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烙禍ノ彗星  作者: 雨宮麗
エデン追放編

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3/11

3 『ゲヘナへようこそ』


 赤い炎の記憶が、まだ体に焼き付いていた。


 シュカ・エルナルシアは、拘束具に縛られて警備隊に連行され、(エデン)の光から遠ざけられる前に、政府の地下研究施設へと隔離されていた。


 そこでは前例のない突然変異体として、彼の能力の解析と抑制方法の研究が行われていた。

 冷たい観察眼を持つ学者たちは、赤く揺らぐ炎に反応するシュカを何時間も観察し、実験装置や拘束具で動きを封じ、幾度も感覚と理性を揺さぶった。


 どうやら烙禍(らっか)の肉体は、常人よりも強靭(きょうじん)になるらしい。

 どんなことをされても、痛みに呻くことはほとんどなかった。


(ただ、普通に生きたいだけなのに)


 心の中で叫んでも、その声は研究者の走らせるペンの音と、機械の冷たい作動音にかき消される。

 体は拘束され、心は誰にも届かず、存在はただ、“実験対象”として扱われるだけだった。


 やがてシュカは、ゲヘナへ送られる決定を告げられる。

 その際に首に嵌められたのが、逃走防止用のチョーカーだった。

 金属製の冷たい装置が肌に食い込み、逃げれば即座に爆発する――命の枷。


 エデンの光から切り離され、絶望の地へ堕とされる準備は、すでに整っていた。


 目隠しをされ、監視官と警備隊員により、装甲車へ乗せられる。

 それからどれほど移動したのかは分からない。

 ようやく降ろされたときには、時間の感覚はとうに失われていた。


 目隠しが外された瞬間、吊るされたランタンの微かな灯りだけがある、暗い路地裏の一角に立たされていることに気づく。

 空が見えないゲヘナでは、今が昼なのか夜なのかさえ分からない。


 そこにあったのは、湿った空気、煤けた壁、生気のない街並み。

 ランタンの灯りがぽつりぽつりと揺らめくだけで、光は弱く青白い。まるで命が吸い取られたかのように冷たかった。


 足元には泥と埃、そして誰かの血痕が混ざった汚れた地面。

 どこからともなく、低いうめき声が響く。


 警備隊の制服を着た若い男が、煤けた袖を気にしながら無表情で端末を操作している。

 おそらくチョーカーの稼働状態を確認しているのだろう。


「……これで、お前の送還手続きは完了だ」


 乾いた声が響く。

 シュカは唇を噛み、その言葉を黙って受け止めた。


 その時だった。

 若い男がふと顔を上げ、わずかに声を落とす。


「……お前、まだ十七にもなってねぇんだろ」


「……え?」


「エデンから堕とされる奴がいなかったわけじゃねぇ。だが大抵は、面白半分でゲヘナに侵入して捕まったような、擦り切れた大人だ。お前みたいなのは珍しい。……突然変異体、なんだってな」


 男はポケットから細い煙草を取り出す。

 しかし火はつけず、指先で弄びながら続けた。


「いいか。本当はこういうこと言っちゃいけねぇんだが……この街で長く生きてぇなら、『(ウツロ)』を探せ」


(ウツロ)……?」


「ああ。ウツロってのは、殺人欲を持つ連中の中でも、力のある奴らの集まりだ。ギルドみてぇなもんだな。……ゲヘナの中じゃ一番まともに生きてる」


「まとも……?」


「飯も仕事も、最低限はある。力のある奴はそこで使われる。お前みてぇな“特殊なやつ”には、案外悪くない居場所かもしれねぇ」


 男は苦笑する。

 この地で「まとも」という言葉がどれほど皮肉か、言うまでもなかった。


「他にもギルドはあるが……どこもロクなもんじゃねぇ」


 男は三本の指を立てる。


「今んとこ、名が通るほどの組織は三つ。『宵闇(よいやみ)不死鳥(ふしちょう)』――ここはマジでヤバい。人殺しを神聖視してやがる。“殺人欲こそが人間の本性”とか抜かしてな。もう一つは『アステリア旅団』。ただの暴走族みてぇなもんだ。ゲヘナの騒ぎの中心には大体アステリアがいる。可愛いのは名前だけだ」


「……じゃあ、虚は?」


「虚は、まだマシだ。どんなクズでも、少なくとも理由のある殺ししかしねぇ。……まぁ、それでもここじゃ天使みてぇなもんさ。エデンじゃ、こんなこと言えねぇがな」


 遠くで金属が爆ぜる音が響いた。

 男は振り向き、吐き捨てる。


「行け。悪どい奴らに見つかる前に虚を探せ。……それが、生き延びる最初の一歩だ」


「……あなたは?」


「俺か?俺はエデンに戻る。……光の下に」


 その響きが、どうしようもなく遠い。


「――教えて。ゲヘナって、どうして……こんなに暗いの?」


 若い警備兵は結局吸うことのなかった煙草を地面に落とし、踏み潰した。


「光を嫌う奴らが集まる場所だ。……そりゃ、暗くもなるさ」


 そう言い残し、男は光のある方へと消えた。


 残されたのは、シュカひとり。

 首のチョーカーの冷たさが、一層強く感じられる。


 シュカは男の言葉を頼りに、一歩、闇の奥へ踏み出した。


 荒廃した建物の隙間から、目を血走らせた烙禍(らっか)たちがこちらを窺っている。

 冷たい視線。警戒と憎悪。

 誰もが“生きるために戦う”覚悟を宿していた。


 通りを行く者の手には刃物や奇妙な武器。

 首のチョーカーが不気味に光る。逃げ場はない。


 通りを進むうちに、ゲヘナの暮らしが見えてくる。

 壁際に座り込む者。物乞いをする子供。血まみれの手を差し出す者。

 全員がチョーカーに縛られ、絶望に支配されていた。


 胸の奥で、再び炎が揺らぐ。


 生き延びるためには、この力を使うしかない――直感が告げていた。


 遠く、闇の中に巨大な壁がそびえる。

 それはエデンの光とは異なる、閉ざされた闇の象徴。


(……行こう。(ウツロ)に)


 今は、ただ進むしかない。


 ✻✻✻


 そんなシュカの姿を、ゲヘナのある場所から見つめる男がいた。

 黒いローブに身を包み、闇そのもののような存在。

 だが隙間から覗く髪は、ランタンの灯りに照らされ、白く輝いていた。


 赤い瞳が細められる。


「やはり、こちらに来てしまったんだな。いつか会える時が楽しみだよ――シュカ」


 そう言って、男の姿は舞い上がる黒い羽根に包まれて、羽根とともに消えた。

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