3 『ゲヘナへようこそ』
赤い炎の記憶が、まだ体に焼き付いていた。
シュカ・エルナルシアは、拘束具に縛られて警備隊に連行され、聖の光から遠ざけられる前に、政府の地下研究施設へと隔離されていた。
そこでは前例のない突然変異体として、彼の能力の解析と抑制方法の研究が行われていた。
冷たい観察眼を持つ学者たちは、赤く揺らぐ炎に反応するシュカを何時間も観察し、実験装置や拘束具で動きを封じ、幾度も感覚と理性を揺さぶった。
どうやら烙禍の肉体は、常人よりも強靭になるらしい。
どんなことをされても、痛みに呻くことはほとんどなかった。
(ただ、普通に生きたいだけなのに)
心の中で叫んでも、その声は研究者の走らせるペンの音と、機械の冷たい作動音にかき消される。
体は拘束され、心は誰にも届かず、存在はただ、“実験対象”として扱われるだけだった。
やがてシュカは、ゲヘナへ送られる決定を告げられる。
その際に首に嵌められたのが、逃走防止用のチョーカーだった。
金属製の冷たい装置が肌に食い込み、逃げれば即座に爆発する――命の枷。
エデンの光から切り離され、絶望の地へ堕とされる準備は、すでに整っていた。
目隠しをされ、監視官と警備隊員により、装甲車へ乗せられる。
それからどれほど移動したのかは分からない。
ようやく降ろされたときには、時間の感覚はとうに失われていた。
目隠しが外された瞬間、吊るされたランタンの微かな灯りだけがある、暗い路地裏の一角に立たされていることに気づく。
空が見えないゲヘナでは、今が昼なのか夜なのかさえ分からない。
そこにあったのは、湿った空気、煤けた壁、生気のない街並み。
ランタンの灯りがぽつりぽつりと揺らめくだけで、光は弱く青白い。まるで命が吸い取られたかのように冷たかった。
足元には泥と埃、そして誰かの血痕が混ざった汚れた地面。
どこからともなく、低いうめき声が響く。
警備隊の制服を着た若い男が、煤けた袖を気にしながら無表情で端末を操作している。
おそらくチョーカーの稼働状態を確認しているのだろう。
「……これで、お前の送還手続きは完了だ」
乾いた声が響く。
シュカは唇を噛み、その言葉を黙って受け止めた。
その時だった。
若い男がふと顔を上げ、わずかに声を落とす。
「……お前、まだ十七にもなってねぇんだろ」
「……え?」
「エデンから堕とされる奴がいなかったわけじゃねぇ。だが大抵は、面白半分でゲヘナに侵入して捕まったような、擦り切れた大人だ。お前みたいなのは珍しい。……突然変異体、なんだってな」
男はポケットから細い煙草を取り出す。
しかし火はつけず、指先で弄びながら続けた。
「いいか。本当はこういうこと言っちゃいけねぇんだが……この街で長く生きてぇなら、『虚』を探せ」
「虚……?」
「ああ。ウツロってのは、殺人欲を持つ連中の中でも、力のある奴らの集まりだ。ギルドみてぇなもんだな。……ゲヘナの中じゃ一番まともに生きてる」
「まとも……?」
「飯も仕事も、最低限はある。力のある奴はそこで使われる。お前みてぇな“特殊なやつ”には、案外悪くない居場所かもしれねぇ」
男は苦笑する。
この地で「まとも」という言葉がどれほど皮肉か、言うまでもなかった。
「他にもギルドはあるが……どこもロクなもんじゃねぇ」
男は三本の指を立てる。
「今んとこ、名が通るほどの組織は三つ。『宵闇の不死鳥』――ここはマジでヤバい。人殺しを神聖視してやがる。“殺人欲こそが人間の本性”とか抜かしてな。もう一つは『アステリア旅団』。ただの暴走族みてぇなもんだ。ゲヘナの騒ぎの中心には大体アステリアがいる。可愛いのは名前だけだ」
「……じゃあ、虚は?」
「虚は、まだマシだ。どんなクズでも、少なくとも理由のある殺ししかしねぇ。……まぁ、それでもここじゃ天使みてぇなもんさ。エデンじゃ、こんなこと言えねぇがな」
遠くで金属が爆ぜる音が響いた。
男は振り向き、吐き捨てる。
「行け。悪どい奴らに見つかる前に虚を探せ。……それが、生き延びる最初の一歩だ」
「……あなたは?」
「俺か?俺はエデンに戻る。……光の下に」
その響きが、どうしようもなく遠い。
「――教えて。ゲヘナって、どうして……こんなに暗いの?」
若い警備兵は結局吸うことのなかった煙草を地面に落とし、踏み潰した。
「光を嫌う奴らが集まる場所だ。……そりゃ、暗くもなるさ」
そう言い残し、男は光のある方へと消えた。
残されたのは、シュカひとり。
首のチョーカーの冷たさが、一層強く感じられる。
シュカは男の言葉を頼りに、一歩、闇の奥へ踏み出した。
荒廃した建物の隙間から、目を血走らせた烙禍たちがこちらを窺っている。
冷たい視線。警戒と憎悪。
誰もが“生きるために戦う”覚悟を宿していた。
通りを行く者の手には刃物や奇妙な武器。
首のチョーカーが不気味に光る。逃げ場はない。
通りを進むうちに、ゲヘナの暮らしが見えてくる。
壁際に座り込む者。物乞いをする子供。血まみれの手を差し出す者。
全員がチョーカーに縛られ、絶望に支配されていた。
胸の奥で、再び炎が揺らぐ。
生き延びるためには、この力を使うしかない――直感が告げていた。
遠く、闇の中に巨大な壁がそびえる。
それはエデンの光とは異なる、閉ざされた闇の象徴。
(……行こう。虚に)
今は、ただ進むしかない。
✻✻✻
そんなシュカの姿を、ゲヘナのある場所から見つめる男がいた。
黒いローブに身を包み、闇そのもののような存在。
だが隙間から覗く髪は、ランタンの灯りに照らされ、白く輝いていた。
赤い瞳が細められる。
「やはり、こちらに来てしまったんだな。いつか会える時が楽しみだよ――シュカ」
そう言って、男の姿は舞い上がる黒い羽根に包まれて、羽根とともに消えた。




