4 『アステリア旅団』
どこまでも重たい空気が、地の底のような静けさの中に満ちていた。
湿った石畳。壁一面にこびりついた煤と血の跡。
その隙間を、薄汚れた風が吹き抜けていく。
──これがゲヘナの日常。エデンとは似ても似つかない。
シュカは、自分がどれほど歩き続けているのかも分からなかった。
空も太陽もない世界では、時間の感覚すら狂ってしまう。
ただ『虚』を探して歩いていた。
『虚に行けば、生き延びられるかもしれない』
そう告げた、あの人の言葉だけを信じて。
首には冷たい金属の感触。爆弾付きのチョーカー。
逃げ出せば、それが爆ぜる。この地に落とされた烙禍たちは皆、同じものを首につけられていた。
まるで“家畜の印”のように。
ひび割れた石畳。壁にこびりついた焦げた手形。
手がかりを求めて辺りを見渡すが、虚の気配はどこにもない。
誰かに聞こうにも、話しかけた瞬間に殺されるかもしれない──そう思うと、声をかける勇気も出なかった。
そのとき、空気が変わる。
どす黒く、重い気配。
──宵闇の不死鳥。
看板に目を向けた瞬間、別の路地から現れた烙禍たちと正面衝突した。
「おい、なんだガキ。……よそ者か?」
片腕に不死鳥の刺青、金のピアスを揺らす男が、シュカの胸ぐらを掴む。
背後からも数人が現れた。
シュカが、何も知らずに足を踏み入れたそこは、ゲヘナでも最悪と呼ばれる集団──宵闇の不死鳥の領域だった。
逃げなければ。
そう思うのに、足が震えて動かない。
男たちは笑いながら、シュカの髪を乱暴に掴み上げた。
「いっ……やめろ……っ!」
赤い炎が、かすかに指先に宿る──だが、すぐにかき消えた。
(なんで……アカデミーでは使えたのに!)
焦るほどに、炎は言うことを聞かない。
「面白ぇな。力の制御もできねぇゴミかよ」
そのときだった。
シュカの唇が震える。
「……虚に、行かなきゃいけないんだ……!」
その一言が空気を裂いた。
一瞬にして、宵闇の不死鳥の構成員たちの表情が固まる。
数秒前までの威圧が嘘のように、ざらついた沈黙が落ちた。
「今……虚って言ったか?」
「まさか、“ゼーレ”の……?」
「いや、精々下っ端だろ」
意味も分からぬまま、シュカはその隙をついて走り出した。
狭い路地を転げるように逃げ続ける。
息が切れ、喉が焼けるように痛む。
だが、途中で足が止まった。
路地の片隅に、血だまりの中で倒れている少年がいた。
年はシュカと同じくらい。
彼の服はボロボロで、体中に殴打の痕がある。綺麗な金の髪も泥にまみれてくすんでいた。
「……だっ、大丈夫ですか?」
返事はない。
それでも、シュカは放っておけなかった。
リュックを開く。
中には──カインと食べるはずだったお菓子と、いつも持ち歩いていた応急処置セット。
震える手で消毒液を開き、傷口を拭い、ガーゼを巻く。
血の匂いに吐き気がこみ上げても、手を止めなかった。
包帯を巻き終える頃、少年がかすかに口を開く。
「……なんで、助けるんだよ」
怒りとも嘲りともつかない、乾いた声。
「追われてんだろ……バカか、お前」
シュカは少し笑って答えた。
「だって……困ってる人を、放っておくなんてできないから」
あの日と同じだった。
助けようとして──すべてを失った。
それでも、シュカは見捨てることを選ばない。
少年は目を見開き、沈黙する。
その優しさは、この地獄ではあまりに異質で、そして眩しかった。
「お前……」
その瞬間、背後から足音が迫る。
先ほどの男たちだ。
「見つけたぞ、逃げやがって、このクソガキが!」
シュカは少年を庇うように前に出る。
震える手のひらに炎が灯る──が、またすぐに消えた。
少年が呻くように叫ぶ。
「逃げろって言ってんだよ、早く……!」
「君を置いていけないよ!」
少年を庇うシュカの姿に、少年の紫の瞳が細められる。
「なに言ってんだァ?こんな所でヒーローごっこか、夢見がちなガキだなァ」
鉄棒を構える男たち。
血の臭いを含んだ風が、狭い路地を抜ける。
シュカは踏ん張る。
炎を呼び出そうとするが、指先で火花が弾けるだけで形にならない。
(どうして……!)
「殺っちまえ!」
男たちが一斉に動く。
その瞬間、風を裂く音。──金属が折れる音。
そして、鮮やかな閃光。
「おいおい、ガキを囲んでリンチかよ。感心しねぇな、“宵闇のクズ鳥”ども」
路地の奥から、一人の男が現れた。
褐色の肌、後ろで束ねられた赤い髪。片方の横髪は黒く染められ、三つ編みにされている。腰には刃こぼれした長剣。
そんな男の黄色い瞳にひと睨みされただけで、空気が変わる。
まるで地の底に陽が差したかのような錯覚。
「……あいつは……!」
「チッ、厄介なのが来やがった!」
宵闇の不死鳥たちは顔色を変え、名前を口々に囁く。
「ルーガン・レグライマーだ!」
「おい、帰るぞ!」
ルーガンという男が一歩踏み出すと同時に、突風が路地の壁を斬り裂いた。
乾いた衝撃音。地面が裂け、粉塵が舞う。
その威圧だけで、男たちは舌打ちしながら退いていった。
残されたのは、シュカと少年、そしてルーガン。
「……助かった、の……?」
息を荒げるシュカに、ルーガンは笑う。
「助けたつもりはねぇよ。そこにいる“うちの坊主”を回収しに来ただけだ」
視線の先で、血まみれの少年が苦笑する。
「……ルーガン、悪い。ちょっと、やられた」
「おいおい、派手にやられたなァ。随分とイケメンになっちまってよ、レイド」
少年──レイドはゆっくり立ち上がった。
「そいつが、お前を助けたのか?」
ルーガンがシュカを指す。
レイドは無言でうなずき、微笑んだ。
「あぁ。逃げろって言ったのに、置いてかねぇで……手当までしてくれた」
「はは、マジかよ。ゲヘナでそんな奴、初めて見たぜ」
ルーガンは笑みを浮かべ、シュカに近づく。
その笑みには、野生的な力強さと温かさが同居していた。
「お前、名前は?」
「……シュカ・エルナルシアです」
「シュカ、ね。いい響きだ」
ルーガンはシュカをまっすぐ見つめる。
ただの烙禍ではなく、“見込み”を測る目だった。
「で?なんでこんな所で宵闇の奴らに追われてた?」
シュカは少し恥ずかしそうに答える。
「あ……いや、迷子で……気づいたら宵闇の不死鳥の看板の前にいて、それで逃げようとしたら……」
そこでルーガンとレイドは吹き出した。
「シュカ、お前悪運強すぎだろ!」
「虚を探してたのに……気づいたら宵闇の不死鳥に……」
虚という名に、ルーガンは片眉を上げる。
「虚?シュカ、お前、虚に入りてぇのか?」
虚に行こうとしていたことを話すと、ルーガンは一瞬黙り、くすくす笑った。
「似合わね〜〜っ!」
「シュカ。お前が入るべきなのは虚じゃねぇ。アステリア旅団だ」
シュカは警備隊から聞いた名前を思い出す。
「アステリア旅団って、暴走族の……?」
「は?暴走族〜?ぶはははは!」
ルーガンは腹を抱えて転がりながら笑う。
「暴走族だってよ!レイド、聞いたか?」
「笑いすぎだろ……でも、確かにそう見られても仕方ないかもな」
ルーガンは涙を拭い、真顔に戻るとシュカの肩を掴んだ。
「シュカ。虚に行くより、俺たちのアステリア旅団に来い。俺は、お前みたいな真っ直ぐなやつが欲しい」
「……でも、僕なんかが……」
「知るか。気に入った。だから連れてく、簡単だろ?」
ルーガンは笑い、片手で自分の胸を叩いた。
「俺はルーガン・レグライマー。アステリア旅団のリーダーだ」
その言葉に、シュカは息を呑んだ。
──アステリア旅団。
ルーガンは続ける。
「名前だけは聞いたことあるか?暴走族だの無法者だの言われてっけど、そんな呼び名はどうでもいい。俺たちは、誰の命令にも縛られねぇだけだ」
彼の笑みは、どこまでも自由で、どこまでも強かった。
「シュカ。虚に行きたいなら止めねぇよ。あそこは悪い場所じゃねぇ。ルールも秩序もあるし、何より安全だ。……でもな」
ルーガンは、シュカの首元のチョーカーを軽く弾いた。
乾いた金属音が響く。
「その鎖がある限り、どれだけ“理”を語ったって自由じゃねぇ。俺たちは、それを壊すために動いてんだ」
言葉の意味をすぐには理解できなかった。
けれど、シュカの胸の奥で、何かが確かに鳴った。
ルーガンは手を差し出し、軽く笑う。
「さあ、どうする?虚に行くか、それとも自由を手に入れるか?」
シュカはその手を見つめた。
躊躇のあと、小さく息を呑んで──その手を握る。
「……お願いします。ルーガンさん」
「よし、決まりだ」
ルーガンの笑みが弾けた。
その瞬間、シュカの中の空気が変わった。
冷たい金属のチョーカーの下で、心臓が初めて“熱”を取り戻したように。




