「初音ちゃん、ここ数日、少しハイだよね」と恋する秋彦は心配している。
「長谷川さん、眠たそうですわね?」土曜日四限目の古典文学史が終わった後、早川さんのクールな言葉が俺の耳に届いた。
「うーん、今日もまあまあ眠れたけど」
俺は職場の人間が出て来たヘンテコな夢を思い出した。ジャスミンがミスをして袴田刑事が彼女にブチブチと陰湿な文句を言っている。それに怒ったジョージがカポエラのスピンキックを放つと、何故か柴丸に当たってしまう。柴丸は吹っ飛んで天井に当たり霧のように消えてしまった。それをヨーコと坂下が大笑いして見ている。そしてレジのカウンターには東川准教授と知らない女が立って男の客の対応をしながら冷たく笑っていた。袴田刑事に怒られたジャスミンは悲しそうな顔をして俺を見ているが、何故か下着姿なのだ。訳が分からん・・・、ジョークが喜びそうな夢だが。
俺は眠りが浅い時によく仕事の夢を見る。決まってよろしくない内容である。起きたとき自分が何処にいるのか一瞬分からないが、俺の部屋にいることが分かるとホッとする。そして今日は十分な睡眠がとれていないのだろう。俺は正午過ぎに目覚めてからずっと体がだるい。
「職場の関係で何かお悩みでもあるのですか?」
「うん、まぁ・・・。そんなに大したことじゃないけど」
「そうですか。先日、わたくしを介抱してくれたジョージさんにお礼をするため、長谷川さんの勤めていらっしゃるお店に伺いましたの」
「あっ、ああ・・・そうでございましたわね」俺は他人の口調に同調しやすいのだ。
「そのとき、わたくしは感じたのです、長谷川さんのお勤め先はとても清浄な空気に満たされていると・・・」清浄な空気? ヘンテコな空気の間違いじゃないか。
「ジョージさんは立派な聖職者になるために、日本で修行をされているのでしょう?」絶対違う! ジョージの奴、早川さんに何言ったんだ。
「長谷川さんももうすぐ剃髪されて出家されるのでしょう?」それも違う! 早川さんはどうしても俺の坊主頭を見たいのか?
「あっ、早川さん。早川さんから借りた北山教授の本、まだ全部読んでいないんだ。十冊あるし。もうしばらく借りていていいかな」俺は慌てて話題を変えた。
「結構でございます。じっくりと長谷川さんに読んでいただけたら、わたくしとしても本望でございます」
「あっ、それから秋彦からメールがあって、今から三人でお茶でも飲まない?」秋彦は他の講義に出ている。
「そうですか。ご一緒したいのですが、今から外せない用事がございまして。残念ですが今回はご一緒できないということを、秋彦さんにお伝えください」
「ああ、分かりましてで、ございます」早川さんは俺の変な言葉にクスッと笑うと、颯爽とその場を離れて行った。ベージュのチノパンツと紺色のジャケットを着た長身の彼女が歩くと、前方の空気が左右に綺麗に割れていくようだった。
早川さんが来れないと知った秋彦は残念そうだったが、俺たち二人は構内の喫茶店に入った。ほとんどモノがない店内だが、俺はその方が落ち着ける。
「あのさ、長谷川君、初音ちゃんが外せない用事って何だろうね?」秋彦はオレンジジュースをストローで一口飲むと、少し心配そうな表情を浮かべた。目の前の友人は俺と二人だけの時、早川さんを初音ちゃんと呼ぶ。
「んー、それは何も言わなかったなぁ」
「初音ちゃん、ここ数日、少しハイだよね」秋彦は何かを思い浮かべるように茶色い瞳を上に向けた。
「えっ、そうなの?」
「雲海和尚は相変わらず達観しているね」俺は和尚でも寺の住職でもないぞ。
「俺、職場のことで少し悩んでいるから」
「ふーん、そうなの。職場の人間関係とかで?」
「まあ、そうだな」正確には職場に出入りする変な奴らの人間性についてだが・・・。
「職場の雰囲気って大切だよね」俺は小さく頷き、秋彦はオレンジジュースをまた一口飲んだ。
「初音ちゃんはさあ、あの新任の東川准教授と連絡を取っているんじゃないかなあ」
「そうなの?」俺は驚いた。
「いや、初音ちゃんから具体的なことは訊いていないけど、そんな気がするんだ」恋する男の勘は鋭いのか・・・。俺にはよく分からないけど。
「ねえ、長谷川君。君は北山教授のことをどう思う」秋彦は珍しく真剣な眼差しで俺を見つめた。
「どう思うって、まあ面白い学者というか研究者だとは思うけど」
「うん、彼の言っていることは僕も納得するところはあるよ。ほら、僕の仕事柄、悲惨な部屋とか入らないといけないじゃない。そこには人間の淀んだ想いとか絶望とかが残っているように感じることもあるんだ」秋彦は孤独死の特殊清掃の仕事もしているから、彼の話は実感がそれなりにこもっている。
「それに彼が指摘した古典文学と霊の関係とかも面白いし。古典の物語って、よく幽霊が出てくるよね。やはり幽霊って存在するのかなって思うよ。北山教授の理論は変な説得力がある」
「・・・・・・うん」
「でも北山教授のゼミはおかしいよ。初音ちゃんがあんなふうに調子悪くなるなんて」
「ああ、そうだな」俺は冷めたコーヒーが苦く感じた。そして俺は二十日前の北の森のことを詳しく問われるのかと思い警戒した。妖刀「黒蛇」の力で異形の霊体となった北山が俺を取り込もうとしたなんて話はほとんどの人間には妄想のように聞こえる。
「だけど北山教授って一種のカリスマ性がある感じするなぁ。何か北山教団みたいなのかありそうじゃない? 長谷川君」
「そうなのかな」俺は北山の変な理論を熱く語っている早川さんの姿を思い浮かべた。秋彦の脳裏にもそれが浮かんでいるのか?
「新しい東川准教授もその一派なのかな?」
「うーん、どうだろう。わからない」
「あのヘルメットおばさんが一緒にいるじゃない」
「土田助手のこと?」
「うん北山教授の復帰は難しそうみたいだけど、東川准教授が彼の後継者だったら、初音ちゃんがまた夢中になっちゃうんじゃないかな」
「そんなことはないと思うけど」
「そうかな?」
「うん・・・」
「そうだといいなぁ・・・・・・」秋彦はオレンジジュースを飲もうとしたが、グラスは空だった。俺の白いコーヒーカップも空だった。そして喫茶店には俺たちしか客はいなかった。