魅了のピンクブロンド泥棒猫だって、本物の恋がしたい
「――公爵令嬢、お前との婚約を破棄する!」
「……っ!」
ああ、いい気味だわ。
あたしはうつむき、肩を震わせている。きっとあたしの今の姿は、悲壮感を漂わせながら涙を堪えるか弱き少女に見えることだろう。
けれどそれはそう見えるだけであって、実際のところはあまりの可笑しさに笑ってしまっていたのだ。これが笑わずにいられるだろうか?
夜会の最中だというのに、高らかに吠える王太子。
その婚約者――たった今婚約が破棄されたから『元』婚約者ね――である公爵令嬢は、驚きに声を失っている。そしてこちらを憎々しげに睨みつけながら言った。
「殿下。なぜそんなことをおっしゃるのか、理由をお聞かせいただけますか」
「しらばっくれるな! お前がアリアをいじめたんだろうが!!! 知らないとは言わせないぞッ」
王太子があたしをグッと抱き寄せながら叫ぶ。臭いしうるさい。
アリアというのはあたしのこと。公爵令嬢が、男爵令嬢のアリアをいじめたということになっている。
もちろんそんな事実はあたしが捏造したことでしかないし、調べればすぐにわかる冤罪だ。でもこの馬鹿はあたしにお熱だからそこまで頭が回るはずがなく、あたしが「いじめられましたぁ〜」と言って泣きついただけですぐに信じ込んでしまう。いつも思うけどどうして男というのはこんなに馬鹿なのかね。
「わたくしは神に誓ってそんなこといたしておりません。証拠はあるのですか?」
公爵令嬢の方が当然ながらまとも。でも王太子があんたの言葉なんか聞き入れるはずがないのさ。
「フッ、笑わせてくれる! アリアがお前にいじめられたと言ったんだ。これが何よりも確固たる証拠だろう!」
そんなわけないでしょ、という言葉をグッと堪え、あたしは顔を上げる。
そして代わりに王太子にたっぷりの色目を使った。
「ああ、セイファル様……。あたし、とっても、とぉっても、怖かったんですぅ……。階段から落とされてぇ、足とか怪我しちゃってぇ」
嘘だ。あたしは階段から落ちてなんかいないし、青あざだってただのペイントである。
しかしそんなことには気づかない群衆は、ドレスを捲って見せびらかしたあたしの脚を見て痛ましそうな目を向け、公爵令嬢を睨みつける。あたしの甘い声にすっかり骨抜きな王太子なんか、公爵令嬢を親の仇のような目で見ていた。
「というわけで婚約は破棄! お前は死刑とするッ!」
「……冤罪ですっ! わたくし、そんなことなどしておりません!」
「うるさいうるさいッ。衛兵、この汚らしい女を早く連れて行け! ……アリア、怖い思いをさせて悪かったね」
冤罪の公爵令嬢が引っ捕らえられて行った後、王太子はあたしに愛を囁く。
あたしはそれにうっとりした目を向けながら――内心でほくそ笑んでいた。
――今回も上手くいったわ。こいつは馬鹿だから特に簡単だったわねぇ。
男爵令嬢風情に恋をしたがために有能な婚約者を冤罪で殺すだなんて、なんて馬鹿なんだろう。
これでこの国ももう終わりだ。有能な側近たちは皆王太子の手によって既に処刑済み。国王も王妃も王太子を溺愛しているから放置するだけだ。ふふっ、愉快痛快。
じゃ、役目が終わったことだしあたしはそろそろドロンしますか。
やっとこの王太子から離れられると思うとせいせいするわぁ……。明日あたしがいなくなったと知ってこの王太子はどんな顔をするかしらねぇ。
じゃ、バイバーイ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふぅ……。今回の任務も終わりっと」
あの国はあれから大混乱になり、公爵令嬢が処刑され、王太子は狂ったように失踪した男爵令嬢を探し始め、国王と王妃は公爵家からクーデターを起こされ殺された。
そして結局王族皆殺しになり国は廃れて元公爵が治める公国として、ある帝国の属国となったのである。
これも全てあたしの計画通り。男爵令嬢一人のせいでここまでガタガタになっていく国を見ているのは面白い。なんだかスカッとした気分だ。
――あの国を破滅に追いやったのはあたし。でも、本当はあたしは男爵令嬢なんかではない。
ピンクブロンドに空色の瞳、いかにも庇護欲そそる容姿をしているあたしの正体は、とある帝国の人間兵器だ。
通称『泥棒猫』。国の重役に取り入り、美貌と色気を最大限に使って相手を堕とし、スキャンダルを起こさせるのが仕事。ある意味人間兵器と呼べるだろう。
すでに五つ以上の国家があたしのせいで滅んでいる。あたしのハニートラップにはどんな男でも逆らえないからね。
『魅了』――その魔法が使えるあたしには、馬鹿だろうが頭でっかち野郎だろうがどんな男も目がハートになる。
一度魅了されてしまえばあら不思議、どんなに信頼関係を結んでいた相手でもあたしの二の次にするようになり、あたしとベタベタしていることを注意されれば敵認定してしまう。面白いくらいにあたしに優しくしてくれて、軽く囁けばどいつもこいつも馬鹿騒動を起こしてくれるのだ。
そして自滅する。
さて、次はどんなターゲットが待っているのか。あたしはウキウキした気持ちで、雇い主の待っている帝国の城へ足を運んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「次は聖王国へ行け。そこの聖王太女の婚約者の心を奪い、聖王や周囲の男も皆手懐けろ。教皇をはじめとする教会関係者も全て手中に収めてから国を壊滅状態に追い込め」
「……わかりました、皇帝陛下」
あたしは帝城で、玉座に堂々と構える皇帝に頭を下げていた。
この人があたしの雇い主。男だから本当なら魅了して操ってやりたいところだけど、それができないようにあたしには奴隷用の腕輪がつけられている。
まあ、わけあって一応命の恩人だし、憎んではいないけどね。人間兵器としてこき使われるのは気に入らないけど、それは仕方ないと甘んじて受け入れている。
それにしても、今度は聖王国かぁ。
普通の王国と違って宗教――教皇も尊いとされる国。
聖王と、それと同様に力のある教皇は確実に落としておかなければならない。一度あたしに魅了されてくれれば面白いくらいに操り人形になってくれるから大丈夫。
王太女というのが厄介そうだけど、周りの男どもがあたしの思い通りになれば簡単に排除できるだろうからそこまで難しい仕事ではないだろう。
あたしはピンクブロンドの髪を整えると、早速変装に取りかかる。
そうして数日後、あたしこと『泥棒猫』は聖王国へと向けて旅立った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……は、初めまして。あたし、デーオン下爵の娘のルイーズです。皆さん、どうぞ仲良くしてください」
おどおどした声音を作り、魅力的に見えるように気をつけながらピンクブロンドのツインテールを揺らして挨拶をする。
新たに聖王国の聖マリエット学園に入学したあたしに、一同の視線は釘付けだ。ざっくりと胸元を開けた『はしたない』とよく令嬢たちに言われるドレスを着たあたしは、男子生徒の注目の的である。
さあ、見なさいあたしの自慢の胸を。あんたたちこの胸が好きなんでしょ? たぷんたぷん揺すってあげるわ。ほら、すでに何人かの男が舌なめずりしているのが見えた。
女衆は、下爵というこの国では最も低い爵位にあるあたしを馬鹿にしたように笑っている。
聖王国の爵位は三つ。上爵、中爵、下爵。一番身分の低い下爵の中でも没落寸前のデーオン下爵家の令嬢を名乗っているあたしは見下されやすいと想像していたけど、ここまでとはね。
清らかな女神の愛し子たちの住まう国とされているこの聖王国だけど、もちろんそんなのは嘘っぱち。所詮醜い人間ばかりだ。
でもまあ、そんなの最初からわかっていたことだから何も気にしない。
学園の授業は難しいので、適当に聞き流しておいた。ハニートラップを仕事としているあたしにとって勉学はいらないことだった。
そんなことよりも早く目的の王太女の婚約者を見つけなければいけない。出会いは早ければ早い方がいいわ。
転入生のあたしの話を聞こうとして集まって来る男子生徒どもを笑顔で振り切って、昼休み時間に学園をうろうろしていると、あたしは、庭で一人のんびりしている男子生徒を見つけた。
金髪に薄緑色の瞳。ナヨナヨした体つきをしたその少年は、間違いなく皇帝陛下に聞かされていたターゲットの一人だった。
王太女の婚約者、上爵令息のパディ・ルーマソン。控えめに言ってもイケメンだ。
あたしは彼を見るなり、すぅっと目を細めた。猫のように足音を忍ばせて彼に接近すると、甘い声で言った。
「あのあの、ちょっといいですかぁ?」
モジモジし、口ごもり気味に。我ながらあたしって名女優になれると思う。
それまでひなたぼっこをしていたらしいパディはあたしを振り返ると、「何だい? 初めてみる子だね」と優しく笑いかけてきた。
――これは落とすのが簡単そうね。
「あたしはデーオン下爵家の養女、ルイーズっていいます。今日転入してきたばっかりなんです。あ、あなた、上爵令息のパディ様……ですよね?」
「うん。そうだよ。君はルイーズというのか。とても可愛らしいお嬢さんだね」
ルイーズというのはもちろん偽名。
一応、デーオン下爵家の養女ということになっている。もちろんあたしの実態は帝国の人間兵器『泥棒猫』であり、下爵にはあたしの正体を伏せた上で接触、魅了し、養女にしてもらっただけのこと。
本当にこの魅了の力は便利だ。
……それにしても初対面の人間に『可愛らしいね』なんて言うのはどうなのかしら。このイケメン、ずいぶんな女たらしだわ。
「あたし、今日初めてこの学園に来たんですけど……友達とかいなくってぇ。だから、お友達になってくれません?」
不安そうな顔をして、上目遣いで尋ねる。
普通であればすぐに「ダメだ」と断られることだろう。没落下爵家の娘と裕福すぎる上爵家の長男、しかも婚約者持ちだ。仮に女好きでも彼にだって立場はある。例え友人関係だとしても、そう簡単にいくはずはない。
だからあたしは早速、迷いなく魅了魔法を使った。
「――『愛してる』」
ウインクし、甘ったるい声で囁いた。
これだけであたしの魅了魔法は発動する。直後パディを見てみれば、彼はあたしをじぃっと見つめ、しばらく呆けていた。
これで彼もあたしの操り人形ね。
「……パディ様、お願ぁい」
「いいよ。ルイーズのためなら僕は、何でもするさ」
すると、ついさっき出会ったばかりとは思えない言葉が返って来た。
魅了の魔法にかかった者は、その瞬間から絶対にあたしに逆らえなくなる。そして全て受け入れ、命をかけても守りたいとそう思ってしまうの。
ああ、楽しいわ。こんなイケメンをあたしのおもちゃにできるなんて。
面白くなってあたしは少し調子に乗ってみた。
「キス、してもいいですか?」
満面の笑みでパディが頷く。「嬉しいな。君みたいな子に好きになってもらえるなんて。もしかしたら君は、運命の人かも知れないな」
――あたしはちっともあんたのことを好きじゃないんだけどね。
そんな内心の声は微塵も顔に出さず、あたしはニコニコ笑いながら彼と口づけをした。
「絶対にこのことはな・い・しょ。ね?」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
聖王国の主要メンバーを落とすにはそんなに時間はかからなかった。
パディを手懐けた後、あたしはすぐに次の行動へ移った。彼の婚約者であり王太女のイライザを見つけ出し、こっそり観察。その側近候補たちの顔を全て把握しておく。
そしてその翌日に早速王太女の側近候補の一人の少年との接触を図った。
その少年は聖騎士団の団長の息子。剣の実力は確かであるし、その上、パディと同様に超絶イケメン。どうしてこんなイケメンばかりなのかしら、貴族のお坊ちゃんは。
偶然を装って声をかけ、あたしはこの学園の案内をしてほしいのだと言った。昨日全て調べ尽くしているから実際には案内などいらないのだけれど、ちょうどいい口実だと思ったのだ。
「――でも私は、あまりイライザ殿下から離れてはいけないということになっていて」
「えっと。い、イライザ殿下とお知り合いなんですか?」
わざととぼけるあたしに彼は頷いた。
「はい。一応側近候補です」
「で、でもっ! ちょっとくらい、いいですよね……?」
露骨に彼の顔に戸惑いの色が生まれた。今だ、とあたしは思い、彼へ急速に身を寄せると――。
「――『愛してる』」
その瞬間から彼はあたしの虜になった。
そのまま学園を案内してもらい、側近候補たちの教室を確かめると、あたしはできるだけ魅惑的に見えるように笑みを浮かべ、静かに少年と別れる。
……本当に馬鹿ばかり。下級貴族の、しかも養女なんていう一番危うい身分の女と無警戒で話すなんて。だから都合のいいように魅了されるのよ。
しばらくして他二人の側近候補と会い、それぞれ魅了を使って彼らの心を手に入れた。先ほどまでは王太女に忠誠を誓う臣下だったはずが、あっという間にあたしの奴隷。ああ、なんて面白いの。
後一人。そいつさえ魅了すれば、この学園での仕事は終わりだ。最後の側近候補は確か、教皇の息子だったか。しばらく探しているとすぐに見つかった。
銀髪に灰色の瞳。王太女の側近候補ナンバーワンと言われる頭脳派、ローゼイン・リグフィーユ。
でもその実結構素行は悪い……らしい。噂でしか知らないし、あちらの性格などあたしにはどうでもいいことだけれど。
「こ、こんにちは」
「――。誰だお前。新入りか?」
汚い言葉づかい。下級貴族かと思うけれど教皇の血筋を引くものは聖王族と同じくらい偉いとされている。多分評判が悪いのはこの口調も関係しているのだろう。
「は、はい! あたし、ルイーズ・デーオンっていいます! もしよかったら、お名前お願いできますか?」
「……初対面の女なんかにバラせるかよ。下心丸見えだぜ?」
「そっ、そんなこと。あたしはただロー……あなたとお友達になりたいだけなんです」
危ない危ない。まだ名前も聞いてないのにうっかり口走りそうになった。
あたしに簡単に靡かない男はここ最近珍しかったので、少しだけ驚いてしまった。でもそれが普通の反応というものだろう。あたしは気を取り直して、彼へささっと駆け寄る。
周りであたしたちの様子を見ていた数人の生徒が眉を顰めるのが見えた。下級貴族の娘が教皇の息子とこんな距離で話していることが気に入らないのだろう。まあ、嫌われたところで別に構わないので気にしないが。
そしてあたしはローゼインへ、お決まりの言葉を囁きかけた。
「ああ、『愛してる』」
これで学園での任務は完了。
聖王と教皇は残っているけれど、パディに頼めばすぐに会わせてもらえるはず。近づくのは令息たちよりは難しいだろうがそれもなんとかやってみせる。
……と、そんな先々のことを考えていた、その時だった。
「お前、何言ってんだ?」
不満げにそう呟いたローゼインが、あたしの体を突き飛ばしたのは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――は? なんで?
あたしは理解が追いつかず、思わず一瞬硬直してしまった。
だって今、あたしは確かに魅了の魔法をかけた。言い間違ったわけでもない。舌を噛んでもいない。
なのにあたしを突き放したローゼインの瞳には、いつもの男たちのようにとろんとしておらず、むしろ敵意すら見せていた。
わけがわからない。ワナワナと震えるあたしに彼は言った。
「下心ありありじゃねえか。なんだよ『愛してる』って。名前も知らない相手に言うことか? それにさっきも俺の名前言いかけてたよな? あんまり舐めんなよ馬鹿」
「ば、馬鹿!?」
「馬鹿以外に何だって言うんだ? それともただお友達になりたいだけ、だなんていうわかりやすい嘘をこれ以上吐き続けるつもりはないよな?」
あたしは混乱していた。
なぜ、どうして。魅了がかからなかった? そんなはずはない。でも今現に目の前の彼は少しもあたしへの想いは植え付けられていなかった。
好きな人間に冷たいそぶりをしたい、いわゆるツンデレというやつか?とも考えたが、すぐに可能性から排除した。敵意丸見えなこの状況でツンデレと捉えるのはあまりにも無理がある。
魅了の魔法の行使に失敗した。これしか考えられない。
慌ててあたしはもう一度魔法の言葉を口にした。
「す、すみません……! でも『愛してる』んです!」
なのに、
「気持ち悪い。どっか行けよ、破廉恥女」
……効かなかった。
周りの生徒たちからの冷笑が突き刺さる。今のあたしの姿はきっと、金持ちの令息と関わり合いを持とうとして失敗した卑しい貧乏者に見えることだろう。大して間違っていないのだが。
――どうしよう。魅了が効かないなんて。そんなはず、ないのに。
でもこれ以上醜態を晒せば怪しまれる。ここであたしが取れる選択肢は、逃亡の一手のみだった。
ローゼインに背を向けて走りながら、あたしは心の中で叫ぶ。
――何よあいつ! おかしい! おかしすぎる!!!
その時、一つの可能性に思い至る。
もしかして遅効性? 遅効性なのか?
そういえば前、とある島国で魅了魔法が効きづらい相手がいた。
最初から好感度マックスが普通なのに、その人物は最初あたしが少し気になると思う程度で、好感度はかなり低めだった。しかし何度も何度もじっくりと魅了し続けることで結局は思い通りになったのだったが。
もしかして今もあれと同じかも知れない。体質的にあいつの効き目が遅いんだ。ああ、人前でなければ一度くらいの失敗、なんともなかったのに。
あたしはその日は諦め、後日、やり直すことに決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「こ、これは本気なんですっ。実は、ローゼイン様のこと、ず、ず、ずっと、お慕いしてて」
「なんだ、またお前か」
「『愛してる』!」
「……愛してるって何度言われても靡かねえよ馬鹿。俺はビッチは嫌いなんだ」
「ビッチなんてひどい!」
――何よ何よ、またダメじゃないの。
「あのぅ。ローゼイン様。一緒にお茶しません?」
「しない。イライザ殿下のお目付役しなきゃいけないからな」
「そ、そんなこと言わないでくださいよ……。せっかくあたし、いい場所見つけたんですから。『愛してる』んです!」
「どんなに甘えても無駄だ。消えろ、邪魔くさい」
――なんでなんで。なんで、この男はあたしの手に入らないの!?
「『愛してる』ッ!」
「衆人環視の中で愛を叫ぶって……どれだけヤンデレだよ」
――ダメだ。全然ダメだ。どうして? 魅了魔法は発動しているはずよ!
何度試してもあたしの魅了はローゼインに届かなかった。
他の男たちを使い、ローゼインと会う機会をなるべく作って愛を囁いたが、彼は不快そうな顔をしてこちらを見てくるだけだ。
あたしは聖王や教皇の魅了もそっちのけでローゼインを落とそうと奮闘した。しかしどうやっても届かない。もしかすると自分の能力が低下しているのではないかと思って名も知らぬ少年に魅了をしたらベタベタに惚れられた。少なくともあたしの力のせいではないとわかって安心したが、それはそれで大問題だ。
――いけない、ローゼインなんて放っておいて目的を果たさなければ!
いつの間にかローゼインの攻略にのめり込んでいたあたしは我に返り、慌ててパディとの距離を詰め、イライザ王太女との仲を悪くする作戦に出た。
皆が見ている前でわざわざパディと親しげにし、悪評を立てる。それをイライザ王太女の耳に届けるのだ。
そしてお咎めはすぐにやって来た。
「貴女、どういうつもりですの? ワタクシの婚約者に近づいて、不快ですの。ふしだらな行動は慎んでほしいですの。わかりましたの?」
「お、恐れながら、イライザ王太女殿下。あたしとパディ様の関係はあくまで友人同士で、で、殿下が不安に思っているような関係では、ありません」
わざとおどおどと上目遣いで答えた。
男はこれを好むが、女はこういう態度を嫌う。そしてイライザ王太女も例外ではなかった。
「わざとらしい。これ以上ワタクシの婚約者に近づかないでくださいですの!」
「で、でもあたしは彼と友人なんです。本当です……!」
イライザ王太女は肩を怒らせながら歩き去って行った。
完全にあたしの予想通りの展開。どうして全員が全員こんなにもわかりやすいのかしら。
そうしてイライザが襲来した直後、まもなくパディがやって来た。
「おおルイーズ。会いたかったよ」
「ぱ、パディ様! あたし、とっても、とぉっても怖かったんですぅ……」
あたしは早速パディに泣きついた。甘ったるい声を少し出せば彼はあたしの言うことを何でも聞いてくれるからね。
……あたしへ向けられる彼の薄緑色の瞳には、熱に浮かされたような色を帯びている。これが恋ってやつのかしら、とあたしはふと思った。
そういえばあたしは本物の恋というものをしたことがない。
こうして男を落とすことは何度もした。けれど一度たりとも恋心を抱かなかった。それより何より『泥棒猫』として帝国が遣わせた人間兵器であるあたしは、決して恋をしてはいけないのだ。恋は人間を盲目にするからと、皇帝は言っていた。
男たちの甘い視線を受けて、これに酔ってしまいたいな、と思うこともある。
しかしそれは許されない。あたしはパディを見つめながらキュッと唇を噛み締めた。
「……イーズ。ルイーズ、聞いているかい?」
「あっ。す、すみません。つい、パディ様に見惚れてしまい」
「ははは、嬉しいなぁ。ともかくイライザには僕が厳しく言っておこう。君にこれ以上不安な思いをさせることはないと誓うよ」
「わ、かりました。よろしくお願い……します」
うっかり話を聞きそびれていた。危ない危ない。
どうやらパディはイライザに何か言いつけるつもりらしかった。身分が低いパディから何か言うのはどうだろうと思ったが、すでにあたしの手駒でしかないパディにはそこまでの考えがないのだろう。
ふふふ、面白い。人間を手玉に取れるというのは気持ちいいものね――。
「――そこで何してんだ、お前。パディ上爵令息と密会か?」
ちょうどいい気分に浸っていたところで、あたしの耳にそんな声が届いた。
「げ」と思い振り返ると、そこにはあいつがいた。
「ローゼイン、様ぁ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「パディ、この女と最近遊び回ってるそうだな」
「……人聞きの悪い。僕と彼女は『真実の愛』で結ばれているんだ」
「はっ! 笑わせてくれる。その女はな、昨日も俺に『愛してる』って言って来たんだぜ? 薄っぺらなピッチ娘に騙されるとは、お前も随分馬鹿になったもんだな」
「何! 僕はともかく彼女を侮辱するのは許さないぞ!」
――まずい。
基本、ターゲット同士が出会うことはよろしくない事案である。だが両者共にあたしの手に落ちてさえいればなんとか収めることはできる。
しかし今回の場合、ローゼインは魅了できていない。方法としては今この瞬間に魅了することだが、おそらくそれは叶わないだろう。
あたしは頭をフル回転させ、それから馬鹿な女のフリをすることに決めた。
「ローゼイン様ぁ。パディ様とは、友人なんですぅ。み、密会だなんて言わないでくださいよぉ……」
本当ならここでパディからの非難がましい目が向けられるはずである。しかし、すっかりあたしの操り人形のパディは何の疑いもなくうんうんと頷いた。
「そうだ。僕と彼女は決して卑しい関係じゃあない。ローゼイン、いくら彼女が美しいからと嫉妬するなんて意地汚いよ」
「美しい? その女が? ふしだらの間違いじゃないか?」
このままでは二人が喧嘩を始めてしまう。あたしにとってそれは非常にまずいことだった。決定的な場――婚約破棄劇という最終の舞台まで、ことを荒立てたくはないのだ。
「ローゼイン様。誤解があるなら、あたしが誠心誠意お話ししますっ。だ、だからぁ、パディ様と喧嘩なさらないでください……!」
「ふんっ。ルイーズがこう言っているから今日のところは見逃すけど、今度彼女を侮辱した時は許さないからね」
「パディ、お前……。イライザ殿下を好きなんじゃなかったのかよ?」
「あんな女、ルイーズと比べれば月とすっぽんだよ」
ローゼインはパディをキッと睨むと、あたしの手をぐんと引いて歩き出した。二人だけの個室に連れて行く気だ。
魅了の効かない相手と二人きり、あたしは切り抜けることができるだろうか。大きな不安を抱えつつ、あたしは連れて行かれるままに部屋へ入った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
連れて来られたのは休憩室だった。他には誰もいない。あたしとローゼインはソファに座って向き合い、話を始めた。
「お前、パディに何かしただろ」
開口一番に言われたのがその言葉だった。
あたしはしばし戸惑ったように唇を震わせて見せ……ゆるゆると首を振った。
「な、何もしてません……。下爵家の娘でしかないあたしには、パディ様は不相応な方だと、思っています」
「でも教皇の息子である俺には求婚に近い行為を繰り返している。上爵よりは教皇の方が地位が高いのは、誰でも知っていることだろう」
「は、はい。ですがあたし、ローゼイン様をどうしようもなく、好きになって、しまったんです……」
――できるだけ色目を使い、あたしは言葉を紡ぐ。魅了の魔法が効かない分こうするしかなかったが、やはりそれでも彼を手懐けることはできなかった。
「お前が狙ってるのはなんだ。地位か、金か、男か?」
「あ、あたしは、別に、何も……」
「答えろ」
「ですから」
「お前の目が語ってる。パディに対しても俺に対しても、好意なんかちっともないってな。まるでそう……ゲームだ。盤ゲームのコマを見ているみたいなんだよ、お前は」
こんなに勘の鋭い男を、あたしは他に知らない。
取り繕うのは難しそうだ。そう思って黙っていると、彼はため息を漏らし、
「お前が何者かはわからんが、イライザ殿下に危害を及ぼす可能性がある以上、俺は放っておくわけにはいかない。とりあえずあいつらに相談するとするか……」
あいつら、とはおそらく側近候補たちのことに違いない。それならすでにあたし側についているのだが、ローゼインはまだ知らないだろう。
「――せいぜい気をつけろ。あまり派手なことをしたら、聖王様に言いつける」
あたしは怯えたような様子を見せながら、小さく頷いた。
ここからだ。あたしと彼、ローゼインとの戦いがが始まったのは――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あたしはイライザ王太女の側近たちに言って、彼女の不貞を捏造することにした。
『ローゼインとイライザがふしだらなことをしているところを見た者が多数いる』。この噂を発生源がわからないようにして流させ、さも本当のことのように周囲に浸透させていくのだ。
王太女の不貞、それはすなわち婚約破棄の理由。こちら側が正義になるための重要な布石。
その一方でローゼインも負けてはいず、あたしがパディを手中に落としていること、側近たちがおかしいことなどを周囲の者に知らせている様子だった。あたしはなるべくその話を抹消することに奮闘したが、それでもあちらの方が聖王と教皇という後ろ盾がいる以上一枚上手だった。
聖王と教皇も落とせばいいだけの話なのだが、未だ彼らとの接触の機会が測れないのである。対面しなければ魅了できないのがあたしの魔法の欠点だった。……すぐ近くにいても魅了できない奴が一人だけいるが、それは除外しておく。
「これもきっとローゼインのせいよね。……ああもうほんとあいつ、むかつく! なんであたしの思い通りにならないのよ!!!」
「人間そう簡単に思い通りになるかよ。それとも、俺以外の人間はそうなのか?」
「――ッ!」
廊下で独り言を思わず叫んでいたところへ、背後から声がしたのであたしは飛び上がった。
振り返らずともわかる。なんで、という思いと共に、胸が早鐘を打った。
――もしかしてずっと、あたしは監視されている?
「ろ、ローゼイン様ぁ……」
甘えた声を出してみるが、彼の灰色の瞳に揺らぎはない。静かな怒りを込めた声でローゼインは言った。
「怪しい行動はするなと言ったよな?」
激しく鼓動を繰り返す胸。
決定的瞬間を見られた。今すぐ逃げなくては、と自分の中で警報が鳴り響く。
でも逃げたところでどうなる? 問題が先延ばしになるか、はたまた悪化するだけだ。
あたしは精一杯の笑顔を浮かべた。
「あは、聞かれちゃいましたぁ? さすがはあたしのローゼイン様! 素敵ですッ!」
「いいから本当のことを話せよ」
背の高い彼に迫られ、あたしは思わずビクッとなった。
ここで捕まったらおしまいだ。とりあえず逃走ルートを確保しようと思ったが、すでに壁際まで追い詰められてしまっていた。
冷や汗が背中を伝う。
「……なかなかやりますねぇ、ローゼイン様。ここを見られたらますますあなたの評判が地に落ちると思うんですけど?」
「そんなことはどうでもいい。そもそも、俺は元よりあんまり人に好かれないタイプなんでな」
――そうでしょうね。
「あたしを脅しても、何も出て来やしませんよ?」
「お前はやめない気なのか」
「何をでしょう? あたし、全く心当たりがありません。パディ様とのことでしたら、本当にお友達なだけですしぃ」
「あのベタベタが友達? 冗談も休み休みに言えっての」
さらに詰め寄られる。胸ぐらを掴まれたような錯覚に陥りながら、必死で今助かる方法を考えていた――ちょうどその時。
「「「「ルイーズに近寄るな!」」」」
あたしの奴隷……じゃなかった、友人たちが助けに来てくれたのは。
「ルイーズがいないから心配して来てみれば」
「やいローゼイン。女の子に迫るなんて卑怯だぞ」
「イライザ殿下の側近候補として恥ずかしくはないのか」
「教皇様が嘆かれるぞローゼイン。ルイーズ、大丈夫だったか」
すっかりあたしの騎士様気取りの彼らは、今まで優勢だったローゼインを囲んで罵倒し始めた。
……ふぅ、なんとか今は助かったみたい。
なぜか今も鼓動の早いままの胸を押さえながら、あたしは安堵に息を漏らす。
『泥棒猫』たるあたしがここまで追い詰められるだなんて。少しローゼインを舐めすぎていたようだとあたしは反省する。それから王太女の側近とパディに激しく糾弾されるローゼインを残し、逃げるように自分の教室へと走り戻った。
しかしこれが一時的な休戦でしかないことくらいあたしにもわかっている。
次こそはローゼインの攻撃をかわし、彼へダメージを与えてやる方法をしっかり考えなくては。次の授業時間の間中ずっとそのことに頭を悩ませることになったのだった。
――なんとしてもローゼインに勝ってみせるんだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
気づけばあたしは、ローゼインの心を手に入れることだけに夢中になってしまっていた。
パディも、聖騎士団長の息子も、宰相の息子も、中爵家の息子も。
そんなのはみんなどうでもいい。適当に媚びを売っていればいいだけのおもちゃだ。
しかし彼、ローゼインだけは違う。このあたしがどんなに愛想良く振る舞っても、はたまたそっけなく見せても、決して落ちてくれない。
逃げる敵ほど追いたくなるのは獣の本性だが、それに近かったのだと思う。あたしは必死でローゼインを手に入れようと奮闘した。冷たくされればされるほど、「イライザ殿下に危害は及ばさせない」と敵意を向けられれば向けられるほど、欲しくなる。
手に入れてしまいたくなる。
――そんなある日、ふと、気づいてしまったのだ。
そんなはずはないと思った。けれど、胸の高鳴りは、そして彼への執着心は、日に日に高まっていって。
……これは恋心というやつではないだろうか?
「このあたしが、恋だなんて」
馬鹿げている。何かの間違いだと笑ってしまいたかった。
皇帝陛下に拾われた時、言われたではないか。
『金も身分も食も、思う存分与えてやろう。だが恋だけはするな。お前が任務を忘れた時、それはお前が死ぬ時だと思え』
だからこの変な感情は、きっと気のせいだ。
心の内側まで探って来るような彼の灰色の瞳に見つめられてドキドキするのだって、ただの恐怖から来るもので、決して恋などというものではないはずだ。
そうでなければあたしは任務を遂行できない。その時には死が待っている――。
「どうしたんだいルイーズ。近頃は元気がないね? もしかしてイライザに何か酷いことでも言われたのかい?」
ふと柔らかな声がして、あたしは振り返った。
そこには金髪の少年が立っている。しかしあたしは彼を見ても何も思わなかった。
――こんな男はいらない。
パディは優しく物腰柔らかく、とてもいい男なはずだ。
しかしあたしはこれ以上こんなクズといるのが苦痛でならなかった。そして内心であの男と目の前の男を比較している自分が嫌だった。
だからもう、早く終わらせてしまうことにしよう。
「は、はい。あたし、とっても、怖くてぇっ。だからぁっ! パディ様があたしを守って、イライザ様と婚約破棄してくださいっ!」
パディはしばらくの沈黙の後、「わかった」と使命感に駆られた顔で頷いた。
何が使命感だ。何がわかった、だ。
あんたは何もわかっていない。あたしが今どんな気持ちであんたを見ているか、少しだって考えていないくせに。
恋に酔いしれるなんていいご身分だこと。
あたしは舌打ちしたいのを精一杯堪え、甘い笑顔でパディに絡みつく。
その後すぐに王太女の側近たちにも根回しし、近く開かれる『聖星祭』という祝いの場で婚約破棄を行うことが決定した。
これで何もかもに決着がつく。それでいい。それでいいのだ。
なのに痛むこの胸は一体なんだというのだろう。あたしはイライラして、血が滲むくらいに強く強く唇を噛んだのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そして迎えた『聖星祭』当日――。
オレンジを基調とした胸元のざっくり開いたドレスを身に纏ったあたしは、勝負の場へ臨んでいた。
あたしのすぐ隣を歩いているのはパディ。他の魅了した男たちはイライザ王太女の傍に立ち、まもなく裏切ろうとしている主人を守るようなふりをして立っていた。
そしてあたしを睨みつけるのは長い黒髪の美貌の少女――イライザ王太女だ。その真紅の瞳には怒りの炎が揺らめいていて、視線だけで人を殺せそうだなと他人事のようにあたしは思う。
そして、
「――ローゼイン」
ローゼインは、氷の視線であたしを射抜いていた。
背筋がゾクゾクとする。一体彼は何を考えているのだろう。『愛してる』と囁いても微塵も動かないその心の裏が知りたくてたまらない。
きっと彼とて無策ではないはずだ。あたしたちがこの場で婚約破棄をすることも見抜かれているのではと思って、少々不安になるが、しかしあたしたちは挑むしかないのだ。
『聖星祭』は学園生だけではなく聖王も教皇も、高貴な身分の人間は全て出席する国の祝賀祭だ。
貴族たちの視線があたしの方に突き刺さる。上爵令息の心を奪い、本来エスコートされるべき王太女を差し置いて彼のエスコートを受けている。そんなあたしがいい目で見られるはずがなかった。
――でも構わない。どうせ今からあたしは国家反逆罪を犯すんだから。
「パディ様、言っちゃってくださぁい」
「――うん」
あたしの一言でパディが覚悟を決めたような顔になる。
そして彼はあたしを引き連れてイライザ王太女の前までずかずかと歩いて行き、叫んだ。
「イライザ王太女殿下! 僕はもう我慢ならない。ただ今をもって、君との婚約を破棄する!」
直後、会場に激震が走ったのは言うまでもないことだ。
ざわざわと人混みが揺れ、あたしを指差し嗤っていた人々がパディの言葉に絶句する。
しかしイライザ王太女は少しも怯む様子がなく言葉を返した。
「とうとう言ってしまいましたの、パディ。この婚約は父とあなたの父上が交わした契約。それを簡単に反故にできるとでもお思いなんですの? そのルイーズとかいう少女にお熱なのは知っておりましたが、さすがにその娘と添い遂げるというのは無理な話ですの」
王太女の言葉は至って正論。しかしパディはそれに負けじと声を荒げる。
「あろうことか君がルイーズを虐げ、苦しめていたそうじゃないか。彼女がどれほど辛かったのか、君はわかっているのか!?」
「――冤罪で王族を糾弾したとあらば、タダでは済みませんの。よもや、その娘の言葉をそのまま信じたんですの?」
「いいや、僕らには証拠がある。証拠を持って来てくれ!」
「「「はっ」」」
パディの呼びかけに応じる三人の王太女側近候補たち。
これにますます他の参列者は驚きに声が出なくなったことだろう。本来王太女を味方しなければならない側近たちが婚約破棄を告げて来た元婚約者に味方してどうするのだ、と。
しかしそんな当たり前のことが彼らの頭では理解できない。あたしの甘い蜜によってでろんでろんに溶かされた彼らは、もはや思考するという能力を奪われた可哀想な人形に等しい。
ローゼイン以外の側近候補三人が、証拠――もちろんあたしが捏造したそれを持って来た。
そして次々と、イライザ王太女があたしへ暴力を振るったという記録を読み上げていく。その度に王太女の視線が鋭くなり、まるで刃のようにあたしへ突きつけられた。
――でも怯んではあげない。勝つのはあたしなんだから。
圧倒的証拠の差。これが結局は勝負を決める。
こんな公衆の面前で、それも『聖星祭』というこの国では大切にされるお祭りの日に婚約破棄したのは汚点になるが、それにしたって王太女の方が不利だ。あたしはさらにこちらの正当化をするため演技を加えることにした。
「ああ……あたし、もう、痛くて痛くてっ。王太女殿下から鞭で打たれた時は、死ぬかと、思いましたぁ……」
そしてあたしはわざとらしく背中を見せびらかす。
そこにはアザに見えるようにペイントが施されている。これを目の当たりにした多くの人間が、それまで疑っていたイライザ王太女の犯行を信じてしまったことだろう。
「それから、学園の掃除小屋に押し込められて、何度も何度もっ……。苦かった。そこを救っていただいたのが側近候補の皆さんなんです」
一気に同情の視線を集めたあたしは、さらに王太女を追い込むべく言葉を続ける。
「友人のパディ様にも手伝ってもらって、ようやく……。王太女殿下、罪を認めてください。謝罪してくれるだけでいいですからぁ」
「……ルイーズは優しいね。しかしこの問題、謝罪一つでは済まされることではない。まさかイライザがこんな酷いことをする人間だったとは……僕は失望したよ」
「殿下、謝罪を」
「殿下はあんまりです」
「聖王様に恥がかかるような行為をとった責任をお取りください」
男たちに詰め寄られ、イライザ王太女はほんの少し戸惑いを見せる。
彼女はローゼインへ視線を送ったが、ローゼインは曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。ますます慌てふためきつつそれを器用に隠し、王太女が叫んだ。
「これは冤罪ですの! あなた方の調査だけではいくらでも偽証を作れます。信用なりませんの」
しかしローゼインが放置を選んだ以上、もはや彼女に味方はいない。
さあイライザ王太女。大人しく堪忍を……。
「じゃあ、イライザ殿下の断罪も終わったことだしこれからそこの下爵令嬢の断罪を始めてもいいか?」
この一言により、再び参列者たちがざわめいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あ、あたしの断罪って……何のことですかぁ、ローゼイン様ぁ?」
あたしは余裕ぶりながらピンクブロンドを揺らし、可愛らしく見えるようにして首を傾げる。
しかし内心では冷や汗が噴き出していた。先ほど彼が動かないからと少しでも油断したのがいけなかった。彼はきっとこの機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
「まずお前への第一の罪はイライザ殿下への不敬と侮辱。第二の罪は偽証。第三の罪は聖マリエット学園への不正入学。そして……」
ローゼインは整った顔を歪め、少し悪戯っぽく笑った。
「禁術である魅了の魔法を使用したこと、だ」
――。
――――。
――――――――え?
彼があたしの目の前に立って、そんなことを言い放つ。
その言葉があまりに信じられないものだったから、あたしはたっぷり十秒以上声を失ってしまった。
「み、魅了の、魔法……? こ、心当たりが、ありません、ですぅ」
どうして。どうしてそんなことが。
魅了の魔法は帝国の皇帝の血筋だけに伝わる秘術。ごく稀に現れるその特異体質者を見つけ出し抹殺するのが皇帝の役割の一つである。
しかし今代の皇帝はそれを利用しようと考えた。確かにどんな男の心でも手玉に取れる人物など使わない手はない。
そうしてできたのが、『泥棒猫』のあたし。
でもそんなこと、この男――ローゼインが知るはずがないのに。
胸の鼓動がこれ以上なく早まっていく。
「魅了とは何ですの、ローゼイン」
「イライザ殿下、それは順を追って説明します。……まず第一の罪について。先ほどの不敬極まりない言い分はたとえ被害者でも許されることではない。こんな場でこんなことをするなどと、気が触れているも同然だろう」
「――なっ!?」
パディが声を上げたので、あたしはうるさいと言って突き飛ばしたくなって寸前でやめた。
そんな当たり前のことはどうでもいい。問題は、問題は……。
「偽証の罪についてだが、まあこれは『闇の聖騎士団』に聞いた方が早いだろう」
ローゼインに呼ばれて現れたのは、甲冑を纏った騎士たち。聖騎士団に他ならないが、『闇の』と言うだけあって、普段は忍び、王族などの行動を把握しているという。
――知らなかった。この王国には影がいないからと油断していたが、まさかこんな組織がいるだなんて。
彼らは次々に王太女の身の潔白を証言していく。そしてあたしが彼女の罪を捏造していたことさえも。
「そして第三の罪。聖マリエット学園の不正入学が認められた。これは書類などを確認すれば容易いことだ」
――そうだ。そうだった。校長を魅了して簡単に入学させてもらったんだっけ。でもまさかそれが暴かれるとは思ってもいなくて。
そして最後、トドメがやって来る。
「しかし今までの罪は些細なことに過ぎない。ルイーズ・デーオン下爵令嬢の最後にして最大の重罪、それは帝国に伝わる禁術、魅了魔法の行使だ」
「違っ。あたしはそんな魔法、使ってない!」
「裏は取れている。お前が帝国の人間兵器――『泥棒猫』であることもな」
あたしはその時、確信した。
……ああ、何もかも全部知られていたんだ、と。
膝から崩れ落ちるあたし。これ以上抵抗しても何もかもが無駄だ。あたしは失敗した。失敗してしまった。
この男を野放しにしてはいけなかったのだ。早く、早くこの男を抹殺していれば。
どうしてあたしはローゼインを殺しておかなかったんだろう。その答えはすぐにわかった。彼を誘惑するのが楽しくなってしまっていたからだ。……否、それも正しくない。
恋は盲目だ。恋という禁忌を犯してしまったあたしには正しい選択が選べなかった。ただそれだけの話である。
「……わかってたのなら、なんで今まで」
知らないふりをしていたのか。
もしももっと前に言われていれば、あたし一人の被害で済んだ。しかしこんな場所で公にされた以上、帝国と聖王国の戦争に発展するのは目に見えている。
――ははは、あたしってば聖王国の心配しちゃってるわけ? どこまでイカれてるんだろう、あたしは。
「バレてしまった以上は仕方ないわねぇ。そうよ、あたしは魅了の『泥棒猫』。男を魅了して婚約破棄させて国を引っ掻き回す最低の女よ。どう? パディ、ネルソン、ビッフェー、オーガス。失望した? 絶望した? たった今魅了の魔法は解いたわ。せいぜい後悔しながら生きるのね。ふふ、ふは、ふははははは」
魅了の魔法を解除した途端、それまであたしへ心配そうな目を向けていたパディたちの目から、ふっと熱が消える。
その様が面白くてあたしは笑い転げた。
「殺すなら、殺しなさいよ。でも残念だったわね。あたしを殺したら皇帝が許さないわよ?」
「……る、いーず」
正気を取り戻したらしいパディが何か言っているが、あたしの知ったことじゃない。
あたしはもはやヤケクソになって叫び続けた。
「任務は失敗! 『泥棒猫』は殺されてハッピーエンド!!! ローゼイン、とっととあたしを殺しなよ。王太女を守るんでしょ? じゃあ邪魔者は排除しなきゃ。ふふ。それとも皇帝が怖くて怯んじゃった? 大丈夫。皇帝はできるだけ争いをしたくないからすぐに終わらせてくれるって。聖王国も帝国の属国になれてめでたしめでたしじゃない? やったね!」
「……」
「さあ早くってば。それとも何? あたしに逃げさせてくれるわけ? ははっ、そんなわけないよねぇ。じゃあ牢屋にでも放り込むのかな? さあて、あたしは拷問に何日耐えられるでしょうか? うーん、三日かな? 三日だねきっと。でも口は割らないよ? それが『泥棒猫』の矜持ってもんよ。ねえ、どうするの?」
さて、ローゼインはどんな行動に出るか。
あたしを捕まえる? 『闇の聖騎士団』とやらに命じて殺す? 色々と想像を巡らせたが、次の瞬間に彼が撮った行動はあたしが考えてもみなかったことだった。
「――お前を殺すつもりはない。ただしお前には、俺の言うことを聞いてもらうつもりだがな」
そう言って太い両腕で全身を抱かれた。
理解の追いつかないあたしに彼は意地悪な笑みを浮かべて、
「俺はお前のことが気に入った。お前の本当の名前を教えてくれたら許してやろう」
そんな信じられないことを言い放ったのである。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふざけてんの!? この期に及んでどういうつもりよ! 許す!? なんでこんな奴を許せるわけ!? あたしは人間兵器よ。『泥棒猫』なのよ! あんたたちの国を滅ぼすために送られたの! 死罪が当然でしょうが!!!」
ローゼインに抱きしめられている。
しかしその事実を受け入れた時、胸の中に湧き上がったのは喜びではなく怒りだった。
――舐められている。この男だけはあたしのことをちゃんと見てくれると、そう思っていたのに。
「それとも何? あたしがそんなに脅威にならないっていうの!? あんたくらい簡単に殺すことだってできるわよ!」
――こんなのじゃあ、他のクズ男たちと一緒じゃないの。
甘やかせばいいと思って。それで全部あたしが吐くと思ったのならとんだ誤算だ。
ローゼインに対する急激な失望と言葉に表せない喪失感を、あたしはどうしていいのかわからなかった。
「あたしね、実は、あんたのことが好きだったの。他の男みたいに簡単に落ちなくて、ちょっと興味を持った……ただそれだけ。でも今ので完全に愛想が尽きたわ。こんなことなら恋なんてしなきゃ良か――」
――パリン。
あたしが長台詞を言い切る直前、ガラスの割れるような高い音がした。
驚いて割れたものを見てみれば、それは左腕に嵌められていた奴隷用の腕輪だった。あたしを縛り付けていた枷。それがあっさりと、目の前で。
あたしは言葉を失った。
「これは邪魔だったから壊させてもらった。悪いな。……別に、俺の女になれとは言わないさ。ただ言っておくがな、お前の言う皇帝はとっくの昔に他国の者によって暗殺されたよ。よっぽどたくさんの恨みを買ってたんだろうな。つまりお前はもう主人はいないんだよ。わかったか?」
――そんな、馬鹿な。
目の前が真っ白になる。何を言われたかわからなかった。わかりたくなかった。
「顔色が悪いな。とりあえず、休憩室にでも運んで行ってやるよ。……イライザ殿下、騒動を起こしてすみませんでした。沙汰はまた後でよろしくお願いします」
「――。わかりましたの。その娘や上爵令息たちの処遇は父と話し合いますの」
ローゼインの声も、イライザ王太女の声も、どこか遠くに聞こえる。
頭がガンガンと痛い。そのうちに意識もぼんやりして来て、あたしはローゼインの腕の中で気絶してしまった。
意識が途切れる寸前に感じたのは、ローゼインの温かな匂いだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『お前には魅了の力がある。それを使い、我に仕えるのだ』
ボロの身なりのままで連れて行かれた広間で、髭面の男がそう言ったのをよく覚えている。
当時まだ十三歳だったあたしは、ずっと孤児として貧しく生きて来たから、その人物が皇帝であるだなんて知らなかったけれど。死にかけだったあたしを引き上げてくれたのは確かだ。だからある意味では彼は恩人だった。
それに、お金と食事がもらえると聞いたから頷いた。頷いた途端、腕に重い金の輪が嵌められた。
決して逆らってはいけない。自分の感情のままにあってはいけない。
厳しい躾を受け、『泥棒猫』として教育されたあたしに教えられたことはそれだけだ。
だから恋なんてしないと思っていた。恋は愚か者がするのだと言われ続けていたから。
多分皇帝の言っていたことは正しかったのだろう。実際、あたしは今、みっともなく、愚かだ。
なのにこんな温かい気持ちになるのはどうしてなのかわからないけれど――。
「目覚めたか」
目を開けてすぐそこにあったのは、銀髪に灰色の瞳の美丈夫の姿。
ローゼイン・リグフィーユ。彼を見てあたしはすぐに、今までのことを全て思い出す。そしてどうしようもなく苛立ちを覚えた。
「……なんでまだ、あたしのそばにいるわけ? いくら甘やかしてもあたしは何も吐いてやらないわよ」
「ふぅん。やっぱりそっちの方が素なのか。俺としては甘ったれた女より好ましいが」
「どういうつもりと聞いてるのよ」
「お前の名前を聞きそびれたからな。それだけは聞いておこうと思って。お前くらい俺の気を引いた人間もそう多くはない」
――もしかして本気でこいつ、あたしのことを?
それだったら馬鹿。馬鹿にもほどがある。あたしの魅了魔法は確かに彼には効かないのに。効いていないのに。
「なんであたしの魅了魔法が効かなかったの」
「悪かったな。俺が教皇の息子だからだ。聖なる血が流れる聖王族と教皇の血筋は、あらゆる魔術に対して耐性があるんだよ」
「――そう。そうなのね。はぁ、色々やって損したぁ」
皇帝がもっと下調べをしておいてさえくれれば、あんなに苦労しないで済んだのに。元々そういう体質なのであれば当然どれほど努力したって敵うはずがない。
「そういえば皇帝陛下が死んだって聞いたけど」
「お前のことを調査した誰かの仕業だろう。俺は知らん」
「あたしを使って世界征服を目論んでたくせに、勝手に死ぬなんてねぇ。ほんと、情けない話だわ。あたしは何のためにこの聖王国を攻略してたんだか」
全てが馬鹿らしくなって小さく笑みを漏らした。
「で、あたしをどうするつもり?」
「悪いようにはしない。言ったろう、お前ほど俺の興味を引いた奴は他にいないって。国外に逃げたければそうしてやるよ」
「なんでそんなにあたしを好いてくれるのかしら。魅了魔法が効かないくせに」
「『愛してる』って初めて言われた時からお前の腹の内は大体読めてたが、それでも諦めないお前がちょっと可愛かった。それだけだ」
今まで何度『可愛い』と言われただろう。しかしこんな風に『可愛い』と言ってもらったのは初めてだったから、あたしはなんと言葉を返していいかわからない。
悔し紛れに毒を吐いた。
「嫌な奴ね、あんたは」
「よく言われる」
「ふふっ、でしょうね。あんた、最低だもの。期待させるだけさせておいてさ」
あたしはこの男に騙された。ローゼインは特別なんかではなかった。普通のどこにでもいるクズ男だ。
なのに、未だに胸が締め付けられるように痛い。それがあたしが今も騙され続けている――否、騙されていたいと思っている確かな証拠であった。
だからもう自分の心を封じ込めるのは諦めることにした。
「あたしの名前はヒルダ。家名はないただの孤児よ。どう、満足した?」
「ヒルダ、か。……じゃあもう一度聞く。ヒルダ、お前はどうしたいんだ」
「す、好きにすれば? あたしは所詮雇い主を失った飼い犬だから、行くあてなんてないし」
あたしがそう言うと、ローゼインはいやらしくニヤリと笑った。
その笑顔ですら好ましいと思っているあたしは、もうずっと前からどうかしている。
「本当に好きにしていいんだな?」
「――――」
「なら」
互いの距離が急激に近づき、直後、唇と唇がそっと触れ合う。
今まで何度も何度も交わしたはずのキスの感触。なのに今回のそれは妙に甘ったるくて、変な気持ちになる。
この瞬間あたしはどうしようもなく恋に落ち、すっかり彼の虜にされてしまったことを自覚した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――『聖星祭』の大騒動の後日、正気に戻ったパディ上爵令息はイライザ王太女に何度も謝罪したことで許され、無事に婚約を続行。
王太女の側近候補である聖騎士団長の息子など三人はしばらくの謹慎が言い渡されたが、魅了の禁術をかけられていたことが公になり、結局こちらも無罪となった。
そして騒動を巻き起こした主たるピンクブロンドの下爵令嬢は、奔放で知られていた教皇の息子ローゼインと共に忽然と姿を消し、聖王国から失踪したと見られる。
彼らの行方を知る者はいないが、きっと今も二人でどこかを彷徨っているのだろう――。
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