キュアノジア国物語(仮
その日、大聖堂の目の前のノートス広場では、定期市が開かれていた。
神学校の授業を終えたヴァシリオスがそこに足を向けたのは、興味を引く特別ななにかがあったからではない。付き添い奴隷のカルナクが、物欲しそうな視線を広場に向けていたからだった。
三十にもうすぐ手が届こうかというカルナクは、自分よりずっと年若い主人ヴァシリオスによく付き従ってくれてはいるが、こういう賑やかな場所を素通りすると露骨に口を尖らせる男である。そしてヴァシリオスは、下の者の機嫌をとることに抵抗を感じない性格だった。
広場は豊かな喧騒に包まれていた。あちこちからうまそうな匂いがし、それらを売り込む声が聞こえる。そのほかにも、日用品や装身具を売る屋台があり、人の輪の中心では軟体芸を披露する芸人が拍手喝采を浴びており、愛玩用の美しい羽根を持つ小鳥をかごに入れて並べている店が繁盛していた。
興味が薄いとはいえ、こういう賑わいをヴァシリオスは嫌ってはいない。甘党のカルナクのために砂糖をまぶした揚げ菓子でも買ってやろうかと考えながら、人波に乗ってブラブラと歩くのは楽しかった。
「坊ちゃん、ヴァシリオス坊ちゃん」
斜め後ろを歩くカルナクが、浮かれた声を出しながらヴァシリオスの袖を引いた。
「見てくださいよ、あの舞台! 若い娘があんな格好で踊るなんて、目のやり場に困っちまいますね」
にやけた顔で凝視している彼の視線の先を見ると、簡易的な舞台の上では異国の踊り子たちが、今まさに腰を振り始めたところだった。
「あれは……ドンドゥルマ帝国の芸人たち、だね」
カルナクが鼻の下を伸ばすのも無理はなく、彼女たちが身に着ける色鮮やかな衣装は、かなり露出度の高いものだった。上半身の布は申し訳程度しかなく、激しい振り付けのたびに豊かな胸がこぼれそうなくらい大きく揺れた。腰に巻いている下衣スカートは足首までの長さがあったが、その代わりに両脇とも太ももの付け根あたりまで深い切れ込みが入っており、脚を隠す意図はまったく感じられない。舞台の端に控えた奏者の音楽に合わせて彼女たちが体をくねらせたり飛び跳ねたりすると、手首や足首に着けた飾りや鈴が甲高い音を立てて、踊りに花を添えていた。
言葉と態度が裏腹なカルナクとは対照的に、ヴァシリオスは本当に目のやり場に困って視線をあちこちさまよわせた。十五歳にしては落ち着いているが、十五歳にしては奥手な彼には、隣国の踊り子たちの姿は刺激が強すぎた。
結局演目が終わる前に、いたたまれなくなってヴァシリオスはカルナクを促してその場を離れた。カルナクは名残惜しい視線を舞台に注ぎながらも、大人しくついてくる。しかし、口をへの字に曲げるのは忘れなかった。
「まったく、坊ちゃんは真面目が過ぎますよ。聖職者を目指しておられるとはいえ、ああいうものに慣れておくことも大切だと思いますけどね」
「そうかな。僕はたいして、その必要性は感じないけど」
半分本気、半分強がりのその言葉は、おそらくカルナクには年の功ですぐばれていただろう。ヴァシリオスとは付き合いの長い奴隷は、小さく呆れたようなため息をついた。
そのときだった。
「痛いじゃないの!」
矢のように鋭い声が、喧騒の合間を抜けてヴァシリオスの耳に届いた。
思わず振り返る。見回すまでもなく、声の出どころはすぐに分かった。広場の隅に小さな人だかりがあり、短い鞭を振り上げようとする男の禿げ頭が見えた。
「あ、坊ちゃん⁉」
ヴァシリオスに、カルナクの困惑した声は最後まで届かなかった。駆け寄った先の人だかりを抜けると、目の前の光景に彼は息を呑んだ。
そこは粗末な奴隷市だった。最下層の労働奴隷を扱っているのだろう、鞭を握りしめる商人はいかにも粗野で品がなく、扱う奴隷たちもぼろぼろのひどい恰好をしている。そんな中で、今まさに鞭で打ち据えられて悲鳴を上げた少女の姿に、ヴァシリオスの目は釘付けになった。
「痛いってば! 牛や馬じゃあるまいし、そんなもので殴って言うことを聞かせようとしないで!」
「お前らなんか牛馬以下だ! 手間かけさせる、言うことはきかねぇ、反抗ばかりしやがる。いい加減にしろ!」
また鞭が空を切る音がした。肩を打たれた少女を見て、ヴァシリオスはまるで自分が打擲されたかのような衝撃を受けた。自分でもよくわからないまま、締め付けられるように胸が痛い。
しかし今度は、彼女は悲鳴を上げなかった。痛みに顔をゆがめながらも、自分を傷つける存在を許すまいと、燃えるような瞳で奴隷商人を睨み上げた。
「なっんだ、その目はぁ‼」
逆上した男は、腕のみならず今度は足を振り上げた。彼女が踏みつけられてしまう。そう思うよりも先に、ヴァシリオスの口が動いた。
「やめろ!」
突然の鋭い声に、その場の誰もが一瞬動きを止めた。
奴隷商人はヴァシリオスを振り返り、彼の服装や持ち物を見てすぐに媚びた笑みを浮かべた。
「これはこれは、お見苦しいところをお見せしちまって。新しい奴隷の教育中なもんで、お坊っちゃん」
「いくら奴隷といえど、むやみに痛めつけるのは感心しないな」
ヴァシリオスは、そもそも目立つことを好む性ではない。普段しないことに、彼の声は少し震えていた。その虚勢に気が付いたのか、奴隷商人は値踏みするような視線をヴァシリオスに送ってくる。負けまいと思わず彼が胸を張ると、それに加勢するように「そうよ!」という声が、庇われた少女から送られてきた。
「その人の言うとおりよ。さっさとその鞭をしまいなさい!」
「てめぇ、誰に向かって口をきいているんだ。奴隷の分際で!」
少女の威勢のいい声は、当然のことながら奴隷商人の神経を逆なでした。もう一度鞭を振り上げた男の腕を、ヴァシリオスは今度は力尽くで制止した。
「なにしやがる!」
「その娘で言い値で買う! だからやめるんだ!」
興奮した様子の奴隷商人は鼻息を荒くしながら、それでも冷静な目でヴァシリオスをもう一度上から下まで値踏みするように見た。いくらまでなら吹っ掛けられるかを見定める、粗野ながらそれは確かに商人の目つきだった。
「奴隷は安い買い物ではありやせんぜ。こんな奴らでも、そこら辺の家畜なんかよりはするんだ。失礼ですがお坊っちゃん、お名前をお伺いしても?」
ヴァシリオスは言葉に詰まった。「言い値で買う」とは、ちょっと言いすぎだったかもしれない。しかし、そんな後悔が胸をよぎったのはほんの一瞬のことで、彼の心はすでに決まっていた。名前も知らないあの少女を、なんとしてもこの男の暴力から守らなければならないのだと。
「僕の名前は、ヴァシリオス・イオニアス・アーティ・オストラコだ。家に確認してもらっても構わない」
そう告げると、奴隷商人は大きく鼻を鳴らした。周りで様子をうかがっていた人だかりの中からも、「オストラコだってさ」「アーティ・オストラコ」という嘲笑交じりのささやきが聞こえてきた。それらはのどにつかえた小骨のように響いたが、ヴァシリオスはなんでもないという顔で聞き流した。
「どうなんだ。いったいいくらでその娘を買えばいい?」
「んん、そうですなぁ。薄汚れているとはいえ、磨けばそれなりになりそうな娘っ子ですが……。お貴族さまとはいえ、陶卿オストラコの家格のお方。あまり無理は言いますまい。五十フリーマでいかがでしょうか」
「いかがもなにも、言い値で買うといったんだ。それでいいよ」
「これはこれは、オストラコのお方にしては太っ腹な。ありがたいことですなぁ」
奴隷商人は人々の前で恥をかかされた仕返しのつもりか、それ以降もあからさまな侮蔑の言葉を大声で並べ立てたが、ヴァシリオスが顎で促すと素直に少女を彼の前に引き出してきた。
「本来ならもう少し見目好く整えてからお渡しするべきかもしれませんが、お坊っちゃんにはこれでよろしいでしょう。地べたに這いつくばるような無様な姿でも、たいそうお気に召したようですから」
いちいち癇に障る台詞だったが、一刻も早くこの場から立ち去りたいのはヴァシリオスも同じだった。とにかく彼女をこの不快な場所から遠ざけたかったし、周囲から聞こえる小骨のような言葉の数々にもうんざりだった。
ヴァシリオスは腰に結び付けた財布の中身を確認し、悟られないようそっと安堵のため息をついた。なんとか五十フリーマありそうだ。子供の小遣いのような小銭も寄せ集めてであるところは恥ずかしいが、それでも金に変わりはない。ヴァシリオスは有り金を財布ごと商人に手渡した。
「それごとやるよ、文句はないだろ」
奴隷商人は財布の中の貨幣の細かさに再び馬鹿にしたように鼻を鳴らしたが、指定した金額がたしかにあることを確認すると、ニンマリと笑った。
「ピッタリのようですな。お買い上げありがとうございます」
少女の手を引いて奴隷市から離れると、すぐにカルナクが近寄ってきた。どうやら、面倒ごとはごめんだと端で小さくなっていたらしい。
「ヴァシリオス坊ちゃん、いったいどうされたんですか?」
「どうしたもこうしたも、全部見ていたんだろ、カルナク?」
「見ていたかどうかはさておいて。らしくないじゃありませんか、坊ちゃんがあんなに目立つ立ち回りをなさるなんて。それに、こんな娘……」
カルナクは少女をじろじろと見回した。いかにも薄汚い野良猫を見るような目つきだったが、砂ぼこりに汚れた顔を穴が開くほど見つめたあと、少々下卑た笑みを浮かべて言った。
「坊ちゃん、なかなかお目が高いのかもしれませんな。あの男が言っていたとおり、意外と磨けば光るかもしれませんよ、この娘。こりゃ坊ちゃんも、ようやく一皮剝ける時期が来ましたかな……いてっ、足を踏まないでください!」
「下世話な話をするな。そんなんじゃないよ」
「じゃあ、なんだってこの娘を買ったっていうんです? あんな大金まで出して」
心底不思議そうなカルナクの疑問に、ヴァシリオスは言葉に窮する。たしかにあのとき、この少女を助けなければと強く思った。しかしそれがなぜなのか、他にも数人いた奴隷たちの中でどうして彼女だけを特別に感じたのか、それは彼自身にもわからなかったのだ。
「……単なる気まぐれだよ。それだけだ」
「はぁ、気まぐれねぇ」
カルナクはまったく納得がいってなさそうだったが、家路を辿るために広場を離れようとするヴァシリオスに素直についてきた。
「そうだ、カルナク。悪いけど、今日はもうなにも買えないよ。すっからかんだ」
「え、そんな! こんな娘っ子一人買うのに、有り金ぜんぶはたいちまったんですか⁉」
「財布ごと渡したのは失敗だったな。あの商人、みんな持っていっちゃったよ。揚げ菓子を買うくらいは余るはずだったのに」
「なんて愚かなことを‼」
絶望的な声を上げて頭を抱えるカルナク
を見て、それまで状況に流されて驚くばかりだった少女が、ようやく笑い声をあげた。
緊張が解けたこともあってか、少女は涙まで流してひとしきり笑い続けた。
笑いものにされたカルナクは憮然としていたが、ヴァシリオスはその天真爛漫な姿を見て胸をなでおろしていた。かなり強引に彼女を奴隷商人のもとから連れ出したが、少なくともそれは間違いではなかったようだ。
「おい、いつまで笑ってるんだ。いい加減にしろよ」
カルナクの不機嫌な声に、少女は目じりをぬぐいながら「ごめんなさい」と一応は顔を伏せた。それでも笑いの波はまだ残っているようで、押し殺した笑いが隠せていない。
「おい!」
「カルナク、勘弁してやって。きみ、大変だったね。傷は大丈夫?」
ヴァシリオスがそう気遣うと、少女は今度ははじけるように顔を上げた。どこかいぶかしむような目つきでヴァシリオスをまじまじと見つめながら、コクリと頷く。
「あの……ありがとうございます。助けてくださって」
先ほどまでの笑いとは違う、警戒心のにじむ声。それはそうだろう。彼女からしたら、ヴァシリオスは得体のしれない存在に違いなかった。目的がはっきりしている分、先ほどの奴隷商人のことのほうがまだ理解できるだろう。
「さっきも言ったけど、僕の名前はヴァシリオス・イオニアス・アーティ・オストラコ。その、君があんまりひどい扱いを受けていたから、見ていられなくて」
「でも、あたしは奴隷だし」
「奴隷だからって、どんな風にも扱われていいわけじゃないよ。きみだってそう言っていただろ?」
「それはまぁ、そうですけど」
支配階級から聞く正論に説得力がないのはもっともだった。ましてや、今回のことはやった本人であるヴァシリオスにも説明しがたい行為なのだから、当事者とはいえ少女に理解できるわけがない。
言葉に詰まるヴァシリオスに、助け船を出したのはカルナクだった。
「なんにせよ、坊ちゃんに助けられたことには変わりないんだ。もっと感謝しろよ、小娘」
その言い草に少女はムッと口を尖らせた。
「小娘とはなによ。あたしには、ヨリィっていうちゃんとした名前があるのよ」
「ヨリィ。へぇ、あまり聞かない名前だね」
ヴァシリオスが素直な感想を述べると、今度はヨリィは彼にも不機嫌な顔を向けた。
「なにか文句があるの? 母さんがあたしのことをそう呼んでたのよ」
「おい小娘、坊ちゃんに向かってなんだ、その口の利き方は」
「だから、あたしは小娘じゃないっての。おじさん耳がないの?」
「なんだとぅ⁉」
睨みあう二人に、ヴァシリオスは慌てて止めに入る。
「ちょっと待てよ。カルナク、落ち着いて。ヨリィ、すまない。馬鹿にしたわけじゃないんだ。僕も、もちろんカルナクも」
ヴァシリオスの言葉にヨリィは面食らって目を瞬かせ、そしてばつが悪そうに俯いた。
「あ、あたしこそ、ごめんな……申し訳ございません。助けていただいた方なのに」
「それはもういいよ、僕がしたくてやったことなんだから。ただ、カルナクにあまり生意気な口を聞いてはいけない。きみよりずっと年配で、長く僕に使えてくれているんだから」
やや不承不承ながら、ヨリィはカルナクにも頭を下げた。鼻息を荒くしていたカルナクもその態度に留飲を下げたようで、鷹揚に頷いていた。
「ところで、どうしてあんなに鞭打たれていたんだ?」
おおよそ、今のような生意気な口をきいたことで短気な奴隷商人を立腹させたことに間違いはないだろうが、一応ヴァシリオスは尋ねた。
「どうせ、お前が些細なことで喧嘩をふっかけたんだろ」
「カルナク、ちょっと黙ってろ」
「些細なことじゃないわ。あの商人が、小さな子どもを鞭を打とうとしたからよ」
そのときのことを思い出したのか、ヨリィは眉をひそめながら言った。
「子どもを?」
「はい、ほんの小さな男の子が躓いてしまったからって。でもその躓いたのだって、短い鎖で足を繋いでいるからで、あれじゃ転べと言ってるようなものだわ。それを見たら腹が立っちゃって、つい食って掛かったら、こんどはあたしが鞭を食らっちゃって」
「その子は、きみの弟かなにか? 親しい子どもだったのか?」
「いいえ。今日初めて顔を合わせた子です」
ヨリィは後ろ髪を引かれるように振り返った。思わぬ形で離れてしまったその子どものことが気にかかるのだろう。
ヴァシリオスは心底驚いていた。ほとんど見ず知らずの子どものために鞭の下に身を投げ出すことを厭わない、そんな物語の中の高潔な主人公のような彼女が、奴隷だとは信じがたかった。
そして同時に、ヨリィを無理やりでも助け出したことは正しかったのだと確信していた。彼女が打たれたときに感じた激しい共感性、その理由はまだまったくわからないが、彼女は自分にとって神が定めた重要な存在に違いなかった。
「坊ちゃん、坊ちゃん」
ヴァシリオスが感動に浸っていることを知ってか知らずか、カルナクが呆れたように耳打ちした。
「こりゃ、大変な買い物をしたかもしれませんよ。とんだ厄介者だ。この調子であれこれ問題を起こされちゃ、たまったもんじゃないですよ。聞いてますか? まったくもう」