猫人族領の朝
「起きろ、リッド。朝だぞ」
「な、なな、なに⁉」
ヨハンの明るく元気な声と共に激しく扉が叩かれ、僕は何事かとベッドから慌てて飛び起きた。
周囲を見渡せば窓から日の光こそ差し込んでいるけど、まだ薄暗い。
夜明けから間もない時間なんだろう。
「おーい、リッド。聞こえているんだろう」
「……リッド様、ヨハン様が来られたようですがいかがしましょう」
部屋の外から響いてくる呼びかけに、扉近くで控えていたカペラが淡々とした口調で切り出した。
「えっと、とりあえず僕が出ようか」
「畏まりました」
僕は苦笑しながらベッドから立ち上がった。
ヨハンの性格を考えれば、カペラよりも僕が直接対応したほうがいいだろう。
「今出るからちょっと待って」
「お、やっぱり起きてたな」
外から自信満々な声が聞こえてくる。
起きたわけじゃなくて、君に起こされたんだけどね。
僕は欠伸をしながら、やれやれと扉を開けた。
「おはよう、ヨハン。こんなに朝早くからどうしたのさ」
「何を言っているんだ、リッド。昨日、また明日くるからなと伝えたはずだぞ」
「ん……?」
寝ぼけた頭で昨日のやり取りを思い返すと、確かに彼は『また明日くるからな』と言っていた記憶がある。
「それにしても早すぎるでしょ」
「だって、リッドは明日にはここを出発する予定だろ。それに午前中から夕方にかけては母上や父上と予定がびっしりだ。だから友達として、屋敷のいろんなところを案内できるのは今の時間帯だけなんだよ」
ヨハンはそう言うと、耳としっぽが垂れてしゅんとした。
「……それとも僕と一緒に屋敷の中を見て回るのは嫌か?」
「あ、いやいや。そんなことはないよ」
「本当か⁉」
僕が頭を振って微笑み掛けると、ヨハンは満面の笑みを浮かべて白い八重歯を見せた。
「う、うん。じゃあ、準備するからちょっと待ってて」
「わかった。ところで……」
ヨハンは頷くと、何やら申し訳なさそうに頬を掻いた。
「部屋の中に入れてもらってもいいか? 廊下は少し肌寒くてな」
「はは、いいよ。どうぞ」
二つ返事で彼を室内に招き入れると、僕はカペラに温かい飲み物を出すように目配せした。
ヨハンは勝手知ったる様子で室内に備え付けられたソファーに腰掛けると、机の上に置いてあるクッキーなどの焼き菓子へ次々と手を付けていく。
「あんまり食べると朝ご飯が入らなくなっちゃうよ」
声を掛けると、ヨハンはカペラから受け取った飲み物を口にしてから頭を振った。
「母上みたいなことを言うんだな。大丈夫、これぐらいじゃお腹いっぱいにならないよ」
「そうかい? それならいいけどね」
小さなため息吐いて相槌を打つと、僕は寝間着から猫人族の民族衣装に着替えていく。
いつもの普段着に着替えたいところだけど、猫人族領にいる間は外交面を考えてこちらを着ておいたほうがいいだろう。
猫人族の民族衣装は動きやすさを意識されて軍服的な服だから、帝国式の普段着よりも着替えやすいのは助かる。
「ん……?」
着替えの途中、背後から視線を感じて振り向くと、ヨハンが目を見開いてこちらをじっと見つめていた。
「……な、なに?」
「いや、昨日あれだけ動いていたのに意外と華奢で綺麗な体つきだと思ってな」
「どこを見ているのさ」
呆れてがっくり項垂れると、ヨハンは「あはは」と笑い始めた。
「実は僕の体つきもリッドと同じで結構細いんだ。母上はがっしりしているんだけど、父上が細くてな。僕は父上似といわれているんだよ」
「へ、へぇ。そうなんだね」
相槌を打つと、ヨハンは目をきらきらと輝かせる。
僕は気にしないようにして着替えを再開した。
「ところで、リッドはどっち似と言われているんだ」
「うん? 僕は母上と似ているって言われることが多いかな」
「そうなのか。じゃあ、リッドの母上も魔法が得意なのか」
「え……?」
母上が魔法を扱えるなんて話は聞いたことがない。
それ以前に母上は魔力枯渇症を患っているし、魔力消費すれば病状を悪化させる可能性が高い。
魔法を使用するなんて言語道断だ。
でも、だからといって魔法の才能がないという結論にはならないだろう。
僕は唸って首を傾げると、頭を振った。
「どうだろうね。母上は闘病生活中だし、その前も魔法が使えるって話は聞いたことがないかな」
「へぇ、そうなんだな。あ、そうだ」
ヨハンは何か思いついたのか、身を乗り出すように立ち上がった。
「リッドの母上が元気になったら、魔法を教えてあげればいいじゃないか」
「ふふ、それは面白い考えだね」
思わず噴き出すと、ヨハンはむっと頬を膨らませた。
「冗談じゃないぞ。リッドが持つ魔法の才能や強い香りは血筋からくるものだ」
彼は鼻先をぴくりとさせ、自身の鼻を指さした。
「バルディア家に武勇優れた当主が多いのは有名だけど、魔法に長けた当主はいなかった。おそらくリッドの母上、もしくはそっちの血筋が関係しているはずだ。機会があれば、一度調べてみるといい」
「はは、わかったよ。母上が完治して魔法に興味を持ってくれれば考えるよ」
母上が元気になって魔法を僕から習う、か。
きっと父上は反対するだろうけど、メルや屋敷の皆は喜んでくれるだろう。
僕は嬉しくて泣いてしまうかもしれないな。
笑みを浮かべて答えると、僕は「さて……」と話頭を転じた。
「着替えが終わったよ。ヨハン、どこに行くんだい?」
「そうだな。まずはアモンにも声を掛けに行こう。それから僕の部屋、その次に屋敷の中を案内する感じでどうだ」
「わかった。お願いするよ」
僕は頷くと、部屋の扉近くに控えているカペラに目配せした。
護衛としてついてきて、という意味だ。
彼はすぐに察して会釈してくれた。
「決まりだな。じゃあ、いくぞ」
ヨハンは嬉しそうに歩き出して部屋の扉を開けるが、彼は「あれ……?」と立ち止まる。
「どうしたの?」
後ろから覗き込むと、廊下には何やら人影が見える。
誰だろうと思って前に出ると、人影は畏まった様子で会釈した。
「リッド様、ヨハン様。おはようございます」
「ティンクじゃないか。どうしてここに?」
僕は目を見開いた。
彼女はメイド服で身嗜みを整え、完璧なたたずまいでそこにいたからだ。
僕の専属護衛はカペラとティンクが任されていて、夕方から翌朝までの警護はカペラ。
朝から夕方までをティンクが担当している。
今は早朝で、普段なら交代前の時間帯だ。
「ヨハン様の声が聞こえましたので馳せ参じました。昨夜のこともありますから」
彼女はにこりと目を細め、カペラと僕を一瞥した。
ただし、彼女は目の奥が全く笑っていない。
「……面目次第もございません」
「あ、あはは……」
カペラは会釈し、僕は決まり悪く頬を掻きながら苦笑する。
そうしたやり取りを横で見ていたヨハンは、きょとんと首を傾げていた。




