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夜が深まれば深まる程、その魅力や輝きが際立つ新宿歌舞伎町。電飾が縁取る「新宿歌舞伎町入口」という看板の前に、僕は愛車になるバイクを止めてMAIさんを待っていた。あの後、「絶対に遅刻しません」とメッセージ来たが、そう言って来なかった人は、度々存在する。今日も特に期待もせず、僕はジャケットのポケットから煙草を取り出すと、口に咥えて百円ライターで火を点けた。妙に目を刺すネオンの光を受けて、白い煙がスモークみたいに目の前を漂う。目の前を歩き難そうな厚底靴を履いた、細い女の子が横切った。天使の羽の付いた小さなリュックは、幼稚園児が背負うものに見えるけれど、ここら辺では普通らしい。
僕は昨日磨いたばかりの赤いタンクやグリップ、クラッチ、メーターを指先でなぞる。兄から譲り受けたカワサキ「バルカンS」は、十九になったばかりの僕には、随分身の丈に似合わない代物である。しかし、学校に行くにも、こうして夜の街を流すのにも、今では生活には欠かせなくなった相棒である事にも間違いはなかった。
「すみません、ルイさんですか?」
ふいに下がっていた視線を上げる直前。見た事ある桜色のネイルが視界の隅に飛び込んできた。僕がゆっくりと視線を上げると、
「私、MAIです。初めまして」
そこに立っていたのは、思った以上に若い女だった。下手すれば自分とそれ程年が変わらないのでは? と思う程、夜の暗がりに負けない血色の良い肌の彼女は、アイドルしてます、と言われても「はあ」と納得してしまいそうな雰囲気すらある。僕は慌てて煙草の火を携帯灰皿でもみ消すと、グリップに掛けていたヘルメットを彼女に差し出した。
「すぐにわかりました。かっこいいバイクですね」
彼女はすらりと躊躇いなく世辞を述べると、僕からヘルメットを受け取る。僕は自分のヘルメットを被ると、バイクに跨った。歩道を人が流れ、靖国通りを激しく車が往来する。車道の信号機が青から黄色へと変わっていた。
「そんな分かりやすかったですか?」
「はい、だってバイク乗ってるのルイさんだけだもん」
言われてそれもそうか、と納得しながら車体を乗りやすいように傾ける。
「僕の肩掴まって乗って下さい」
彼女はヘルメットを被ると、ステップにヒールの低いベージュ色のつま先を引っ掻けて、いち、に、さん、っと勢いを付けると、僕の後ろにとすん、と収まった。視界の隅に彼女の灰色のスラックスの細い膝が見えた。ぐっと、肩に彼女の細い指が食い込んだ。
「肩でもどこでも良いんで、掴まってて下さい。危ない事は絶対にしない事」
「はぁい」
彼女は声色を弾ませながら、多少高揚しているのか、うわあ、どきどきする、すごい、等と繰り返し呟いて、電飾に彩られた新宿を見渡す。
「走り出すと、結構寒いんで、言ってください。薄手ではありますけど、ウィンドブレーカーならあるんで」
「ありがと、優しいね。ルイくん」
顔を近づけたのか、ヘルメット同士がこつん、とぶつかった。僕はMAIさんの最後の言葉には返事をせず、グリップを握り込むと、エンジンを回して眠っていた車体を温めて行く。激しいコール音に歩く人の目が、一瞬きつく僕達に食い込んだ。
しかし、このバイクに毎日乗っていれば、そんな視線にも耐性が付いてくる。僕はゆっくりと車の流れを見て、車道に合流すると、靖国通りを皇居に向かって真っすぐ走らせる。上昇していく速度に合わせてギアやシフトを替えて、車体に安定感を持たせていく。
「すごぉい!」
後ろでMAIさんの声が聞こえる。僕の肩をぐっと掴む手は、まるで絶叫マシーンに乗っている子供のようだと少し思った。
「寒くないですか?」
声を張って聞くと、
「寒くない!」
と、元気の良い声が背後から響いた。
信号に掴まる事無く、長く続く車道と両側から迫るように立ち並ぶビルのネオンを切り裂きながら、僕は少しだけ速度を上げた。終わりかけの春の空気が、容赦なく身体を打ち、そして砕かれながら背後へと去って行く。既に桜の花は新緑へと変わり始め、道路わきに植えられた樹木は鮮やかな緑色に葉を茂らせていた。街頭に浮かび上がる深い緑が。ざわざわと終わりかけの春にさざめく。
「ルイくんはいつから乗ってるの?」
「二年くらいです」
減速して信号の赤い光を見つめながら答える。幼い頃、あんな色をした飴をよく食べていたなと思い出しながら。
「二年か、……あのね、話してもいい?」
「お好きにどうぞ」
歩道の青が点滅する。
僕はグリップとクラッチに指を添えた。
「あのね、私ね」
そう言ってMAIさんが語り出した。
僕はそれに耳を傾ける訳でもなく、ただバイクを走らせた。夜の闇を切り裂いていく。