ヴェネとの道中
「うげぇぇええ。気持ちわりぃ……」
「だから、移動中の車内で『華と恋』を読んじゃ駄目だって言ったじゃないですか」
兎人族部族長屋敷に向かう被牽引車の中、僕は車酔いでぐったりしているヴェネの背中を摩っている。
いつもは摩られる側だから、ちょっと新鮮。
まぁ、彼女がここまで酔ってしまったのは、初めての乗車ではしゃぎすぎたからだろう。
関所で僕達一行と合流してきた彼女は、移動中に座席の座り心地を確かめると、車内の施設を隅々まで見て歩き、座席で丸くなっていたシャドウクーガーこと、黒い子猫姿のクッキーを見つけて目を輝かせた。
『おぉ、リッド。これって魔物か?』
『はい、レナルーテの魔の森に生息しているシャドウクーガーです。縁あって僕達の傍にいてくれているんですよ。ちなみに彼の名前はクッキーです』
『へぇ、これがレナルーテの魔の森に生息するという魔物か。初めて見たぜ。牢宮【ダンジョン】の魔物とは、やっぱり気配が違うな。リッド、触っても大丈夫か』
『え、えぇ。良いですけど、乱暴に扱うとクッキーは怒りますから注意してください』
『よし、わかった』
ヴェネは嬉しそうにクッキーを抱いて撫でくりまわす。
程なく、クッキーは顔を顰めて『シャー』と威嚇し、逃げるように僕の影へ潜り込んでしまった。
『はは、可愛いな』
『あらら、ごめんよ。クッキー』
僕が影に隠れた彼に謝っていると、彼女は車窓に近づいて窓を開けると身を乗り出した。
『何しているんですか⁉ 危ないので、それは止めてください』
『わかった。なら屋根に上ってみるわ』
『え……⁉ ちょ、ちょっと……⁉』
僕が注意するとヴェネはにやりと口元を緩め、制止を振り切って車窓から車両の屋根に上って両手を大きく広げた。
『おぉ、風が気持ちいいな』
車体の上で風を正面から受けているのにもかかわらず、彼女は鍛えられた足腰と凄まじい体幹が相まってビクともしない。
長くピンと立った耳と黒い長髪が風に靡く姿はとても絵になっていたけど、だからって許される問題でもない。
『ヴェネ、それはもっと危ないから止めてください』
止むなく僕も車窓から身を乗り出して、厳しめの口調で呼びかけると彼女はひょこっと顔を覗かせた。
『ケチくさいこと言うなよ、リッド。お前も上ってこいよ、絶景だぜ』
『え、本当ですか。じゃあ、僕も……って、そういう問題じゃありません』
ヴェネの明るい口調と軽い調子に乗ってしまいそうになるが、僕はすぐに頭を振って突っ込んだ。
『はは、リッド。お前、結構面白い奴なんだな』
『大人しく乗れないなら、お一人で部族長屋敷に戻っていただきますよ』
『ちぇ、わかったよ』
ヴェネは口を尖らせながら戻ってくると、車内に置いてあった『華と恋』をめざとく見つけた。
『お、なんか面白そうな本があるな。リッド、これ読んでもいいか?』
『良いですけど、慣れない車内で本を読むと酔っちゃいますよ』
『酔うって……ひょっとしてあれか。船酔いとか馬車酔いみたいな奴か?』
『えぇ、そうです。木炭車でも似たような症状が起きるんです。ちなみに僕は結構酔いやすいので、酔い止め用の飴玉を常備してますよ』
僕は懐から飴玉を取り出すと、首を傾げるヴェネに差し出した。
『へぇ、飴玉ねぇ。でも、俺には要らねぇよ。兎人族は海に出ることが多いからな、この程度で酔ったりしねぇんだ』
『そうですか。まぁ、それなら良いですけど』
『おう、じゃあ読ませてもらうぜ』
結局、ヴェネは僕達の忠告を無視して『華と恋』を車内で読み始める。
大丈夫かなと、心配する僕を余所に彼女は本に目を落として読み進めていく。
ややあって、ヴェネは眉間に皺を寄せて訝しむように顔を上げた。
『おい、リッド。帝国の令嬢とやらは、本当にこんな貧相な顔と体つきの男が好みなのか』
『いや、それは人によると思いますよ。そもそも、それはあくまで空想上の物語です。現実を求めるものじゃありませんよ』
『空想ねぇ……』
彼女は合点がいかないらしく、口を尖らせている。
『というか、ヴェネが求める理想の男性ってどんな人なんですか』
僕が問い掛けると、彼女は尖った八重歯を見せた。
『そりゃ、やっぱりあれだよ。武人の面に引き締まった体、それと頭も切れてくれれば万々歳だぜ。あ、そうだ』
ヴェネは何かを思い出したようにハッとすると、僕を見据えて不敵に笑った。
『強いて言うならガレスの葬儀で会ったリッドの親父さん、ライナー・バルディアが俺の好みだな』
『え……えぇ⁉』
父上の名前が急に出てきて目を丸くすると、彼女は座席に座りながら足を組み、腕を組んで思い出すように唸った。
『ちょっと挨拶を交わしただけだったが、歴戦の武人が醸し出す雰囲気と面構え。所作で分かる武術で鍛え上げられた生きた筋肉。ありゃ、間違いなくいい男だった。リッドも将来は親父さんみたく、ああいう男にならねぇとな。期待しているぜ』
ヴェネはそう告げると、楽しそうに声を上げて笑い始めた。
『あはは、そうですね。頑張ります』
なんだ、ただの冗談か。
部族長とはいえ、ヴェネは妙齢の女性だ。
それもとびきりの美人であることは間違いない。
そんな人から『父上が好み』と言われて嬉しい反面、ちょっとした戸惑いもあって反応に困ってしまう。
苦笑していると、傍にいたティンクが小声で『確かに……』と呟いた。
『ヴェネ様の仰ることにも一理ございますね。リッド様は、いずれライナー様の後を継ぐお方です。皆、大なり小なり期待しておりますよ』
『ま、まぁ、父上に追いつけるよう頑張るよ』
この場にいる皆から期待の眼差しを向けられ、僕は決まりが悪くなって頬を掻いた。
すると、ヴェネがティンクに目をやった。
『なぁ、あんたは帝国出身なんだろ。この内容はどうなんだ?』
『そうですね。帝都にいる令嬢の皆様は泥臭い冒険や戦いとは無縁でございます故、これぐらいが丁度良いかと存じます。何事も現実は厳しいですから、楽しみで読む本ぐらいは華だけでよろしいかと』
『へぇ、そういうもんかねぇ……』
ヴェネは首を傾げつつも、華と恋を読み進めていった。
そして今現在、彼女は紙袋に顔を突っ伏しているというわけだ。
「ほら、酔い止めの飴を口に入れてください」
「あぁ、すまねぇな……」
最初の元気はどこへやら。
しおらしくなった彼女は飴を受け取ると口の中に放り込み、座席の背もたれに体を預けた。
「そうなったら、もう寝るしかありません。屋敷に到着するまで、そうして休んでいてください」
「そうだな。わりぃけど、そうさせてもらうわ……」
僕はヴェネの座席をゆっくり倒すと、氷の属性魔法でこっそり冷たくしたアイマスクを付けてあげた。
「お、冷たくて気持ちいいな」
「はい、ゆっくり休んでください」
僕が優しく答えると、彼女は小さく頷いてそのまま深呼吸を始めた。
よかった、ちょっと落ち着いたみたいだ。
静かに席を立つと、僕は少し離れた前の座席に移動した。
「リッド、お疲れ様」
「そう思うなら、君も手伝ってくれればよかったのに」
席に座るなり、近くの座席に座っていたアモンが声を掛けてきた。
「私はほら、ヴェネと同じ部族長という立場があるからね。彼女も私に弱いところはあまり見せたくないだろうと思ってね」
「そういうものかなぁ」
僕は肩をすくめると、車窓から外の景色を見つめた。
兎人族領は北側全域が海に面していて、漁業が盛んな領地だ。
領内にちょっとした林はあれど山岳地帯は見当たらず、見渡す限り大平原が広がっている。
途中で立ち寄った町で見た人々の格好に目を向けると、男女ともにスリットが入ったワンピースを身に着けていた。
ただ、女性は生足で、男性は下に長ズボンを穿いているようだ。
狐人族の服装とも似ているけど、相違点として兎人族の方が腕や足など露出が多い気がする。
立ち寄った町では魚を解体しながら鮮魚と干物を販売し、露店では海産物を焼いて販売していた。
町ゆく人達は兎人族と他部族の獣人族がほとんど。
人族はあまり見かけず、商人らしい人族と護衛の冒険者っぽい風貌の人と時折すれ違う程度だった。
『兎人族領の海は穏やかで海産物は豊富に取れるんだが、何せ生ものだ。干物なら他領や他国に売れるが、人気はいまいちでな。いまのところ、ズベーラで一番、貧乏な領地なんだよ』
酔って寝込む前、ヴェネは町の光景を見ながらそう語っていた。
そして彼女は『だから、リッドとアモンには期待しているんだぜ』とも言っていた。
海産物が豊富で海が穏やかで同業他社となる商家もほとんど入り込んでいないとなれば、僕達にとっては好都合だ。
あとは実際に海を見せてもらって、『あの計画』を進められれば莫大な富を生み出せるかもしれない。
ただ、そのためにはヴェネと補佐役のシアを説き伏せる必要がある。
ヴェネは友好的だけど、交渉ではどうなるか未知数だ。
前部族長という経歴を持ち、経験豊富なシアも簡単に交渉に応じる相手ではないだろう。
でも、会談が成功して計画が動き出して軌道に乗れば、バルディアの懐事情が一気に解決するかもしれない。
絶対にこの会談を成功させてみせるぞ。
後ろの座席で休んでいるヴェネの寝息を聞きながら、僕はひっそりと決意した。




