小さな教会で俺は赤城史郎と西田夕子に会う
仕事を終えた俺は美月がプレゼントしてくれた銀色の自転車に乗って家に向かっていた。よく見ると路上や堀内公園北の森の北側入口にホームレスがいる。陽はすっかり上がっていたので、俺は帽子を深くかぶりサングラスをかけている。近頃、陽光がかなり眩しく感じてしまうのだ。なるべく前方を注視するが、今朝は路上で座っているホームレスが目に入る。
(こんなにホームレスの人がたくさんいたのか?)俺は彼らの数の多さに驚き、自分の視野の狭さにも驚いてしまった。無関心とは恐ろしいものだ。
俺が通っている大学を過ぎるとキリスト教の小さな教会が見えてきた。教会の前に何となく薄汚れた人達が集まっている。俺は何故かそこで自転車を止めて降りてしまった。
教会の入り口前では炊き出しが行われていた。ホームレスの人たちは並んで弁当や飲み物を受け取っている。俺がぼんやりとその様子を眺めていると「雲海さーん」という声が聞こえた。
「へへへっ、雲海さん、またお会いしましたねーっ」麦わら帽子を被っている赤城史郎は眩しそうに紅い眼を細めて俺の前にユラユラと歩いて来た。
「今日は珍しく晴れていてお日様が張り切っていますねぇ、へへへっ、困ったもんだ」赤城史郎は右手を目の前にかざし空を見上げた。彼の赤い眼が落ち着きなくキョロキョロ動いている。
「あたしゃ、お天道様が頑張っているときよりも、いない時の方が好きですね。雲海さんもそうでしょう? それにそのサングラス、似合っていますよ、へへへっ」
「・・・・・・」俺は赤城史郎の問いには答えず、並んでいるホームレスの人たちと弁当を配っている教会のスタッフを見た。
「この街は優しい人が多いですねぇ。あたし達みたいな根無し草にもちゃんと手を差し伸べてくれます。さすがキリストさんを信じている人たちです、へへへっ、雲海さんもそう思いませんか?」
「ええ、まあ」俺の脳裏にジョージのヘラヘラ顔が浮かんだ。俺は慌てて首を振って奴の顔を追い払った。
「どうしました、雲海さん。あーっ、やっぱり雲海さんはキリストさんよりは仏さんのほうでしたねぇ、へへへっ失礼しました。その立派なお名前から考えるとそりゃそうだ」
「いや、別に・・・。俺は名前負けしてるし」
「いやいや、ご謙遜を。そんなことはありませんよ。雲海さんはこんなあたしでもちゃんとお話してくれます。だけどねぇ、雲海さん。あの炊き出しのボランティアの人たちがみんな、雲海さんのような心根を持っているとは限りませんよ。ヒヒヒーッ」赤城史郎の口角がつり上がり黄ばんだ歯が見えた。
「んん?」
「そりゃあ、ほとんどのボランティアのスタッフさんは優しいですよ。それは分かります。あたしゃ前にも言ったように、人の魂の良し悪しに関しては詳しい方ですよ。ヘヘっ、こう見えても穢れた場所や汚れた人に関しては敏感に反応しますからねぇ。その分足りないところがたくさんありますが、まあそれは仕方がないことです。雲海さん、あのスタッフの中に一人だけ、他の皆さんと違った考えでボランティアをしている奴がいます。へへへっ、雲海さんも分かると思いますよ」
俺は赤城史郎の言われるままに弁当を配っているスタッフに目を向けた。
「おっと、また長話をしてしまいました。すみませんねぇ雲海さん。あたしゃお腹が空きましたので、ここで失礼します。またお会いできるのを楽しみにしておりますよ、雲海さん」そう言うと赤城史郎はフラフラと左右に揺れながら歩いて行った。俺は彼の変な歩き方を見ていると後方から突き刺さるような圧力を感じた。俺が振り返るとボランティアのエプロンをした西田夕子が微笑みながら俺を見ていた。俺は呆然と彼女を見ていると、西田夕子はゆっくりと俺の方に歩いて来た。
「おはようございます。長谷川さん」西田夕子は髪に巻いた緑のバンダナを外しながら爽やかな笑顔を見せた。
「あっ、おはようございます。えっと、西田さん・・・」
「フフッ、私の名前を憶えていてくれて、ありがとうございます」
「あっ、いえ・・・・・・」
「朝早く、珍しい場所でお会いしましたね。長谷川さんはお仕事の帰りでしょう?」
「ええ、まあ、そうです」
「お疲れ様です。お仕事帰りで疲れているのに炊き出しの場所に関心を持っているとは、ジャスミンちゃんがあなたを尊敬するわけですわ」
「いえいえ、俺はただ見てるだけで何もしていないし」俺は慌てて右手を左右に振って否定した。
「それに西田さんは介護の仕事で大変なのに、こうしてボランティアもされているので偉いです」俺は必死で言った。
「私もキリスト者の端くれなので、このくらいのことは・・・ね」彼女の声は自嘲気味に聞こえた。そして俺の頭にはまたもジョージのヘラヘラ顔が浮かんだ。
「それから長谷川さん、先ほどここで炊き出しに来た男の人とお話をされていたでしょ? 彼とは知り合いなの?」西田夕子は灰色の眼鏡のフレームを触りながら少し声を落とした。
「あっ、ああ。彼とは先日、声をかけられたことがあって・・・」
「そうなの、ウサギさんがあなたに声をかけたのね」
「ウサギさん?」
「あっ、ごめんね。彼が自分のことを『ウサギ』って呼んで下さいと言ったのよ。自分の眼が紅いので『ウサギ』ってね」
「はあ・・・」
「炊き出しに来る人はほとんど自分のことは話さないし、こちらも向こうから求められない限り応えないスタンスでやっているの。でもウサギさんは自分のことをいろいろ話してくれるわ。彼は独特の話し方だしスタッフもウサギさんのことはよく覚えているの」
「そうですか」
「長谷川さん、路上や公園で生活している人がこういう場所以外で他人に話しかけることは珍しいのよ。あなたはそういう人たちから話を聞いてほしいと思わせる力があるのでしょうね」
「いや、そんなことは。たまたま北の森で休んでいたら、声をかけられただけです」俺は慌ててブンブンと顔を振ったのでサングラスが耳から外れて地面に落ちてしまった。西田夕子はスッと体を折り曲げて俺のサングラスを取ってくれた。そしてページュのハンカチで落ちたサングラスを丁寧に拭いてくれた。
「ハイ、落ちたけど傷はないみたいね」彼女の右手が俺の右手に微かに降れた。
「あっ、すみません」
「フフッ、長谷川さん、あなたもお日様が苦手なのね。私の眼鏡も遮光機能があるのよ」西田夕子は少し眩しそうに俺を見つめた。
「長谷川さん。あなたはとても謙虚だけど、あなた自身が自分の力をもう少し認めた方がいいのではないかしら。あなたのお店に彷徨える霊が集まることは凄いことだと思うけど」
「エッ?」
「この世に未練があって残っている魂や生きていること自体がとても辛い人が沢山いる。私は職場やこういう活動をしているとそういう場面に多く接してきたわ」
「はあ・・・」
「ねえ、長谷川さん。今はマトモな人がとても生きにくい社会だと思わない?」
(マトモな人間? そんな奴いるのか。ジョージは楽しそうだけど能天気なおバカだし、秋彦や早川さんはズレているし、袴田さんはいつも疲れている。親父は檀家のご婦人たちにちょっかいばかりかけてるし、七海さんは今どこにいるんだろ? 俺は小心者で鈍いし幽霊とばかり付き合っている。あっ、美月とジャスミンは・・・?)
「こんなふうに一人ひとりがバラバラになっている世界は間違っているのではないでしょうか、長谷川さん? 孤立している人があまりにも多すぎます。でも私は諦めたくないのです。多くの人が救いを求めているなら私は何らかの力になりたいと思っています」西田夕子はほとんど感情を込めずに話していた。俺は彼女の話が崇高過ぎるためか、素直に聞くことができなかった。
「あっ、ごめんなさいね。お仕事帰りのところを引き留めてしまって」西田夕子は何かに気づいたように謝った。
「いや、べつに。全然大丈夫です。帰って眠るだけですから」大学の講義が一つあるのだが。
「フフッ、そう、それは良かった。長谷川雲海さん、もしあなたが私たちの活動に興味を持ってくれるのなら、こちらに連絡していくださいね」知的なキリスト者は俺に白い名刺を渡した。その白い名刺には西田夕子の名前と携帯電話番号とメールアドレスが記してあった。