渚の帰り道
「はぁ、あの水着はもうこりごりです」
海の視察が終わって屋敷の帰途に就いた被牽引車の車内、和気あいあいとする中でクリスが深いため息を吐いた。
すると、隣の座席であぐらを掻いていたヴェネが豪快に笑い始める。
「はは。クリス、そんな気にすんなって。すっげぇ、似合っていたぜ。なぁ、リッド」
「えっと、そうですね。とても魅力的な姿だったと思います」
急に話を振られた僕の脳裏で、クリスの水着姿が再生される。
魅力的も間違ってはいないけど、正確には扇情的もしくは蠱惑的というべき格好だったように思う。
「ほら、リッドもこう言ってんだからよ。もし必要なら、あの水着をやろうか?」
「要りません。もし、また水着姿になる機会があったとしても、あの水着はもう着ませんから」
「はは、そりゃ残念だ」
ヴェネはおどけて肩を竦めると、クリスの隣に座るエマを見やった。
「お前はどうする? 欲しいならあの水着をやるぜ」
「……要りません。見るたびに私が『持たざる者』という厳しい現実を知ることになるので」
声を掛けられるまでにこにこと明るい雰囲気を発していたのに、エマは急にずんと暗くなってしまった。
「はぁ? 『持たざる者』って一体何のことだよ」
「ふふ、ヴェネ様は『持つ者』ですからね。私の気持ちなんてわかりませんよ」
エマはにこりと目を細めるが、目の奥が笑っていない。
彼女の冷めた視線が自身の胸元に向けられていると察したヴェネは「あぁ、これのことか」とあっけらかんと呟いた。
「こんなもの、ただの脂肪の塊じゃねぇか。付け替えられたら、俺のをお前にやるんだけどな」
「……⁉ フシャアアアアア⁉」
エマは聞いたことのない奇声を発すると、勢いよく立ち上がって車内に立てかけられていた『斬竜半月刀』に手を掛ける。
「なら、その脂肪を切り取ってあげましょう」
「おぉ、やるか⁉」
ヴェネは目を輝かせて尖った八重歯を見せるが、僕とクリスは慌ててエマを制止するべく抱きついた。
「後生です。やらせてくださいクリス様、リッド様。この方はいま、全世界の悩める『持たざる』少女と女性の敵となったんです」
「待って、待って。こんな狭い車内でそんな得物を振り回しちゃ駄目だよ」
「リッド様の言うとおりです。止めるんです、エマ。ヴェネ様の無神経な発言に腹を立てる気持ちはわかりますが、これは駄目です」
「あ、そうだ。じゃあ、こうしよう」
「え……?」
また急に何を言い出すつもりなのか。僕達がきょとんとして固まると、ヴェネはにこりと笑った。
「クリスはアストリアの男爵令嬢で、エマはセクメトスから『イヴロン』って家名をもらったんだろ。じゃあ、俺のことは今後ヴェネって呼んで良いぜ。だから、その山のように大きな胸に免じて許してくれよ、な?」
彼女はクリスとエマの胸を交互に見やると、しまったと言わんばかりに決まりの悪い顔を浮かべて頭を掻いた。
「違った、山のように大きな心に免じてだ。すまん、すまん、ひとまずすまん」
ヴェネはあぐらを掻いたまま、両膝に手を突いて頭を深く下げた。
ただ、あまりに言葉と口調が軽い。
まるで煽っているかのような謝罪で、ぶちりと何かが切れる音が聞こえた。
ハッとして見やれば、エマが白猫姿に獣化しているじゃないか。
「ヴェネェエエエエエエ⁉」
「だから得物から手を離さないと駄目だって⁉」
「エマ、気持ちは分かるから静まりなさい。静まるのよ」
もう、えらいこっちゃ。
僕とクリスが必死にエマを取り押さえていると、ヴェネが腕を組んで何やら考える素振りをみせた。
「……そんなにどうにかしたいなら、本当に何とかしてやろうか?」
「はぁ⁉ 生まれついての体型を、それも幼少期ならいざ知らず。成人後からどうにかできるわけないでしょう。また、ふざけているんですか⁉」
エマが怒号を発するも、ヴェネは動じない。
「いや、ジェティから聞いたんだけどよ。ルヴァが酒の席で、同じような悩みを漏らしたことがあるんだと」
「ルヴァ殿が……?」
僕が聞き返すと、ヴェネはこくりと頷いた。
「あぁ、らしいぜ。最初はジェティも気にするなと笑ったそうなんだが、エマと同じ『持たざる者の気持ちなんて、持つ者にわかるものですか』みたいなこと言って、酒も混じっていたせいか加減を考えずに獣王戦さながらの大喧嘩。翌朝にはジェティの屋敷がボロボロになっていたが、ルヴァは何も覚えてないってんで大変だったらしいぜ」
彼女は豪快に笑い出すが、僕は急に頭が冷えて青ざめた。
お酒に酔ったとはいえ、屋敷をぶち壊すほどの大喧嘩に発展する酒乱なんて聞いたことがない。
でも、言われてみれば、ジェティの屋敷はあちこちに修繕の後があったな。
もしかして、あれはその時のものだったのか。
手土産に清酒を部族長達に渡すのは、止めた方がいいのかもしれない。
「ルヴァ様、当時の心中お察しいたします」
何やらエマが祈るように手を合わせ、車窓からルヴァのいる鼠人族領を見つめ始めた。
「ん……? でも、それでどうして何とかなるって話になるんですか?」
僕がふと脳裏に浮かんだ疑問を口に出すと、ヴェネはにやりと笑った。
「それがよ。ジェティが揶揄った私が悪かったって『胸を大きく見せる道具』を開発したんだと。服と胸の間に詰めて、大きく見せられるらしいぜ」
「あぁ……そういうことですか」
前世の記憶にある『胸パッド』というものだろう。
変装、コスプレ、普段着以外にも医療現場で使われることもあって、意外と用途の幅が広かったような気がする。
「まぁ、最初のお試し品はでかすぎて、ルヴァは『貴女、これは新手の挑発、嫌がらせの類いかしら? それとも、単純に馬鹿にしているの?』って笑顔で怒ったらしいけどな」
ヴェネはネタのように面白おかしく語って、けらけらと笑っている。
だけど、会談でルヴァと対面している僕からすれば、笑顔で怒っている彼女の姿が容易に想像がつくので背筋が寒くなった。
僕達がサーッと血の気が引いて青ざめていると、さすがの彼女も「あぁ……」と決まり悪そうに頬を掻いてから咳払いをした。
「まぁ、それでいいなら秘密裏に取り寄せてやるよ」
「……そこまでするのはさすがにいいです。というか、ここで私が取り寄せたら今の面々に丸わかりじゃありませんか。そんなの赤っ恥です」
エマが力なく項垂れると、ヴェネが「あ、いけね」とまた決まりが悪そうに頭を掻いた。
「今度は何ですか?」
クリスが呆れ顔で尋ねると、彼女はあっけらかんと笑った。
「これ、ジェティに絶対誰にも言うなって口止めされてたんだ。ここだけの秘密で頼むよ」
「あぁ、もう、貴女という人は……」
クリスは額に手を当て、やれやれと頭を振りながら俯いてしまった。
思いがけず、ルヴァの秘密を知ってしまった気がする。
この件、絶対に他言無用だなぁ。
「……うん、皆どうしたんだ?」
「あ、ごめん。起こしちゃったね」
座席で横になって寝ていたアモンが目を擦りはじめたので、僕はハッとして謝った。
今回、海に初めて訪れたアモンとクッキー。
彼等は最初こそ砂浜の感触、海水の塩辛さ、見慣れない生き物、どこまでも続く海の水面と水平線に感動していたんだけど、海の視察を終える頃には彼等はぐったりしてしまい、屋敷に着くまで横になっている予定だった。
嗅覚の鋭い二人には、潮風や海独特の香りによる刺激がちょっと強すぎたらしい。
ふと僕の隣で寝る子猫姿のクッキーを見やると、彼は薄らと目を開けると『ちょっとうるさい』と言わんばかりに目配せし、再び目を瞑ってしまった。
「あはは。クッキーもごめんよ」
軽く謝ると、僕は寝ぼけながらも体を起こそうとするアモンに視線を戻した。
アモンが起き上がろうとしたその時、ティンクの胸に顔が埋まってしまう。
実は彼が寝入ってから、ティンクがずっと膝枕をしていたのだ。
「あら、起きるのですか。アモン様、体調は大丈夫でしょうか?」
「う……ん。少し良くなったから、もうだいじょ……」
アモンが寝ぼけ眼でそこまで言った次の瞬間、彼は「な……⁉」と顔を真っ赤にして目を見開き、飛び上がるように体を起こした。
一気に眠気が覚めたようだ。
「な、ななな……⁉ ティンク殿、どうしてこんな間近にいらっしゃるんですか⁉」
「どうしてって。少しでも体調が良くなるよう、膝枕をしていたんです。お嫌でしたか?」
「い、いや。全然、嫌ではありません。むしろ、気持ちがとても有り難かったというか、嬉しかったというか。あ、でも、決して邪な意味では……」
「はい、存じております。アモン様の体調が良くなったのであれば幸いでございました」
「あ……。うん、ありがとうございます」
ティンクが会釈すると、アモンは顔を赤らめながら照れ隠しのように頬を掻いた。
二人の微笑ましいやり取りで、車内の空気が急にやわらいだ。
クリスはやれやれと肩を竦め、エマは小さなため息を吐き、ヴェネはにやけながらこちらを見やった。
「あれだなぁ、ああいう姿を見るとよ。アモンは初心だけど、リッドはませてるって感じだよな」
「……どうして、僕がませてるってなるんですか」
目つきを細くして訝しむと、彼女は頭の後ろで手を組んだ。
「ほら、俺達の水着姿を見ても動じなかったじゃん。一応、少しは色仕掛けというか困惑させようって意図もあったんだぜ。まぁ、最初に俺の水着姿を見て全く動じなかったから、すぐに諦めたけどな」
「それは残念でしたね。まぁ、僕にはファラっていう最愛の妻がいますから。色仕掛けは通用しませんよ」
「その年齢で結婚してるから『ませてる』ってんだよ」
僕があえて微笑むと、彼女が呆れ顔を浮かべて鼻を鳴らした。
「今の話、ちょっと待ってください」
何やらクリスが眉間に皺を寄せ、入り込んできた。
「色仕掛けとか困惑させる意図もあったと仰いましたよね。じゃあ、私が着たあの水着って……」
「あぁ~……。まぁ、ジェティの水着は確かに何種類かあったぜ。その中で突出したクリスに一番似合うのを選んだだけさ」
「やっぱり意図的だったのね⁉」
「いやぁ、まいった、まいった。ちょいと口が滑ったぜぇ。すまん、すまん、ひとまずすまん」
ヴェネは頭を掻くと、あぐらを掻いたまま両膝に両手を突いて深く頭を下げる。
あまりに軽く、煽るような口調が車内に響くと『ぶちり』と何かが切れる音が聞こえた。
「ヴェネェエエエエ⁉」
クリスは顔を耳まで真っ赤にすると、勢いよく立ち上がって立てかけてあった『斬竜半月刀』に手を掛ける。
「だからそんな得物を振り回したら駄目だってば!」
「クリス様、心中お察しいたしますが、これは駄目です」
「リッド様、やらせてください。エマ、離して」
「おぉ、やるか⁉」
僕とエマが必死にクリスを取り押さえるが、当のヴェネは目を輝かせて尖った八重歯を見せている。
そんな僕達の様子をみて、アモンはきょとんとしていた。
「あの、ティンク殿。状況が見えないんですが、止めなくてよろしいのでしょうか」
「いいんです、こういうのも若さですから」
「は、はぁ……?」
ティンクは僕達のやり取りを微笑ましそうに見つめ、アモンは首を傾げている。
「二人とも、そんなところで見てないでクリスを押さえるのを手伝ってよ」
「にゃ~……。にゃ、にゃにゃ【はぁ~……。馬鹿ばっかだぜ】」
こうして海の視察を終えた僕達は、無事順調(?)に屋敷への道をカペラの運転で進んでいった。




