1 『エデンとゲヘナ』
かつて神が創った国家――神聖大陸国家『セレスティア』。
世界を創った最高神エレース・ラグナディウスは、歪みを嫌った。
遥か昔、天使と悪魔が手を取り合い共存していた世界を、最高神は“歪み”と呼び、それらを引き裂いた。
それは、後に創られた人間たちの運命をも、引き裂くことになる。
人間は生まれながらにして、天使的因子と悪魔的因子のいずれかを宿す。
光に祝福された天使的因子を持つ者は、聖へ。
闇に祝福された悪魔的因子を持つ者は、咎へ。
たとえ両親がエデンの住民であっても、生まれた赤子が悪魔的因子を持っていれば、その瞬間に家族から引き離され、ひとりゲヘナに送られる。
それが、この世界の神が定めた神律だった。
エデンの人々は神の加護のもとに生まれ、美しい空の下で、厳しい管理のもと基準を満たした安全な食糧と、穢れのない清らかな水を享受し、秩序の中で安寧に生きている。
神の声は法であり、光こそが正義とされる――完全なる楽園。
一方、ゲヘナは闇に沈んだ地。
エデンとゲヘナを隔てる巨大な黒い壁にすべて囲まれ、空すら見えない。
内部の至る所に吊るされたランタンから溢れる、わずかな光が、まるで神に見放された証のように街を照らしている。
湿った空気。煤けた建物。そこら中に転がる、飢え死にした人々の骸。
それが、ゲヘナの日常だった。
そこに暮らす者たちは皆、烙禍と呼ばれる、悪魔的因子を持って生まれた人間たちだ。
彼らは生まれながらにして、三大欲求と同等、あるいはそれ以上の“殺人欲”を宿し、稀に“特殊能力”を発現する。
その殺人欲がエデンの人間に危害を及ぼさないように、政府は彼らを監視し、厳重に管理している。
ゲヘナには街の至るところに監視塔が立ち、政府が派遣した監視員が、烙禍の一挙一動を記録している。
食料や物資は政府が定めた日に、定められた量だけが輸送される。その中には、殺人欲を抑制するための薬も含まれていた。
食糧の分配権は上層の役人が握り、配給が足りず飢え死にする者も多い。
病に倒れても医者は来ず、法も秩序もなく、街を支配するのは暴力と恐怖がほとんどだ。
それでも――ゲヘナの民は生きている。
奪われ続ける日々の中で、ほんの少しの温もりと、わずかな希望を求めながら生きる、まだ折れない者たちがいた。
この国、神聖大陸国家『セレスティア』は、決して平等な世界ではない。
そして今、その“分断の壁”の向こう側で――
一人の少年が、まだ見ぬ真実の扉を開こうとしていた。
✻✻✻
エデンの朝は、いつも白く眩しい。
神の加護と呼ばれる薄い光が街の空を包み、まるで世界そのものが祝福されているかのようだった。
セレスティアの帝都にあるアカデミーの、高等部一年、シュカ・エルナルシアは、窓辺で欠伸をしながら制服の襟を整えた。
入学から半年。ようやく日々の生活にも慣れてきた頃だ。
平凡な毎日、変わらない街並み、退屈なほど穏やかな日常。神律のもと、決められた通りに生きる。
それが、エデンにおける“幸せ”だった。
教室ではいつものように友人たちが笑い、教師が黒板へ文字を走らせている。
外からは鐘の音と鳥の声。
ゲヘナという名は、教科書の中でしか知らない。
そこは「悪魔の因子」と「殺人欲」を持つ殺人鬼が集められる“闇の地”だと教えられてきた。
けれど、それはただの遠い世界の話――そう思っていた。
今日も平和で、何の変哲もない日常の中で、シュカは窓の外を見る。
ふと視界に入った小高い丘の向こうに、空を突き抜けるほどの巨大な黒い壁がそびえていた。
それが、エデンとゲヘナを隔てる境界線。
自分には何の関係もない、ただそこに“在る”だけの壁。
「シュカ〜? 聞いてるか?」
「えっ、あぁ、カイン。どうしたの?」
振り返ると、幼馴染のカインがやれやれと肩をすくめていた。
「何見てたんだ? もう授業終わったぞ。早く帰ろうぜ」
「……うん、今行く」
軽く頷き、シュカは立ち上がる。
昼下がりの光が教室に斜めに差し込み、黒板の文字を淡く照らしていた。
「お前、またゲヘナの壁見てただろ。あんなもん見ても、気分悪くなるだけだぞ」
「……別に、そんなつもりじゃないよ」
カインは笑うが、その奥には確かな嫌悪があった。
エデンの人々にとって『咎』や『烙禍』という言葉は、不吉で穢れた響きを持つ。
彼らは神に背いた存在。人の皮を被った悪魔。
だから、関わってはいけない。
「俺たちは選ばれた存在だ。神の加護の中にいる。それだけで十分だろ?」
「……うん」
シュカはそれ以上、何も言えなかった。
アカデミーを出ると、白い街並みを抜ける風が心地よく、空はどこまでも青い。
遠くに見える王宮の塔の最上階で、最高神の像が光を反射して輝いている。
まるで神そのものが、この地を見下ろしているかのように。
「来週、王国騎士団の模擬戦だよな。一緒に見に行くか?」
「……そうだね。行こうか」
王国騎士団。
神託によって選ばれた者たちが、神から特殊能力を授かり、セレスティアのために命を捧げる組織。
その力を目にできる機会は滅多にない。
カインは明るく笑った。
「さっさと騎士団が、ゲヘナごと烙禍どもをぶっ潰してくれたらいいのにな!」
隣で笑うカインに、シュカは否定せず微笑んだ。
しかし――
シュカ・エルナルシアが、前例のない突然変異体として殺人欲と特殊能力に目覚め、烙禍としてエデンから追放されたのは、その翌日のことだった。




