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 金曜の晴れた夜という事もあってか、夜はこれからとばかりに、ネオンは煌びやかに街を装飾し、人々はどこからともなく溢れ出していた。地下鉄から、ショッピングビルから、どこからともなく入れ代わり立ち代わりに、人々が溢れている。日中の雨の痕跡は、微かに世界の色を濃くして、雑踏の匂いを際立たせていた。

「気持ちいい風ですね」

 少しだけ湿っている夜風を受けながら、レオはそう呟いた。同意を求めているようであったが、返す義務はないと思い、僕は車体の機嫌とスピードと、流れる景色に集中する。

「乗り物が苦手なんです」

 彼は少し声を張るように言った。隣で並走する黒いタクシーを抜くように、アクセルを回して、僕は彼の声を無視する。

「でも、好きになれそう」

 彼はそう言った。彼の声はすうっと夜と薄く濡れたままの街のネオンに吸い込まれていく。僕はその声を追いかけるように、加速させる。

「わあ、すっげえ」

 身体に受ける風が増すと、子供のような歓声が背後から聞こえる。彼は自分の事についてあまり喋らないまま「すっげえ」とか「風やば!」とか、その場限りの言葉を放ち続けた。六本木の森タワーを横目に、六丁目の交差点を走り抜ける。

「……俺の両親、車の事故に巻き込まれて死んだんです」

 赤信号を見つけて、減速している最中に、レオがそう呟いた。聞こえるか聞こえないかの、ぎりぎりのラインの声音だった。俺は努めて聞こえないように、エンジンの音に耳を傾ける。

「五年前の事故です。居眠り運転が引き起こした玉突き事故です。トラックが前の車に追突して」

 風の声が無意識に流れてくるように、彼の声が耳に入ってくると、どくりと心臓が大きく跳ねた。俺は俯いていた顔を上げて、自然と震える唇を強く噛み締めた。

 まさか。

 揺らめく青信号を見上げて、グリップを震える指先で握り締める。ゆっくりと走り出した車体に任せて、僕は地から足を離して、身体をすり抜けていく風の冷たさに集中した。車がすぐそばをもの凄い勢いで追い抜かしていく。

「その車が目の前のバイクを跳ね飛ばして、対向車線の車に突っ込んだんです」

 他に集中しようとしても滑り込んでくる彼の声音から、意識を切り離す事が出来ない。僕の脳裏に、バイクを運転する今だからこそ、生々しい事故の惨劇が、仄暗くそして激しく脳裏に再生されていく。

 不意を突かれた衝撃を、受け流す事が出来ずに滑るタイヤ。悲鳴。ブレーキがアスファルトに抵抗して叫ぶ音、水しぶき。

「運転席と助手席にいた両親は、フロントガラスに飛んで来たバイクの車体に潰されました」

 そう呟かれた言葉が、僕の心臓を握り潰す。僕はバイクの速度を無意識にゆっくりと落とすと、車道脇に停車した。

 これ以上、このまま運転する事は不可能に思えた。残っていた理性を搔き集めて、なんとか正しい動作でバイクを停車させると、自分たちの脇をもの凄いスピードで外車が走り抜けていった。

「ルイさん……? どうしました」

 声が聞こえて、気配が近づく。僕はヘルメットを被ったまま、両手で額の辺りを抑えた。あの時母親から受けた連絡が、不協和音みたいに頭の中で鳴り響く。

「お兄ちゃんが、事故に巻き込まれたのよ!」

「あんたが雨の中呼びだすから!」

「ルイさん、気分悪いですか?」

 罵声が絡みあい、鼓膜を塞ぐ中、するりと入り込んできた声に、思わず顔をハッと上げると、いつの間にかバイクから降りたレオが、僕を覗き込んでいた。小脇にヘルメットを抱えて、眉間に寄せた眉の尻を下げている。

「ご、ごめん」

 咄嗟にいい言葉が思い浮かばなくて、言葉を濁すように謝罪を呟くと、彼は緑色のネオンが輝くコンビニを指さした。

「ちょっと飲み物買ってきますね」

 そうにこりと人畜無害な表情で駆け出す。数分で戻って来た彼の手にはミネラルウォーターとコーラの二本が握られていた。ヘルメットを外すと、

「どっちがいいですか?」

 そう目の前に差し出される。

「……こっちで。あ、金」

「乗せてもらってるんだし、この位で遠慮しないで下さいよ」

 レオはそう言いながら、プシュっと勢いよく炭酸の噴き出すキャップの音を立てながら、コーラを開けた。ごくごくと上下する薄い咽喉仏をぼんやりと眺めてから、僕もゆるゆるとした手つきで口を開き、一口だけ冷水を咽喉に流した。あまりの冷たさに、身体のどこをどうやって流れていくのか、手に取るように分かった。

 飲み口から口を離して、ふ、と息を吐き出すと、すでに不協和音は遠去っており、耳を塞ぐのは車道とその上を流れる高速道路を走る車のエンジン音だけだった。中年オヤジの腕に絡みつく若い女の子が、甲高い笑い声を上げながら、通り過ぎて行く。

「ここら辺、あまり来た事ないんですよね。ルイさんはどうです?」

「流しでなら、何度か」

「都会って感じですよね。俺、神奈川の田舎に住んでるんで、こういう景色って珍しくて」

 そう言いながら顔を上げると、レオは車の疾走が生み出す風に、髪を押さえた。車のライトや、街の明かりが明滅しながら、レオの細い横顔を、色んな色に染めていく。その中でも、瞳の強さや温度だけは一定に保たれ、僕は思わず、「あのさ、」

 と声を掛けていた。振り向いたレオは、話し掛けられた事自体が不思議だと言うような顔をして、僕を見つめる。その眼差しに、喉元まで出かけた言葉がつっかえた。俺は指の腹でペットボトルを撫でながら、俯いた。

 こんなことを言ったところで、何が変わるわけでもない。もしかしたらひどく傷つけるかもしれない。

「……もしかして、俺の話が悪かったですか?」

 想像もしてなかった不安気な声音と共に、言葉が放たれて、思わず「違う!」と、普段使わない声量で否定し顔を上げる。僕よりも驚いて目を丸くしているレオが、目を瞬かせていた。

「あ、ごめん」

「いえ、……あは、そんな大きい声も出るんだ」

 的外れな事を言って、レオが笑った。態と的を外して笑い話にしてくれているのが分かると、不甲斐なさ、申し訳なさに、胸が押しつぶされる。

 微かに出来た沈黙の後で、レオは口を開いた。まるで、何かに促されるように、コーラのキャップを締めながら。

「……俺、事故車の後部座席に居たんです。丁度ね、両親と進学の事で揉めながら帰って、一人で拗ねてる時だったんです」

 どうしても、忘れられなくて。

 そう最後に呟いたレオの声には、その事実を少しでも軽く見せようとする、苦笑が混じっていた。何一つ、一文字も――彼の両親の命を語る中で使われた言葉は、軽くなんてないのに。

「……なんで、バイクに乗ろうって思ったの?」

 質問を替える言葉が、なめらかに声が口から滑り落ちた。彼は僕の質問に、うん、と一回頷き、少しだけ汚れている黒いスニーカーに目を落とした。まるで、足もとに散らばっている言葉のなかから、答えを探し出すように。

「バイクなんか、一番関わりたくないだろ」

 質問に質問を覆いかぶせる言葉に、何故か棘が生えてしまう。俺はもう飲み込めない言葉の名残を飲み込んで俯いた。

「……そうかも、しれません。でも俺はそうじゃなかった」

 顔を上げると、レオは少しだけ笑っていた。ひどくやつれたように見えるのは、青白い街灯のせいだろうか。それでも彼の眼差しの奥に灯る、ぼんやりとした優し気な靄のような炎は、出会った時のように穏やかなままだ。

「ただ、乗ってみたかったんです。……もうね、事故を恨む事に疲れたんです」

 憎み続けるという行為を、これからの人生のすべてに寄り添わせて生きる。その重く苦しい行為が、どれだけ彼を今まで苦しめていたのか――彼の奥に揺れる炎は、穏やかさじゃない。

 果てしない徒労感。生気が失われた、無味無臭の、穏やかになるしかない諦めの色だ。

「あの事故、すごい大きかったから」

 言葉がまた苦笑に滲む。

 僕は自分の手を握りながら、軋む心臓の音が外に漏れないようにと、奥歯を噛締めた。緊張や罪悪感。そんなものが掌に汗を滲ませていた。

「バイクって、こんな感じなんですね」

 そうレオが呟く。

「フロントガラスにぶつかった、バイクの運転手の人、即死だったって……。怖かっただろうな」

 トラックの激しい走行音と、どこからともなく聞こえてくるクラクションの音に、レオの掻き消されてしまいそうな声が、細い糸のように、僕の耳と繋がる。

 ――即死。怖い。

「……今日はありがとうございました。俺、ここから電車乗りますね」

 レオはそう言って、にこりと今までの影を消すように、明るく微笑んだ。その表情に翳り等なく、今までのそれが作り話なのではないかと思う程、純粋な光を纏っていた。

 それじゃ、と背中を向けるレオに、

「なあ」

 僕は殆ど無意識に声を掛けていた。

「今日のお詫びで、また走りに行きたいんだけど……都合の良い日教えて」

 お詫びなんてしない方がいい。そんな事は分かっているはずなのに、口がひとりでにそう提案をしていた。関わって、もし僕の素性がバレたら、彼をまた悲しませてしまう気がした。

 だって、僕があの時、兄を呼ばなければ。

「……良いんですか?」

 目を瞬かせて、彼は僕へと歩み寄ると、本当に? と再度確認しながら覗き込んでくる。街頭に照らされたレオの顔が、幼い光を纏い、僕は閉口せざる得ない状況にいる事を感じた。

「また、ダイレクトメールします!」

 そう言って笑うレオに、僕は一度だけ頷いた。そんな僕を確認すれば、レオは「ありがとう」と満足そうに言い、地下鉄の階段を軽快に降りていく。途中振り返ったレオが、手を振っていた。迷惑そうにレオを避けて行く中年の事なんて気にしない笑顔に、僕は同じように手を振り返す。

 僕は地下へと吸い込まれていく彼を、見えなくなるまで見送ると、深い溜息を吐いた。

 勢いとは言え、余計な事をした事には間違いはない。どうしよう、そう悩んでも、彼が望む日に、一度はまたバイクの後部席に乗せなければいけない。

 ――うまく、運転できるだろうか。

 彼の話に動揺してしまった自分の心の弱さに、怖気づくも、出てしまった言葉は引っ込められない。

 僕は一瞬前の彼の笑顔を思い出す。

 何も知らない、という顔を完璧に演じられる彼の無垢な笑顔。

 僕はもう一口だけ、ペットボトルの中身を飲み、六本木の濃紺の夜空に溜息を吐き上げた。



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