赤城史郎は北の森で俺に話しかけてきた
俺は小心者で怖がり屋だから殺人現場とか自殺がよくある場所なんかには近づかないようにしている。堀内公園北の森はヨーコや坂下が殺された場所だから尚更だ。だが俺は東川准教授と学生食堂であった後、フラフラと北の森に来てしまった。
堀内公園北の森は大学から自転車では十分くらいで着く。俺は薄暗い駐輪場に美月からプレゼントされた愛車を置いた。夜空には半月がかかっていて時折、灰色の雲が流れてぼんやりとした半月を隠す。生ぬるい風が吹いている。気がつけば北山大悟と戦った場所にいた。北の森の入り口、半円形のベンチに俺は腰を下ろした。
「グルグル・・・」足元にニャン太郎がいた。俺は少しぼやけている白い小猫幽霊を抱き上げて膝の上に置いた。
「ニャニャニャ」ニャン太郎は俺に何か言っている。ジャスミンが言ったようにニャン太郎は俺に何か伝えにこの世界にもどってきたのだろうか?
「いい月ですねぇ」ざらついた声に俺は飛び上がった。長い半円形ベンチの端に黒い塊があった。
「へっへっへー、すいませんねぇ、学生さん」声の主は七月なのに黒いコートを着ていた。背の高い電灯の僅かな光の中、その男は背を丸めて座っている。
「こんな夜は月見で一杯じゃないですか? ねえ学生さん」コート男はカップ酒をあおった。俺はコート男の容貌を確認した。硬い頭髪はところどころ逆立っていて顔色はどす黒く脂ぎっている。頬骨も鼻もがっしりして唇も分厚い。ただそのぼんやりとした生気のない眼は紅く光っていた。
「ヘヘっ、学生さんは変わってますね。みんな、あたしを見れば汚いものを避けるように離れていくのに・・・。それとも何ですか、学生さん。あたしの顔に何か面白いものでも付いていますか?」コート男は楽しそうにまたカップ酒を飲んだ。その時、俺の眼にはコート男が二重に見えた。こちらを向いてカップ酒を掲げているコート男がもう一人重なっている。
「ニャー」膝の上のニャン太郎が俺を見ながら静かに言った。そして俺はコート男の幽体が本体からにじみ出ていることを理解した。
「学生さんは頭いいでしょ?」
「いや、俺は・・・頭は良くない」俺は焦ったように答えた。
「実はねェ、あたしは字が読めないんですよ。漢字もひらがなも・・・。先生が必死に教えても、あれこれ手を尽くしても、あたしゃどーしても字が読めない。へっへっへー凄いでしょ?」どう凄いのか?
「でもねぇ、計算はだけはできる。それもとても早く。どうしてだか知らないが数字だけは分かるんですよ。難しい足し算掛け算もあっという間に答えが頭に浮かぶんですよ、へへへへ―っ」それは凄い。
「学生さん、あたしゃいろんな所で働いてきたけど、この街はいい。この場所はいい、そう思いませんか?」
「・・・・・・」
ぬるい風が吹き半月が隠れた。背の高い電灯の光が消えたり点いたりした。俺とコート男の周囲がときどき暗闇に包まれた。闇に包まれた空間の中、ニャン太郎は白く輝いていた。
半月が顔を出すと電灯の光も点滅するのを止めた。俺は腕時計を見ると十時十五分を表示していた。
「学生さん、あたしゃ最近この街にやって来たんですよ。うんにゃ、やって来たというよりも流れ着いたというのが正確かな。へへへっ、学生さん、あたしゃ詩人でしょ」コート男はポケットから何かを取り出し、それを口に入れた。ボリボリという咀嚼音が響いた。
「学生さん、あたしが夜、この場所に座って雲を見ていると自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなるんですよ。へへへっ、あたしゃもう死んでいて魂があの空の黒い雲に混ざっているんじゃないかって。そこからこの地上を見下ろしているんじゃないかって感じるときがあるんですよ。地上の奴らかウンウンと唸っていろんなことに苦労して疲れているのが見える。怒りに体を震わせたり、悲しくて泣き叫んだりしている人もいる。可哀想だなぁ、哀れだなぁって同情するんですよ。学生さん、あたしゃ優しいでしょ。そう思いませんか?」
俺は黙って頷いた。
「でもねぇ、学生さん。あたしゃ卑しいからついつい酒を飲んだり、おつまみのあられを食ったりしてねぇ。それであたしゃまだこの世に生きているって気づくんですよ、へへへっ。人間が卑しいからあの雲の上にゃ、ずっと居ることは出来ないみたいです。へへへーっ、駄目ですねぇ、生まれ持った性分ってのは・・・。学生さん、あたしの家はこう見えても立派な血筋だったらしいですよ。大きな屋敷に住んでいてお手伝いさんもいて何不自由なく暮らしていたんでさぁ。でもねぇ、親兄弟みんな、揃いも揃って下品で下劣でどうしょうもない屑どもだったんですよ。へへへっ、見た目は小ぎれいで上品そうで頭も良さそうですよ。近所の人たちもそう思ってたみたいでねぇ。貴族の出だとか昔は侯爵だったとか親は言ってましたから。でもねぇ、学生さん、うちの家族は魂が下劣で卑しかったんですよ。穢れていました。あたしゃ、ものごごろついた頃から変な感じがしていてねぇ。うちの大きなお屋敷の居心地が悪くて、いつも遅くまで遊んだりして自分の家に帰りたくなかったんです。へへへっ可哀想でしょ。家出も何回もやりましたよ。友達の家に泊まったり公園に隠れたり、お金がある時は安いホテルに泊まったりしてました。偉いでしょう?」コート男は俺からかなり離れているのに、そのざらついた声は俺の頭の中に浸み込んでいる。
彼はまた一口カップ酒を飲み、あられを口の中に入れてボリボリと硬い音をたて咀嚼した。
「学生さん、あたしゃ字が読めないけど何故か高校には通わせてもらいました。へへへっ、親の力でしょうねぇ。でもね、あたしゃもう我慢の限界でした。十七の時に家から逃げ出しましたよ、へっへっへー。あんな汚い毒まみれの家にはいたくなかったんですよ。見た目だけ小ぎれいで中身が腐っている場所ってあるんですよねぇ、学生さん。家を出てからどれくらい月日が経ったのか分かりませんが、今ここに居ます・・・・・・」
コート男の赤い眼が夜空の流れている灰色の雲を捉えていた。
「ニャー」ニャン太郎が小さく鳴いた。俺は立ち上がった。
「おや、もうお帰りですか。学生さん、あたしの下らない話を聞いてもらって、へへっ、ありがとうございました。ところであたしは赤城史郎といいます。学生さん、お名前を訊いてもいいですかねぇ?」
「長谷川雲海」俺は答えてしまった。
「長谷川雲海・・・・・・いいお名前ですねぇ。ヘヘーッ。雲海、雲海さん、なるほどねぇ、なるほど・・・」コート男は俺の名前を自分の体に刻み込むように繰り返した。
俺は赤城史郎から遠ざかろうとすると、彼のざらついた声が届いた。
「雲海さん、また会えますかねぇ、へっへっへー。その白い小猫ちゃんも一緒にねぇ、ひひっ」
俺はコート男の言葉を聞いても驚かなかった。だけどやはり急ぎ足になった。俺は北の森から早く離れたかったのだ。