化け猫になってハル婆さんは消滅したのだ、ニャン!
木曜日になったのだが、俺は昨日からずっと働いているので昨日と今日の区別はつかない。壁に掛かっている時計の針は午前一時を過ぎていた。客の来る雰囲気もしない。俺はイートインスペースに行って、お婆さん幽霊を見ようかと思ったとき入口の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませーッ」と条件反射的に声が出る。
「こんばんは、長谷川さん」くたびれた紺色のポロシャツを着た袴田刑事が軽く右手を上げた。
「あっ、こんばんは袴田さん。何かあったのですか?」
「いや、先ほどジョージさんから連絡がありましてね。この店にまた霊感の強い人が来たり、新しい幽霊が現れたりしたそうですね」ジョージの奴、袴田刑事の生活に思いっ切り介入しているな。
「うーん、まだ袴田さんに入ってもらうほど、明らかな事件性はないような気がしますが。すみません、ジョージの奴が迷惑かけて」
「いやいや、そんなことはないですよ」いつも疲れている霊感刑事は百十円払いホットコーヒーをコーヒーメーカーから取り出した。
「新しい幽霊は・・・、あのお婆さんですか?」袴田さんは立ったままコーヒーを飲みながら、イートインスペースを見た。
「俺も先ほど彼女に気づいたんです。おそらく一時間前くらいにこの店に来たんじゃないかな」
「そして、霊感の強い人もこの店にやって来たと。その人はジャスミンさんの上司ですね」
「ええっ、西田夕子さんと言って、ジャスミンさんが働いている施設のケアマネージャーだということです」
「その西田さんという人も幽霊が見えると?」
「ええっ、そうです」霊感刑事は俺の答えに頷くと紙コップのコーヒーを半分くらい飲んだ。そして首を左右に動かしたり、しょぼくれた目をパチパチさせたりした。やはり眠いのだ。
「長谷川さん、ジャスミンさんが勤めている老人介護施設の関係で在宅の一人暮らしの老人が二人亡くなったのですね?」ジョージは袴田さんの情報屋みたいだな。
「ええっ、その亡くなった人があの和服のお婆さん幽霊だそうです。名前は確か三井さんだと・・・ジャスミンさんが言ってました」
「まあ年を重ねた老人が亡くなるのは自然の摂理と言えばそうですが・・・」袴田さんは残りのぬるいコーヒーを飲みながら、イートインスペースを凝視している。
「袴田さん、ちょっとみんなの所へ行きますか」俺の言葉に霊感刑事は小さく頷いた。
「アッ、ボスだ、ワン! ボスに敬礼!」ヨーコと坂下は嬉しそうにも右手を上げて敬礼をした。袴田さんも照れながら軽く敬礼のポーズをした。
「ボス、クモちゃん。この人が新人の幽霊で三井ハルさんだ、ワン」ヨーコは和服姿の女性の右肩に手を置いて言った。三井ハルと呼ばれたお婆さん幽霊は俺と袴田さんを見て怯えながら口を開けた。
「あの・・・、ここは何処ですか・・・」
「ここは三丁目のコンビニだ、ワン さっきも言ったよ、ワン」
「私は・・・・・・死んだのですね・・・」
「ウーッ、そうだ、ワン。残念だけど、さっきも言ったけど、ハル婆ちゃんは死んじゃったのだ、ワン」ヨーコは珍しく困っていた。
「うううー」婆さん幽霊はシクシクと泣き出した。
「情けないのう。生きているときは偉そうにしてたくせに」権左衛門は冷ややかに微笑んでいた。
「権左衛門さん、そういう言い方はないでしょう。三井さんは幽霊になったばかりで不安なのですよ」確かに坂下も幽霊になった直後に「ママァー! ママァー、ビェーン!」と泣き叫んでいたらしいから、奴の言葉は説得力がある。
「そうだ、ワン。権チャンだって幽霊になった直後は淋しそうだと、ジャスミンちゃんが言っていた、ワンワン」
「フン、ワシはこの婆さんみたいにメソメソ泣いておらんかったぞ。この婆さんは生きているときは偉そうにして、ワシにアレコレ指図をしとったんじゃ。へん、言いざまじゃ! 弱虫ハル婆あ、へっへっへーっ」権左衛門は灰色の歯を剥き出しにしてニタニタ笑い始めた。
「にゃにゃにゃにおー、コラァ! 権左衛門! ワシはお前の不埒な行いを諫めていたんじゃ。お前は若い女を見れば直ぐ鼻の下を伸ばしてベタベタと触りおって。注意されると呆けた振りして誤魔化しおる。お前は本当に最低のエロ爺いじゃ!」おおっ、新人婆さん幽霊が豹変した?
「ほほーぅ。若い子に嫉妬しとるんか、この欲情婆ぁ。おぬしはワシにかまってほしいのじゃなぁ? バーカめぇ、誰がお前のシワシワおっぱいを触るもんか。触ってほしかったら百万円くらい出せやぁ。ワシにはヨーコちゃんというセクシィな恋人がおるんじゃ。この可愛い子はワシのテクニックでメロメロじゃー、ほれほれぇ」権左衛門は勝ち誇ったように言い放つとヨーコに抱きついた。
「イヤーッ、権ちゃん、止めるんだ、ワン」坂下が慌てて権左衛門をヨーコから引き離した。
「フン、何がワシのテクニックでメロメロか? その子は嫌がっているじゃないか。女の心も体も分からん権左衛門のアホ爺ぃが。お前なんか早く地獄に落ちろーっ、ハアハアハアハア」婆さん幽霊は怒りのために息が荒くなっているみたいだ。
「うるさいのう。ワシはやりたいことをやってやってやりまくったら、地獄に落ちても構わんのじゃーっ。文句あるか。これぞ柳生権左衛門の悟りじゃ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 色即是空 空即是色 般若波羅蜜多・・・・・・」権左衛門は小さな眼を半眼にして合掌しながらブツブツ言い出した。
俺は老人幽霊達の不毛の会話に呆然とした。歳を重ねても駄目な人間は駄目なのか。
隣の霊感刑事は困ったように笑っている。
「あーもう―ッ、あたしのナイスバディでェ、一人の男性をまた地獄に落としてしまった、ワン?」能天気幽霊がまたトンチンカンなこと言ってる。
「ヨーコさんのその胸は危険ですねぇ」坂下も何を感心しているんだ。
呆れている俺の左肩を袴田さんが軽く叩いた。
「長谷川さん、私がこのご老人たちにコーヒーを差し上げたいので、霊化してくれませんか?」渋い霊感刑事は俺に二百二十円渡した。俺がコーヒーメーカーでホットコーヒーを淹れていると、入り口の自動ドアが開きジョージがスキップしながら帰ってきた。
「タダイマカエリマシターッ、ハセガワサン」ジョージの奴、嬉しそうだ。それに、なんでピョンピョン飛び跳ねているんだ、この大男は?
「ジョージ、遅かったじゃないか」
「オー、ボクもハヤクお店にモドリタカッタのですが、ジャスミンチャンがいろいろオハナシしたいと言いマシタ。ダカラ、ボクはジャスミンチャンのオハナシを聞いてあげたのデースゥ」
「ホントか? ジョージ、お前はどうせジャスミンさんに今度の休みに一緒にお食事しましょう、映画を観に行きましょうとか言ってデートに誘っていたんじゃないのか?」
「ウッ・・・、ソ、ソ、ソンナコト言うわけナイジャないデスカ。権左衛門サンじゃアルマイシ」
「お前も権左衛門も同類だろ」俺はコーヒーカップを木製のトレイに置きながら、にやけている同僚に疑惑の眼差しを向けた。
「アッ、ハセガワサン。そのコーヒーはボクの分もアルノデスネ。イヤァー、アリガトーございマス」
「違う! これは袴田さんが新人幽霊たちを落ち着かせるために買ったんだ。お前の分などない!」
「ウウッ、ハセガワサンは冷たいデスゥ。袴田サン? ホワイ、なぜボスがココニいるのデスカ?」
「お前が呼んだだろ!」
「オーッ、忘れてマシタ」
「忘れたのか! お前、今はジャスミンさんのことで頭がいっぱいだろ?」
「フフフッ、ハセガワサン。ナヤンデいるジャスミンチャンも超カワイイですねーッ。ソーキュート」否定しないのか、この男は。しかし俺はある意味、ジョージの能天気さを羨ましいと思った。
「ジョージ、俺はしばらくイートインスペースにいるから、お前はちゃんとレジに居ろよ」
「イエス、イエス。任せてクダサーイ」ジョージは返事だけは良いからな・・・。
俺はイートインスペースのカウンターテーブルにコーヒーの入った紙コップを置いて右手をかざした。本体から霊化したコーヒーカップを見て、言い合っていた権左衛門も三井婆さんも驚いたようだ。
「権チャンもハル婆チャンもこれを飲んで落ち着くんだ、ワン。クモちゃんのコーヒーはあたしたちでも飲めるんだ、ワン」
「ホー、このさえない兄ちゃんはいろんなコトができるんじゃのう。人は見かけによらないとは、よく言ったもんじゃ。おい、兄ちゃん。砂糖とミルクも幽霊にしとくれ」
「お兄様は霊的能力だけはありますからねぇ」
「クモちゃんの見かけはさえないし鈍いけど、幽霊には役立つのだ、ワン」褒められているのか、けなされているのか?
「ハル婆チャン、コーヒー飲まないのか、ワン? 美味しいよ」
「ワシはこんな安物は飲まんのじゃ。美味しい緑茶しか口に合わん」
「ハル婆は相変わらずじゃのう。そんなんじゃから、みんなから嫌われたんじゃ。生きてる時も死んでからもお前は一人きりじゃ。ヒャヒャヒャーッ」権左衛門はまた歯をむき出してニタニタ笑った。
「にゃ、にゃ、にゃにおー! このエロ爺ぃーっ。お前なんか地獄に落ちろ!」婆さん幽霊はカウンターテーブルにある霊化したコーヒーカップをとって、その中身を権左衛門の顔にビシャとぶちまけた。
「ワァ―!」さすがの権左衛門もビックリしたようだ。
「バウバウ、ワン!」柴丸が吠えた。
「熱い、熱い・・・」霊化してもホットコーヒーだから熱いのか?
「ウーッ、熱い・・・燃えるようじゃ・・・」そう言ったのは婆さん幽霊だった。三井ハルの白髪は逆立って目は吊り上がり、犬歯が牙のように伸びている。
「キャーっ! どうしたんだ、ハル婆ちゃん、ワン」
「何か燃えています」坂下が異変に気がついた。
「ドーしまシタ、ヨーコチャン」ジョージも慌ててやって来た。その時には婆さん幽霊の体は灰色の炎に包まれていた。
「長谷川さん、こ、これは?」霊感刑事も驚いている。
「クモちゃん、ハル婆ちゃんを助けて!」ヨーコが俺の右手を握った。だが俺はどうしていいのか分からない。
「ジョージ!」俺はジョージを見た。だがジョージは困ったように首を振った。
婆さん幽霊から発した灰色の炎は激しく渦を巻き天井まで届いた。
「・・・・・・憎い・・・・・・殺してやる・・・」呪いの言葉が聞こえ、灰色の炎の中からハル婆さんの顔が浮かび上がった。口は裂け犬歯は牙のようで、眼は毒々しく輝き、黒く丸い鼻と尖がった髭が横に伸びている。それは人間というよりも獰猛なネコ科の獣の顔に近かった。
「ヒャー、化け猫じゃー」権左衛門の軽薄な声が響くと同時に灰色の渦巻く炎と婆さん幽霊は消え去った。