2 『突然変異体』
当たり前だと信じて疑わなかった幸せな日常は、いとも容易く崩れ去る――
そのことを、シュカの目の前の光景が、雄弁に物語っていた。
つい先ほどまで、いつものように授業を受けていたはずなのに。
今ではそれが、遠い昔の出来事のように感じられる。
目の前には、焼け焦げた中年の男が横たわっていた。
そしてシュカは、自分の手に宿る赤い炎を見つめる。
「……え?」
何が起きているのか分からず、助けを求めるように顔を上げる。
だがそこにあったのは、いつもの優しい教師やクラスメイトの顔ではなかった。
誰もがシュカを恐れ、怯え、嫌悪の眼差しを向けていた。
『烙禍だ……っ』
その一声を皮切りに、教室中がざわめき出す。
「こいつ……手から炎が……!」
「見ろよ、血が――!」
「助けて!!烙禍がここに……!」
そんなざわめきを聞いて、シュカの心臓が破裂しそうなほど早く打ち始める。
頭の中は混乱と恐怖で真っ白だ。
赤い炎は、シュカの意志とは無関係に揺らぎ、手のひらから微かな煙を立ち上らせていた。
生徒たちは一歩、二歩と後ずさり、教室の空気は凍りついたように重くなる。
「シュカ……?」
かすれた声。幼馴染のカインのものだ。
けれどその瞳にも恐怖が宿り、彼もまたシュカに近づけずにいた。
シュカは震える手を見つめる。
なぜこうなったのか――何が起きたのか、理解できない。
何もかもが突然だった。
授業中、突然廊下が騒がしくなったかと思えば、その騒ぎは次第に近づいてきた。
状況を把握する間もなく、原因となった男がシュカ達の教室へ乗り込んできた。
小太りのその男は、シュカと同じクラスの女子生徒・リリスのストーカーだった。
警備隊に相談されたことに逆上し、アカデミーへ侵入したのだ。
教室は悲鳴に包まれ、逃げ惑う生徒たち。
だが男は逃げ遅れたリリスを捕らえ、手にしたナイフを突き立てた。
首を掠めたことで、鮮血がほとばしり、床へ滴り落ちる。
シュカはその光景に思考を奪われ、ただ立ち尽くした。
血の匂い。悲鳴。泣き叫ぶ声。
机の下や椅子の陰に身を隠すクラスメイトたち。
そして――男がさらにナイフを振り上げた、その瞬間。
シュカの奥底で、何かが目を覚ました。
『殺してやる』
それは意志でも理性でもない。ただ、本能が吐き出した言葉。
まさしく、ゲヘナの人間たちが持つ――殺人欲。
同時に、赤い炎が彼の体を包み込む。
炎は男の体を瞬く間に焼き尽くした。
焦げる匂いと熱気が教室を満たし、生徒たちは絶叫する。
「ぎゃあああッ!」
男がのたうち回る中、カインが叫ぶ。
「しゅ、シュカ……っ!」
だがシュカは、自分の手を見つめるだけだった。
炎はまだ微かに揺れている。
自分の意志ではなかった。
それでも確かに、自分の手から出た炎が、人を焼いた。
「ね、ねぇ……僕、どうなってるの……?」
掠れた声は、誰にも届かない。
「僕がやったの……? 違う、僕は……助けようとしただけで……」
救いを求めるようにリリスを見る。
だが返ってきたのは、怯えと蔑みの視線。
耳が周囲の声を拾い始める。
『ゲヘナ』『烙禍』『殺人欲』『人殺し』――。
その一つ一つが、心臓を握り潰す。
「ねぇ……違うって言ってよ。カイン……」
最後の望みを託してカインを見る。
しかし、その表情に希望はなかった。
「来るな!人殺しの烙禍が……! 気味が悪い!」
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
「カイン……?」
震える声。
だがカインは顔を背け、シュカの前から後ずさる。
「俺に近付くな!」
その声は、もう知っている幼馴染のものではなかった。
「カイン、離れろ! “それ”はもうシュカじゃない!」
悲鳴が上がり、机が倒れる。生徒たちが逃げ出す。
その時、教室のドアが乱暴に開かれた。
「動くな! 警備隊だ!」
白い装甲服に身を包んだ警備隊が雪崩れ込む。
胸には、金の羽の紋章――エデンの象徴が無慈悲に光っていた。
シュカは咄嗟に両手を上げる。
だがその手には、まだ赤い炎が宿っている。
それを見た瞬間、警備官たちは一斉に銃口を向けた。
「対象確認。特殊能力発動を確認。烙禍と認定、拘束を開始!」
「ま、待って……! 僕は、そんなつもりじゃ……!」
叫びは冷たい命令にかき消される。
「口を開くな! 穢れた血め!」
放たれた電磁弾が壁を撃ち抜き、閃光が走る。
その衝撃に怯え、再び炎が噴き出した。
「――やめてっ!」
焦げた臭いが漂う中、カインが叫ぶ。
「やっぱり……化け物だ……!」
その言葉が、決定的な刃となった。
「僕が……化け物……?」
誰にも届かない声が零れる。
シュカの瞳から、ゆっくりと感情の色が失われていく。
警備官が腕を掴み、床へ押し倒す。
冷たい拘束具が手首に食い込む。
「シュカ・エルナルシア。貴様を“烙禍”として認定。これより、ゲヘナ送りとする」
「あぁ……はは……」
乾いた笑いが漏れた。
見慣れた教室の天井が、遠ざかっていく。
その時、カインの小さな声が耳を刺した。
「烙禍が……人間のフリをしてたなんて……」
その一言が、シュカの中の何かを完全に壊した。
焼けるような痛みでも、涙でもない。
ただ、心の奥を冷たい風が吹き抜ける。
そして――
シュカ・エルナルシアはその日をもって、烙禍の烙印を押され、聖から咎へと堕とされた。




