闇歴史
「……父上、お気を確かに。大丈夫ですか」
「あぁ、すまん。グレアス氏の翻訳に淡い希望を打ち砕かれた気がしてな」
心配して切り出すと、父上はゆっくりと顔を上げた。
でも、その顔色は今までで一番青ざめていた気がする。
最初の一文は僕でも真っ青になるぐらいだったから、国際事情と立場のある父上からすれば、さらに絶句ものだったはずだ。
「やっぱり、そうなりますよね。でも、だからこそ翻訳が正しいかどうかの精査が必要だと申し上げた次第です」
「なるほどな……」
父上は深いため息を吐くと、聖本の表紙をめくって内容に目を落とした。
「女神ミスティナ・マーテルは虚構である、か。これを書いた者はミスティナ教のあり方に相当な憤りを覚えていたのであろうな」
「はい。その点については次の頁【ページ】から読み取れます」
「ふむ……」
僕が答えると、父上は相槌を打って本をめくり、内容を目で追っていく。
執務室の空気がピンと張り詰め、重い雰囲気が流れる。
ややあって、父上は本を閉じて机の上へ丁寧に置いた。
「……女神ミスティナ・マーテルの虚構、聖女ミスティナの誕生、獣人族の成り立ち。これだけでもズベーラとトーガの歴史認識に多大な影響を及ぼすだろう。禁断の歴史が記された聖本といっても過言ではないな」
「歴史の闇に葬られた、言うなれば『闇歴史』というやつでしょうか」
脳裏で閃いた言葉をそのままに笑顔で告げると、父上は眉をぴくりとさせた。
「『闇歴史』とは言い得て妙かもしれんが、下手すればトーガが帝国に聖本を寄越せと聖戦を仕掛けてくる内容だ。笑い事でないぞ」
「う、申し訳ありません」
僕がたじろぐと、父上はやれやれと肩を竦めた。
「まぁ、よい。当面、この本に記された内容に触れるときは『闇歴史』という隠語を使うことにする。『著者不明の聖本』など口走っていては、聞かれるだけで外部漏れからな」
「え、でも、闇歴史という言い回しもばれるのではありませんか?」
「当人の恥ずかしい過去に触れるような言い回しをすれば誤魔化せるだろう。これについて知る者も少ないからな」
父上はそう告げると、僕の背後に控えるティンクを見やった。
「ティンク、悪いが急ぎサンドラを呼んできてくれ。ナナリーの部屋にいるはずだ」
「畏まりました」
彼女が会釈して部屋を退室すると、父上は二冊の本を見やってため息を吐いた。
「獣王戦を控えているというのに、何故こう次から次に問題が舞い込んでくるのだ。七転び八起きであればまだ良いが、現状は七転八倒に近いぞ」
「あはは。あれですかね、僕がズベーラ外遊中に三日月に向かって『願わくば、僕に七難八苦を与えたまえ』なんて言ったからですかね」
場を和めようと冗談のつもりで言ったんだけど、ピシリと空気に罅【ひび】が入ったような音が聞こえた。
「……リッド、さっき調子に乗るなと言ったばかりであろう」
「め、面目次第もございません」
父上の鋭い眼光に射貫かれ、僕はサーッと血の気が引いて頭を下げた。
「結局、運も不運も巡り合わせだ。いずれ好転する時がくる。それまでは耐え忍ぶしかあるまい」
そう言って小さなため息を吐くと、父上は僕の頭の上にぽんと手を置いた。
「あ、あの、父上?」
「お前はよくやってくれている。これからも頼りにしているぞ」
「……⁉ は、はい。頑張ります」
頭を優しく撫でられると、不思議と心がほわほわしてくる。
僕が照れ隠しに笑みを溢すと、父上もふっと口元を緩めていた。
◇
「リッド様、これはまたとんでもない代物を見つけましたね……」
ティンクに呼ばれて執務室にやって来たサンドラ。
彼女が僕と父上から促されるままソファーに腰掛け、著者不明の聖本の中身を見て、最初の一声がこれだった。
サンドラにしては珍しく口元がひくつき、真っ青でドン引き状態である。
今まで何があっても動じなかった彼女ですら、この聖本は手に余る代物なんだろう。
「どうだ、サンドラ。グレアス氏が生前に行った翻訳は間違いなさそうか?」
「そう、ですね」
父上に問いかけられ、彼女はハッとして聖本に記された文字を見やった。
「……古代マーテル語は専門ではありませんから、絶対とは申せません。ですが、私が把握している古代マーテル語と照らし合わせても、この翻訳は概ね間違いないかと存じます。内容が内容だけに、グレアス様の翻訳精査、そして全文を翻訳するための極秘翻訳班を用意すべきかと」
「やはり、そうなるか」
「父上、こうなった以上は『毒を食わば皿まで』かと。サンドラを中心とした翻訳班を組織し、本の内容を把握した上で国家間による交渉材料に昇華させれば、万が一にトーガに知られても、バルディアには早々手を出せないかと存じます」
サンドラの答えに父上が唸って腕を組むと、僕はすかさず切り出した。
「……すでにバルディアは毒を食い過ぎなぐらいだがな」
「良いではありませんか、父上。毒は喰らえ喰らうほど耐性が付くと申します。そうだよね、カペラ」
僕が目を細めて振り向くと、彼は少し決まりが悪そうに会釈した。
「それはリッド様の仰る通りですが、この場合は『毒を以て毒を制す』という方が正しいかと存じます」
「えぇ、そうかな。闇歴史という毒を取り込むんだから……」
「どちらでもよい」
カペラの答えに僕が首を捻ると、父上が強い口調で切り出した。
「何にしても、知り得てしまった以上は引き下がれん。リッドとカペラの言うとおり、毒を皿まで喰らい、その毒を制するしかあるまい」
父上はそう告げると、聖本に視線を向けた。
「だが、この毒を制するまでには時間がかかる。今回の件、絶対に他言無用だ。サンドラ、人員を厳選して翻訳にあたってくれ。くれぐれも外部に漏れることのないようにな」
「畏まりました」
サンドラが頷くと、父上は鋭い眼光をこちらに向けた。
「リッド、この本は国家間の関係に影響を与えかねない代物だ。従って、陛下達にも存在を秘密裏に知らせねばならんだろう」
「……それはつまり、帝都に聖本を持っていくということですか。さすがに人目に付きませんか?」
帝都でのバルディアは、ただでさえ注目の的だ。
もし、僕や父上が箱を大事そうに抱えて陛下に謁見したとなれば、『箱の中身は何か?』と必ず詮索してくる者が出てくるだろう。
「いや、いきなり持っていくことはできん。まずは書簡で……いや、紙に残すのは危険か。私が近日中に帝都へ出向き、直接口頭で伝えるしかあるまい」
「承知しました。ですが、父上」
「む、どうした?」
父上が首を捻ると、僕は咳払いをして切り出した。
「木炭車で帝都に行き来がする時間が短縮されたとはいえ、無理は禁物です。お体、ご自愛ください」
「面白いことを言ってくれる。心配は無用だ。そもそも、この程度で音を上げるようでは、お前の父親は務まらんぞ」
「え……?」
僕がきょとんとする横でサンドラが「ふふ……」と噴き出した。
背後からも「ふふ……」という声が聞こえて振り返れば、ティンクが肩をふるわせ、カペラもどこか表情が緩んでいる。
父上はその場で立ち上がると、僕の頭に手を置いてくしゃくしゃと回し始めた。
「うわ、わわわ。ち、父上⁉」
「外遊で自信をつけたか。一丁前になまを言いおって」
「やめて、やめてください。父上」
「お前は本当に生意気で、手の掛かる息子だよ」
父上は優しくそう言って笑い出すと、暫く嫌がる僕を気にせずに頭をくしゃくしゃとなで回していた。
でも、父上の大きな手が温かくて、ちょっと嬉しかったのは僕だけの秘密だ。




