プロローグ
「……ん、ヤマ……」
耳元で、甘く艶かしい低音が私のあだ名を囁いた瞬間、ハッと目を覚ました。
柔らかい布団に包まれている背中が、妙にあたたかい。
――今の声、まさか……。
嫌な予感が全身を駆け抜ける。
間違いようのない聞き慣れた声。
四六時中一緒にいたせいで、すっかり馴染んでしまった香水の匂い。
――振り返らなくても、わかる。
でも、どうしても確認せずにはいられなくて。
おそるおそる背後を振り返った。
そして目に飛び込んできたのは――。
私が担当している男性アイドルユニットのメンバー、滝本柊生、その人が。
あろうことかベッドの上で、私を背中からぎゅっと抱きしめるように眠っている姿だった。
「…………はぁぁっ!? うそ、でしょ……!?」
朝チュンしちゃった――!?
まさかの状況を目の当たりにして、心臓がギュッ! と痛む。
慌てて胸元を押さえると、かろうじてインナーと下着を身につけていることは確認できた。
そのことに、ほんの少しほっとする。
…………うん、よし。
そろり――、と。
私は寝息を立てる柊生さんを起こさないよう、細心の注意を払ってその腕の中から抜け出した。
着ていたブラウスがなぜか床に脱ぎ散らかされていたので、慌てて手に取り身につける。
それから、ジャケットがハンガーに掛けられていたのをそっと取り外し、足音を立てぬよう部屋を出た。
――大丈夫。
柊生さんは、まだ眠ったままだ。
そうして部屋の玄関までたどり着いた私は、思わずしゃがみこんで両手で顔を覆った。
……ああ、やっちまった――。
柊生さんは今年29歳。
これからがアイドルとして勝負どころだ。
なのに、マネージャーの私が、こんなことしでかしていいと思っているのか――。
ここ最近、柊生さんからの物言いたげな、どこか熱を帯びた視線に気付きながら、気づかないふりをし続けてきた。
そうして、気付きながらひっそりと、逃げる準備をしてきたというのに――。
「……ん」
寝室から、柊生さんの寝返りを打つ声が微かに聞こえてきてびくりと肩をすくめる。
――よし、逃げよう。
元々逃げるつもりだったのだ。
このまま逃げればいいじゃないか。
そう決意を固めて、そそくさと玄関のドアを押し開ける。
音が鳴らないように。細心の注意を込めて。
かちゃり、と背後で玄関のドアが閉まり、オートロックがかかる音が聞こえる。
そうして柊生さんに気づかれる前に、マンションを後にした。
外に出ると、朝の空気が腹立たしいほどに清々しかった。
他サイトからの転載ですが、ちょこちょこ加筆修正しています。
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