昇天したニャン太郎との再会
俺は家に続く坂道を登りながら考えた。美月がプレゼントしてくれた自転車を坂道の途中で降りてゆっくりと押している。ヨーコたちが言うように、新たな事件が起こるのだろうか? 東川准教授の着任、ジャスミンの霊的覚醒、権左衛門の出現(俺はなぜかこの爺さんに敬称をつけない)、袴田さんの勘、そして早川さんの変化と秋彦の杞憂。俺は坂道を登りきると、だだっ広い隆雲寺の敷地をぼんやり眺めながら最近の一連の出来事を思い返していた。
「ンン・・・?」寺の本堂に入る階段の四段目に白い小さな物体がいる。それは白い小猫で俺を見ている。俺の家と隣の隆雲寺は小高い丘のてっぺんに建っているので、野良猫は俺の家の敷地にはほとんど来ることない。しかし、この白い小猫はどこかで見たような気がする。俺は自転車を押しながら、白い小猫が座っている階段に近づいていった。
「ニャン太郎?」
一か月半前にヨーコが拾ってきた小猫の幽霊だった。ヨーコの頼みで俺が引き取り、俺の家で三日過ごした。そしてヨーコとジョージがこの隆雲寺に来た時にニャン太郎は昇天してあの世に行ったはずだ。
「ニャン太郎、どうしたんだ? お前はあっちに行ったはずだろ」
「ニャー!」雌だがヨーコにニャン太郎と名付けられた小猫は元気に返事をした。そして俺の足元に来てゴロゴロと喉を鳴らしながら、小さな丸い顔を俺の右足首に摺り寄せた。
そのとき深紅のBYD ATTO3が音もなく姿を現した。深紅のEV車は家の玄関の対面にある灰色のカーポートに滑らかに停車した。
「お兄ちゃん、ただいまー。アレッ、どうしたの?」美月は霊感はないけど恐ろしく勘がいい。
「ああ、お帰り・・・。美月、実は今俺の足元に猫の幽霊、ニャン太郎がいる」
「エッ、一か月半前にヨーコさんが拾ってきた白い小猫かな。雌猫なのにニャン太郎と命名されて、ここで昇天したって聞いたけど」
「うん、あの世に行ったはずだが何故かここに居る」俺は足元のニャン太郎を見ると、ニャン太郎も俺をじっと見ている。
「お兄ちゃん、あっちに逝った幽霊さんが、こっちにもどって来たことはあるの?」
「いや、ない」
「ふーん、お兄ちゃん、またお店で何かあったのかな? ねえ、良かったら、そのあたりのことを私に聞かせて」美月の銀色の瞳には知的好奇心が刺激されたためか、小さな星が幾つも輝いているように見えた。
「アッ、ああ・・・」俺は曖昧に頷いた。美月と俺は並んで家の玄関に歩いて行くと、ニャン太郎も俺たちの後をついて来た。
午後七時、俺と美月は食卓を囲んで夕食をとり始めた。美月はいつも俺の左斜めに座る。
「美味しい。お兄ちゃんのお味噌汁は、いつも本当に美味しいね」血の繋がっていない妹はお椀からピンクの唇を離しながら、そう言う。
「ああっ、そうか・・・」俺はいつもどう答えていいか分からず、曖昧な返事しかできない。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんのお店にまた新しい幽霊さんが来たのかな?」俺は相変わらず美月の聡明さに驚き感心する。美月はおれの内容の乏しい話から的確に事態を把握するのだ。名探偵を気取っているナルシー坂下とは比較の対象にすらならない。
「ウン・・・、まあ、そうだ」俺は鯖の塩焼きを咀嚼しながら頷いた。
「その新人の幽霊さんはジャスミンさんの関係者かな?」美月は鯖の骨を紅い塗り箸で寧に皿の端に置きながら訊いた。
「ああ・・・、ジャスミンの勤めている老人介護施設の入所者だ。柳生権左衛門という爺さんだ」俺は塩鯖にポン酢をかけた大根おろしをのせて口の中に入れた。それを素早く噛んで白ご飯を口の中に追加する。(美味い!)美月と一緒に食事をすると、一人だけで食べたり他の人間と食事するより、数倍美味しく感じる。
俺の足元に座っていたニャン太郎も何故か鯖の匂いを感じたようで、俺の足首に顔をこすりつけ口をムニムニと小さく動かしている。俺は焼き鯖を少しのせた小皿をニャン太郎の前に置いた。そしてかがんでその小皿に右手をかざした。小皿にのった鯖からぼんやりと半透明の霊化した鯖が浮き上がった。ニャン太郎は霊化した焼き鯖をムシャムシャと食べ始めた。美月は箸を止め、その様子をじっと見つめていた。妹はニャン太郎も霊化した焼き鯖も見えないのだけど。
「お兄ちゃん、その権左衛門さんという幽霊はどういう人なの?」
「八十八歳で死んだが、何か歳のわりには元気そうだった。ヨーコとも楽しそうに話していたし。まあ少し変わっている印象は受けた・・・」まさか店に来た早々、権左衛門が女の子のパンツを覗き見したとは言えない。
「お年寄りの幽霊さんって珍しいよね、お兄ちゃんの霊的な話でお年寄りの幽霊さんが出てきたことはなかったと思うけど」
「うん」俺はみそ汁の大根や人参を口の中に入れた。
「そのお年寄り幽霊さんは・・・・・・殺されたのかな?」美月は困った顔をした。俺はチーム・ジョージのおバカたちの話は信じていなかったが、天才の頭脳を持つ妹が言うのであれば話が違う。美月の美しい銀色の瞳が深い色を湛えている。
「ああ、権左衛門の雰囲気はヨーコと坂下と同じだとジャスミンが驚いていた」幽霊関係の話をするとき、俺の味覚は麻痺するけど、美月と一緒の時だけは別だ。今もちゃんとご飯の仄かで柔らかい甘みを感じている。
「ひょっとして、ジャスミンさんが最初に見た幽霊さんは権左衛門さん?」美月と話すと余計な説明は要らない。
「ああ、ジャスミンは権左衛門が死んで幽霊を見ることができるようになった。そしてジャスミンは権左衛門の死に顔や幽霊に凄い違和感をもったらしい」美月は上品に口を動かしながら俺を見ている。
「権左衛門の死に顔はポカンとしていたそうだ。それからジャスミが初めて見た幽霊の権左衛門はベットの下の床でグーグー眠っていた」美月は一瞬不思議そうな表情を浮かべた。
「そのお年寄り幽霊さんは確かにユニークだね」と言った声はいつもより少し低かった。そして美月は湯飲みの緑茶をゆっくりと味わい俺を見て微笑んだ。
俺の足元に居たニャン太郎が「にゃーん」と言った。