ちています。あなたが生まれていない世界もある。同時に、あなたがまだ“生きている”世界も」
「何が言いたいんだ」
「世界は常に動いている。たった一つの選択が、一つの「運命」を決めるわけではないのです。“現世はまだ無数の未来へと通じている”。そう言った方がいいでしょうか?あなたにはまだそこに辿り着けるだけの時間がある。「距離」がある。どうですか?行ってみようとは思いませんか?」
俺にはわからなかった。亡霊の言っていること。世界の「未来」。俺は昔から、日本の未来のために戦うことを教えられてきた。今日もそうだ。
なんのために戦ってきたか。
なんのために武器を持ったか。
その答えが常にハッキリとはわからずに、国のために国のためにと精進してきた。妹を亡くした時もそうだ。ざーーーーーと大雨が降るような音がした。止めどもなく「ヒューヒュー」と音をたてながら、斜め後ろの方へ落とされて行く焼夷弾を見た。燃え盛る町の野を走った。灰色に染まる空の下を。
亡霊は指を指し、霧の奥へと進む勇気はあるか?と聞いていた。その問いに答えることはできなかった。
何が待ち受けているのかもわからない。
どこに続いているのかもわからない。
そんな感情のそばに、とめどなく流れる懐かしい記憶があった。
そうだ。
昔父と一緒に、町の河川敷でキャッチボールをした。
俺が子供の頃のことだ。
赤茶けた夕日が川橋の向こうに染め上がって、ゆっくりと流れるいわし雲が、なだらかな地平の上を泳いでいた。
父の顔がぼやけて、いつも思い出せない。
開戦後、警察官だった父が海軍志願兵として出征してからは、母の実家の郡山町(現鹿児島市)に移り住んだ。
父は帰ってこなかった。
父親のいる家庭がうらやましく、誰もいない部屋に向かって「お父さん、お父さん」と呼びかけたこともあった。
誰かに会えなくなることが怖かった。
明日が来なくなることが怖かった。
絶え間なく揺れる防空壕の中で、いつか世界が壊れてしまうんじゃないのかと思った。
土の焦げるような強烈な臭いが、爆撃機の飛ぶ夜の淵にあった。
父がいつか帰ってくるかもしれない。
そんな淡い期待が、家族の中にはあった。
俺もそうだった。
世界のどこかで、まだ生きているんじゃないか?
飛行機が壊れて、帰ってこれなくなっているだけなんじゃないか?
だから時々夢に見ていた。
夕日に照らされて、顔が見えなくなっている父親の姿を。
一体いつからだろうか?
何かに期待して、夢中で空に手を伸ばすようになったのは?
枕元の防空ずきん。電球の傘に覆われた風呂敷。畑で育てた芋を入れた「からいもご飯」。仏壇近くの床の間に置いた、——壊れかけのラジオ。
霧の向こうに行けば、父さんに会えるのか?
亡霊は答えなかった。「誰」かに会えるのは、明日の世界のように決まっていない。ただ、信じることだけが、確かな時間を連れてきてくれる。
——そう言うだけだった。
足を一歩前に踏み出した時、ぶ厚い霧の層が水面を揺り動かしたように震えた。
視界はどんどん悪くなっていった。
頬に触れる空気も、足の底に触れる地面の感触も、少しずつ冷たく、遠くなっていく。
自分が今どこにいるのかも、どこに向かって歩いているのかもわからない。
それなのに少しも迷いがなくて、自然と前に進んでいける自分がいた。
誰かに引っ張っられてるような感じだった。
サーッと、下り坂を走る。
そんな感覚が、ひたすらに“近く”。
涼しい向かい風がサッと吹いて、白く覆われた世界が晴れたのは、しばらく経ってからのことだった。
コトコトとやかんが揺れる音がして、「想太、ご飯よー!」と、近くで呼んでいる声がする。
見たこともない部屋と、得体の知れない白い物体。
呆気に取られながら、カーテンを開いた。
そこには、鮮やかな世界の色と、背の高い建物が見えた。
朝露に煌めく街の景色が、そこにはあった。




