北山大悟の死と早川さんの願い
土曜日の四限目の講義は古典文学史だ。この講義は面白いのだが四限目なので、ときどき睡魔が襲ってくる。講義終了後、俺と秋彦は早川さんを誘って構内の喫茶店に入った。いつもクールなファッションの早川さんが今日は黒いスラックスに白いブラウスで淋しそうに椅子に座っている。
「早川さん・・・・・・、大丈夫?」秋彦の声は俺が今まで聞いた中で一番優しい響きだった。
「・・・ハイ、秋彦さん、長谷川さん。わたくしは正直申し上げて大変ショックを受けております。一応心の準備をしておりましたが、やはり北山教授様が亡くなられたとは、未だに信じられません」早川さんはぼんやりと目の前の白いコーヒーカップを眺めている。
今日の朝、大学の掲示板やホームページに北山大悟の死亡が報じられたのだ。一か月前、北の森で霊獣シロに魂のほとんどを持っていかれた北山大悟が、今まで生きていたこと自体が奇跡的だが、目の前の二人にそんなことは言えない。
「でもさ、北山教授の理論はいろんな本に書かれているよね」
「・・・・・・秋彦さん、わたくしが貸しました北山教授様の本、読まれましたか?」
「アッ、ああっ。読んだよ、まだ二冊だけど」秋彦、あんなややこしい本を二冊も読んだのか。俺は秋彦の純情に敬意を払った。
「ありがとうございます・・・。はぁー」早川さんは何回ため息をついたのだろう。彼女が深いため息をつくたびに秋彦は困った顔をする。
「それにさ、北山教授の後継者はいるでしょう。東川先生を早川さんは評価していたじゃない。北山教授の理論は彼が受け継いで発展させてくれるよ」秋彦の励ましに早川さんは小さう頷いた。俺は北山大悟の理論自体は悪くないと思っているが、北山信奉者のヘンテコな教団は危ない奴らなので一刻も早く解散してほしいというのが本音だ。
「確かに北山教授様の後継者はおられます。それに北山教授様の特別なゼミナールは継続して活動されています。だけど・・・・・・」
「だけど?」秋彦は首を捻り、俺は嫌な予感がした。
「わたくしは何度も東川先生にそのゼミナールのメンバーに加えてほしいとお願い致しましたの。しかしその件に関しては未だに色よい返事をいただいておりません。その他のことに関しては、東川先生は優しく丁寧に応えていただいております。これはきっと・・・あの腐れ外道の土田が・・・、あっ、失礼いたしました。あの土田女史がわたくしのゼミナール入会を邪魔しているのに違いありません!」毒を吐いた早川さんの蒼い顔に血の気がもどり、冷めたコーヒーをゴクゴクと飲んだ。
「あのヘルメットおばさんは変だよね」
「そうでしょう、秋彦さん。なぜあのとっちゃん坊やが北山教授様のつくられた大切なゼミナールで偉そうにしているのか、わたくしは全く理解できません!」とっちゃん坊やって何だ?
「うん、そうだそうだ。雲海和尚もそう思うよね」俺、和尚じゃないし。
「まあ・・・、そうだなぁ」俺はその話題に触れたくない。
「雲海和尚様!」俺、和尚じゃないの!
「雲海和尚様は生前の北山教授様に認められた有資格者ですわ。わたくしのこの心の大きな欠落は北山教授様の残したゼミナールに参加することで、かなり埋められるのではないかと考えております。どうかその御仏の広いお心でわたくしの願いを叶えさせて頂きますようお願い申し上げます」俺、そもそも仏教徒じゃないし・・・・・・。
「雲海和尚がヘルメットおばさんに頼めば一発で大丈夫だよ、ねっ早川さん!」秋彦、何だ、その根拠のない発言は? 早川さんは秋彦の根拠のない援護射撃に勇気をもらったのか、俺に切ない哀願の眼差しを送り続けている。
「ああッ、まあ、機会があれば訊いてみるよ」俺はここで断れば二人に人非人扱いされそうだったので、そう答えてしまった。
「長谷川さん、わたくしの得た情報によりますと、来週中に特別ゼミナールが開催され、今日明日中に長谷川さんへその案内が届くと思われます」アメリカのスーパードラマTV に出て来る捜査チーム並みの情報収集力だな、早川さんは。
「その特別ゼミナール開催に向けて東川先生や土田と長谷川さんは近々接触する機会があると思います。そのグッドチャンスに是非わたくしをプッシュしてほしいと切にお願い申し上げます。長谷川さん!」グッドチャンスって何? それに早川さん、北山教授が死んだわりには冷静に考えることができるのね?
「はあ・・・」俺は全く気乗りしなかったが、辛うじて曖昧な返事はした。
「初音ちゃんがそのゼミに加われば、北山教授の理論も飛躍的に発展するよ」秋彦はお気楽にそんなことを言ってる。
「そんな、秋彦さん。わたくしごときがそんな力はありませんわ」早川さんはもう元気になっている。
俺は早川さんが北山の残した怪しいゼミナールに関わることは極力避けてほしいと思っていた。だけど何故だか分からないが、早川さんと北山大悟との関係は、奴が死んでもなお続いてしまうような予感がした。