9 『灼火陽焔』
炎の奔流が、鉄の床を灼き焦がした。
鈍く錆びた工場の闇を、紅蓮の炎の光が一瞬で塗り替える。
「な、なんだこの炎はっ!」
男たちが悲鳴を上げる。
炎は爆ぜるように広がり、壁を舐め、天井を照らした。
火の粉が舞う中、中央に立つ少年――シュカ。
その瞳にはもはや恐怖はなく、炎の熱が瞳孔の奥で脈打っていた。
(不思議な感じ……けど……怖くない)
胸の奥が焼けるように疼く。
それは恐怖ではなく、力の奔流。
己の中に潜んでいた“何か”が、目を覚ました感覚だった。
「こいつ……さっきのガキか!?」
「特殊能力を覚醒させやがったのか!?撃て、早く撃て!」
銃口が一斉に火を噴く。
だが――弾丸は届かない。
放たれた瞬間、シュカの周囲で空気が歪む。
炎が壁のように広がり、金属弾を瞬時に溶かし尽くした。
火の盾が、彼の意志と呼応するように波打つ。
「……ここから皆を、解放しろ」
低く呟いた瞬間、地面から火柱が立ち上がった。
鉄骨を伝い、天井に達した炎が一斉に爆ぜる。
「うわああああッ!」
熱波が巻き起こり、男たちが吹き飛ぶ。
焦げた臭いと煙が混じり、視界が赤に染まった。
(見える……全部、見える……)
風の流れ、敵の動き、呼吸の間隔――
すべてが炎の揺らぎと共に感じ取れる。
次の瞬間、足元に紅蓮の花が咲いた。
爆ぜた炎が推進力となり、シュカの身体が瞬間移動のように空間を裂く。
「なッ――!」
目の前の男が反応するよりも速く、シュカの掌がその胸に触れる。
触れた瞬間、炎が炸裂した。
轟音と共に、男の体が壁に叩きつけられる。
床が波打ち、機械の部品が弾け飛ぶ。
子供たちはその隙に出口へと走っていく。
だが男たちは誰も、そちらに意識を向けることができなかった。
シュカから目を逸らすことが、死を意味すると悟っていたからだ。
「おまえら、かかれッ!!こいつ、特殊能力を覚醒させやがったっ!殺られる前に殺せぇッ!!」
親玉の怒号が響く。
複数の男たちが一斉に襲いかかるが――炎が、“獣”のように咆哮した。
シュカの背後から噴き出した炎が蛇のようにうねり、襲い来る者たちを絡め取っては弾き飛ばす。
赤い軌跡が螺旋を描き、視界が光で塗りつぶされる。
「う、うわああああああっ!!」
叫び声が混じる。
工場の鉄梁が焼け落ち、火花が雨のように降り注ぐ。
炎が呼吸し、彼の動きに合わせて形を変えた。
(これが……僕の……特殊能力!)
特殊能力――『灼火陽焔』
シュカの中に湧き上がるもの、それは怒りでも憎しみでもない。
ただ純粋な“守る”という強い意思が、特殊能力に息を吹き込んだ。
その感情が、炎をさらに強く燃やしていく。
「燃えろ!!」
叫びと同時に、シュカの足元から円状に爆炎が広がる。
爆音と共に鉄床がひしゃげ、火柱が螺旋を描いて天井を突き破った。
その熱だけで、周囲の鉄パイプが赤く光る。
男たちは逃げ惑う。
だが逃げ場は、もうどこにもなかった。
工場全体が、燃え上がる巨大な牢獄と化していた。
「ふざけやがってぇえええええ!」
親玉が叫び、巨大な銃を手に突進してくる。
その手が引き金を引こうとする瞬間――炎が蠢いた。
轟音。
シュカの足元から爆発的な火流が噴き上がり、銃ごと腕を包み込む。
「ぎゃあああああッ!!」
熱に悲鳴がかき消され、金属が溶けて垂れる。
親玉が膝を折り、崩れ落ちた。
もう、誰も反抗の意思は持っていなかった。
だが――炎は止まらない。
炎の奔流は、もはや彼の意思を離れ、暴れ狂う。
床が融け、壁が崩れ、鉄骨が赤く焼ける。
(な、なんだ、これ……!いや……だ……!止まれ……!)
止めようとするが、逆に体の奥から新たな熱が噴き出す。
皮膚が裂けそうなほどの灼熱が全身を駆け抜けた。
――燃やせ。
――壊せ。
――おまえを突き放したすべてを。
耳の奥で、誰かの声が囁く。
視界が赤く染まり、炎が意思を持つかのように、倒れた男たちへ狙いを定めた。
「いやだ……っ、殺したくないっ!――殺す、殺す殺す殺すっ!殺してやる!」
シュカの叫びと共に、炎が脈動する。
それはもはや“守る力”ではなかった。
怒り、恐怖、悲しみ――すべてが混ざり合い、灼熱の奔流と化す。
溢れる殺人欲求が、止まらない。
その瞬間。
「――その状態は感心しないな」
ふわりと、黒い羽根が舞い降りた。
炎の光を吸い込むように闇が広がり、空気が一変する。
燃え盛る熱が一瞬で鎮まり、冷たい風が流れ込んだ。
黒い羽根の中から、ひとりの男が現れる。
黒のローブを纏う姿は、まるで夜そのものが形を取ったかのようだった。
「このままだと、君が死んでしまう」
男は静かに近づくと、シュカの額に指先でトンと触れた。
「落ち着け。そう、良い子だ」
瞬間、世界が無音になる。
炎が止まり、空気が冷えた。
シュカの体から力が抜け、膝が折れる。
荒く息を吐く彼の瞳から、炎の光が消えていく。
「……は、ぁ……あ……」
黒いローブの男は、柔らかく笑った。
「うん。もう大丈夫だね。良い炎を見せてくれてありがとう」
その声は静かで、どこか懐かしい響きを持っていた。
次の瞬間、男は空間をなぞるように、手を滑らせた。
「ギャ!!」
何かの力だろうか、そろりと逃げ出そうとしていた男たちが、一瞬で地に伏す。
黒い羽根が鎖のように絡みつき、全員を捕らえた。
ローブの男は工場を見渡し、軽く笑う。
「……武器と薬物の製造、か。ブラックマーケット以外で秘密裏に販売している組織となると……少し調べれば、裏の金の流れも掴めそうだ。君のお手柄だな」
ぽん、と頭を撫でられるシュカ。
何を言われているのか、半分も理解できなかった。
けれど、怖くはなかった。
黒いフードの奥――僅かに覗く赤い瞳と、綺麗な純白の髪。
暗いゲヘナの中で、その色は光のように見えた。
「……あなたは、誰?」
問いかけると、男はほんの少しだけ笑う。
「君は俺を知らなくとも、俺は君をずっと知っていた。いつか君も、俺を知る日が来るだろう」
その時――
「シュカぁーーー!!!」
遠くから、レイドの声が響いた。
「あ、レイド……!」
慌てて立ち上がろうとするが、全身が痛む。
力が入らず、足元が崩れる。
「あっ、ぅわっ!」
「っと――危ない」
倒れかけた体を、男がすっと支える。
腕の中から感じる体温は驚くほど冷たく、それでいて心地よかった。
「なんだ、虚ではなく、アステリアに入ったのか。ふふ、ルーガンに誘われたか?彼は欲しいものに対しては、妥協を許さないタイプだからな。強引だっただろう?……だが、それもまた、良い選択かもしれないな」
「……え?」
顔を上げたシュカを見て、男は目を細める。
「いつかまた、会える日を楽しみにしているよ。シュカ」
その言葉を残し、無数の黒い羽根が宙を舞った。
羽根が消えたあとには、もう男の姿はなかった。
「なんで、僕を知ってるの……」
静寂の中、残ったのは焦げた空気と、炎の名残だけだった。




