13 『正義の鳥籠の中』
縋り付こうとするカインを拒絶し、離れたあと。
レイドはシュカを連れて、西三区の路地裏にある小さな飯屋へと入った。
レイドが見つけた、お気に入りの場所だそうだ。
古ぼけた木の扉。
壁には無数の傷跡が残り、椅子も机も年季が入っている。
だが、長く使われ、大事にされてきたことが一目で分かる、妙にあたたかみのある店だった。
「……ここが、レイドのお気に入りの場所?」
「ああ。静かだし、飯もうまい」
店主が無言で頷き、湯気の立つ器を用意し始める。
レイドは奥のテーブル席まで行くと、シュカが席に着くのを確認してから腰を下ろした。
そして、シュカの顔色を伺うように口を開く。
「大丈夫か?悪いな、勝手に連れ出して」
シュカは首を振る。
「大丈夫だよ。僕こそ……巻き込んでごめんね」
「そんなこと気にすんなよ。俺らはバディだぜ」
軽く笑ってから、レイドはメニューも見ずに店主に声をかける。
「いつもの二つ、頼んます!」
「はいはい、いつものね」
短いやり取りのあと、再び沈黙が落ちた。
レイドは机に肘をつき、シュカを見る。
「……でも、よかったのか?」
「え?」
「さっきのことだ。エデンから来てた男のこと」
シュカは視線を伏せた。
「……わからない。どうすればよかったのかな」
正直な言葉だった。
「僕にとって、カインは……友達だったから」
湯気が、二人の間を漂う。
「助けに来てくれたのは……嬉しかった」
ぽつりと、零れる。
「本当は、まだ友達だと思ってるし……手を取りたかった」
一緒に帰れば、きっと楽だった。
守られる場所。決められた正しさ。何も考えなくていい日々。
「でも……」
シュカは、ゆっくりと首を振る。
「実際のゲヘナが、どんな場所かを知ったから」
その言葉に、レイドは何も言わず、ただ聞いている。
「ここで生きてる人たちを見て、守ろうとしてるのを見て……それで、初めて“本当のゲヘナ”を知った気がする」
胸の奥が、じわりと痛む。
「でも、そうしたら今度は、エデンのことが……分からなくなった」
その言葉と同時に、料理が運ばれてくる。
湯気と匂いが、二人を現実へと引き戻した。
「……分からなくなった、か」
レイドが低く呟く。
「でもな、それは悪い意味じゃねぇ」
シュカは顔を上げた。
「見える世界が増えただけだ」
レイドの声は、淡々としている。
「あの男も悪くねぇ。ただ、まだ“外”しか知らないだけだ」
「……うん」
「だから、分かり合えなかった。それだけだ。ほら、食おうぜ。ここのポテト、うめーから元気出るぞ」
「あ、うん!」
シュカは、ポテトという料理に目を向けた。
エデンには、なかったものだ。
「ところで、これは何?食べ物なんだよね?」
「は?ポテトだが?」
レイドは当然のように言い、一本つまみ上げる。
「……ぽてと?」
聞き慣れない音を、シュカはゆっくりと口の中で転がした。
「その……どういう料理?」
「どういうって……」
一瞬言葉に詰まり、レイドは改めて皿を見る。
「芋を切って、油で揚げたやつだ」
「芋……」
「じゃがいもな」
「……じゃが、いも……?」
シュカは、少し困ったように首を傾げた。
「エデンでは……見たこと、ないかも」
その瞬間。
「…………は?」
今度はレイドが固まった。
「待て。エデンにポテトがない?そもそも芋がない!?」
「少なくとも、僕は見たことも、聞いたこともなかったよ」
「揚げ物も?」
「あぁ。油は下等なものだって言われて、使用は禁止されてるから。基本は、野菜とか魚をそのまま焼いたりとか」
レイドは、ゆっくりと椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「……マジか」
小さく、しかし心底ショックを受けた声だった。
「宗教観とか文化の違いは分かるが……ポテトなしで生きてきたって、それ……」
「そんなに?」
「そんなにだ」
真顔で断言され、シュカは戸惑う。
「じゃあ……どうやって食べるの?」
「普通にだ」
レイドは一本、口に放り込む。
「ほら」
「……」
しばらく観察してから、シュカも恐る恐る一本手に取った。
「あつ……」
指先を引っ込め、少し冷ましてから口に運ぶ。
「……!」
一瞬、言葉を失ったように目を見開く。
「……おいしい……!」
ぽつりと零れたその一言に、レイドは満足そうに頷いた。
「だろ。人生、損してたな。てか、アステリアの食堂でナヴァルさんの飯、食ってただろ。あれは大丈夫だったのか?」
「あ、あれもね、実は……」
続けられたシュカの言葉を聞いたレイドは、堪えきれずに驚きを顕にした。
「は、はぁ!?全部見たことなくて、ゲテモノ料理だと思ってたのか!?」
「パンとかはエデンにもあったけど、お肉とかは穢れのもとだって言われてて、食べたことなくて。でも……すごく美味しかったから、禁止とか無視して食べてた」
「マジかよ……」
シュカはもう一本、今度は少し慣れた手つきで口に運ぶ。
外はさくっと、中はほくほくしている。
噛むたびに、じんわりとした甘さが広がった。
「……あったかい」
「だろ?腹に溜まるもん食うと、頭も落ち着く」
そう言ってから、レイドはふと視線を落とす。
「……さっきのこと、まだ引きずってるか?」
「……少しだけ」
正直に答える。
言葉を探すように、シュカはポテトを見つめた。
「今の僕は、エデンにいた頃の僕じゃない」
「……ああ」
「ここで生きてる人たちを知った。レイドや、旅団のみんなに会って……」
一息つく。
「ここにいたいって、思ってる」
レイドは、何も言わずに聞いていた。
「それはな」
低い声で、静かに言う。
「逃げじゃねぇ」
シュカは顔を上げる。
「選んだってことだ」
「……」
「自分で選んで立つ道をな」
レイドはポテトを一本つまみ上げる。
「ほら、冷めるぞ。人生初ポテトなんだから、ちゃんと味わえ」
「……うん」
シュカは小さく笑い、また一本口に運んだ。
エデンには、なかった味。
ゲヘナで初めて知った、あたたかさ。
それはきっと、
失ったものの代わりに得たものだった。
✼✼✼
カインは、シュカがレイドと共に去ったあと、彼らを追うことができなかった。
シュカに拒まれた瞬間の感触が、まだ腕に残っている。
縋りついたはずの手は空を掴み、代わりに残ったのは、冷たい距離だけだった。
――違う。
胸の奥で、何度もそう言い聞かせる。
あれは拒絶じゃない。
シュカは、惑わされているだけだ。
あの男に、ゲヘナという場所に。
だからこそ、自分はここにはいられない。
カインはフードを深く被り、人目を避けながら裏道を進んだ。
正門を使わず、巡回路を避け、影に紛れるように。
エデンへ戻る。それが正しい。
それが――正義のはずだった。
(……なのに)
胸の奥に、言葉にできない苛立ちが渦巻く。
シュカを奪われたような感覚。
理解されなかった悔しさ。
そして、レイドという存在への、どうしようもなく複雑な怒り。
(あいつが……シュカを惑わせてる)
考えを振り払うように歩いていた、その時だった。
「……だから、次の投与は予定通りでいい」
ひそひそとした声が、路地の先から聞こえてくる。
カインは反射的に足を止め、物陰に身を潜めた。
二人組。
政府関係者だと、一目で分かる服装。
一人が、低く笑った。
「どうせ、連中は疑わない。あれが本当に殺人欲を抑える薬だと。薬を与えられてる限り、自分たちが“守られてる”って信じる」
「……まあ、それで従順になるわけだ」
その言葉を聞いた瞬間、カインの背中を冷たいものが走った。
(……従順?)
喉が、ひくりと鳴る。
「このまま続ければ、いずれ完全に――になる」
「それ以上はいい。誰が聞いてるか分からない」
カインだけだった。
その言葉を、最後まで聞いていたのは。
会話は途切れ、足音が遠ざかっていく。
カインは、しばらくその場から動けなかった。
胸が、嫌な音を立てて締め付けられる。
(……どういうことだ?烙禍は、殺人欲を抑える薬を飲んでるんじゃなかったのか?)
あれは――
守るためのものじゃない。
抑えるためですら、ない。
(このままだと……)
脳裏に浮かんだのは、薬を飲む烙禍たちの姿。
疑いもせず、従って。
「……シュカ……!」
気づけば、カインは走り出していた。
伝えなければならない。シュカに。
もう元の関係になんて戻れなくてもいい。
怒られてもいい。
嫌われたままでもいい。
エデンとゲヘナの真実を知ったまま、黙っているなんてできなかった。
だが――
「止まれ」
氷のように冷たい声が、背後から響いた。
カインは、はっとして振り返る。
白銀の鎧。
凍てついた刃のような気配。
王国騎士団団長――《聖氷の騎士・ルミナス》
その視線が、カインを射抜く。
「お前、エデンの人間だな?ゲヘナに侵入して、何を企んでいたのかは知らないが、大罪人を前に理由など必要ない」
逃げようとした瞬間、足元が凍りついた。
「今、何を聞いた?」
「……っ」
答えない。
答えられるはずがない。
ルミナスは、静かに剣を抜いた。
「せめてもの慈悲だ。今ここで、俺がお前を処刑してやろう」
淡々とした声。
そこに迷いはない。
「待って……!俺は、シュカに…………」
シュカの顔が浮かぶ。
伝えなければならないこと。
あの日、伝えなければならなかった言葉を。
「謝りたかっただけなんだ……。ずっと、友達でいたかった…………」
(シュカ……)
剣が、振り下ろされた。
冷気が、視界を覆う。
痛みは、一瞬だった。
音もなく崩れ落ちながら、
カインの意識は、闇に沈んでいく。
(……頼む……信じてくれ……)
最後に浮かんだのは、
拒絶されたはずの、その背中だった。
『シュカ……?あぁ、あの突然変異体か。見せしめには丁度いい』
そして、世界は凍りついたまま、静寂に閉ざされた。




