リッドと怒れる彼女
「キール様。いえ、キール。少し、悪ふざけが過ぎるのではありませんか。リッド様が整った顔立ちをされているからとはいえ、そのようなことを仰せになるのは些か無礼が過ぎると存じます」
ファラがキールの肩に手を置くと、心なしかその場所が白い氷で覆われていく。
彼女が纏う黒いオーラから発せられる冷風で周囲の気温は一気に下がり、肌には痺れるような痛みが走る。ファラのこんな姿を見たの初めてだ。
それとなく周囲を見渡せばメルやアスカを始め、この場にいる誰も彼女の豹変ぶりに顔を強ばらせ、たじろいでいた。
どうやら、誰も彼女のこうした姿を見たことはないらしい。
凄みのあるファラが背後に立たれたキールはというと、顔が真っ青になって体が小刻みに震えている。
彼は必死に笑顔を保ちながらごくりと喉を鳴らし、意を決した様子で背後に振り向いた。
「そ、そうだね。君の夫を揶揄って申し訳ない。謝罪するよ」
「はい、分かっていただけて良かったです。でも……」
彼女はそう言うと、キールの耳元にゆっくりと顔を寄せた。
「謝罪は受け入れますが、許すかどうかは別問題です。貴方の軽率な発言を行う悪い癖、実は以前から少し気になっていた部分がございました。折角ですから、ナナリー様にご報告して陛下達にもお伝えしましょう」
「て、帝都にいる父上と母上にですか」
「はい」
目を見開くキールに、ファラは笑顔のまま即座に頷いた。
流石の彼も、両親に報告されるのは困るらしい。
『問題は起こさないように』と念でも押されているんだろう。
「り、リッド。すまなかった。君からも何か言ってくれ」
「あらあら。そんなこと言うなんていけません」
僕に視線を向けて助け船を求める彼だったが、ファラが目を細めて微笑んだ。
「だって、それこそキールが指摘したリッド様の『脇の甘さ』でしょう。忠告しておきながら、自らが窮地に陥ったら利用するだなんて許されません。それともキール、貴方は『甲斐性無し』ですか」
「わ、私が『甲斐性無し』……」
ファラの凍てつくような眼差しに射貫かれ、キールはがっくりと項垂れてしまった。
本気で彼女が怒るとこんな感じになるのか。
呆気に取られていたがハッとして「ちょ、ちょっと待った」と場を収めるべく声を発した。
「リッド様。この無礼な発言、まさかお許しになるんですか。そもそも、キールはメルちゃんの仮とはいえ婚約者。つまり、私達の義弟。親しき仲にも礼儀ありと申します故、ここは立場をわからせるべきかと存じます」
ファラは笑顔のまま首を捻るが、皇族の言葉を『無礼な発言』と切り捨てるのは普段の彼女じゃあり得ない。
ちょっと、怒りで我を忘れているような気がする。
「ほら、キールもただの冗談って言ってからさ。それに、もし万が一勘違いされたとしても、僕にはこれがあるよ」
「これ、ですか」
彼女がきょとんと首を傾げると、僕は眉間に力を入れ、目つきを鋭くし、口元をへの字に曲げた。
「この父上顔なら、誰だって寄ってこないさ」
さっきは笑いで満ちたこの場だったが、今はとても寒い。
多分、ファラが怒っているせいだろう。
そう思ったが、何やら皆の視線が僕の背後に集まっている気がした。
「へぇ、ライナー様の顔真似ですか。面白そうですね。私にも見せてもらえませんか」
突然、僕の後ろからサンドラの声が聞こえてきた。
そうか、彼女が僕の背後に居たから、皆の視線がそちらに向かっていたんだな。
よし、このまま振り向けばサンドラが爆笑すること間違いなし。
そうすれば、皆も笑い始めてこの場は丸く収まるはず。
僕は咄嗟に考えを巡らせ、特に大好評だった父上のしかめっ面の顔真似で振り返った。
「サンドラ。また、リッドが何かしでかしていないだろうな」
「……⁉ ふ、くっくく」
「……ほう。お前には、私の顔はそう見えているんだな」
僕の後ろに立っていたのは、サンドラと父上の二人だった。
案の定、サンドラは肩を震わせながらそっぽ向いて咳き込み始める。
しかし、父上の眼差しはとても冷たかった。
「あ、あれ。ち、父上がどうしてこちらに」
呆気に取られると同時に顔真似はすぐに解けるが、代わりに僕はとてつもなくバツが悪い状況に口元がひくついていた。
父上は眉をぴくりとさせて、咳払いをする。
「お前が狐人族領で対峙した『相手』の件で少し話があってな」
「そ、そうでしたか。でも、それでしたら、通信魔法で教えてくだされば良かったのに」
「同じ屋敷内にいるんだ。わざわざ、魔法を使う必要もあるまい。それに……」
そう言うと、父上は鋭い眼差しで周囲にいる皆を一瞥した。
「何やら、面白そうな笑い声がこちらから聞こえてきたいたんでな。何事かと様子を見にきたというわけだ」
どうやら、僕の顔真似を目の当たりにして大体の察しが付いたらしい。
父上の刺々しい雰囲気に、周囲は文字通り針のむしろのような状態になっている。
皆揃ってバツの悪い表情を浮かべる中、「そうだ、姫姐様」とメルが満面の笑みで切り出した。
「私達はこの後、皆でお茶をする約束だったよね」
「え……」
「そ、そうでしたね、メル姉さん。思ったより時間が経っちゃったみたいです。ね、シトリー」
「う、うん。リッドお兄様とルーベンスさんの稽古に見蕩れちゃってました」
メルの唐突な発言にファラはきょとんとするが、すぐにティスとシトリーが合いの手を差し伸べた。
「じゃあ、父上、兄様。そういうことだから、私達はお暇するね。姫姐様、早く行こう」
「え、えぇ」
ファラはメルに手を引かれ、ティスとシトリーに背中を押されるまま、有無を言う間もなくこの場を後にしてしまった。
ダナエは笑みを溢すと、僕と父上に会釈して彼女達の後を追っていった。
メル、なんて身の切り替えが早い引き際だ。
あっという間の出来事に唖然としていると、残っていたアスナが「リッド様」と切り出して畏まった。
「私もこれで失礼しますが、魔刀術の件。後日、改めてご教授願います」
「え、あ、うん」
僕が相槌を打つと、アスナは満面の笑みで「しからば、御免」と一礼して踵を返した。
『アスナって、あんな顔もするんだ。本当に剣術が大好きなんだなぁ』
半ば現実逃避しながら彼女達の背中を見送っていると、ネルスが咳払いをした。
「キール様。そろそろ、我等も図書館にいく時間かと」
「あ、そ、そうだったね」
キールは彼の言葉で、わざとらしく懐にあった懐中時計を取り出して確認する。
なお、彼が持つ懐中時計は、帝都訪問の時に僕達が献上したものだ。
「じゃあ、リッド。また、後で。ライナー殿、私もこれで失礼いたします」
キールは会釈してそそくさと歩き出す。
ネルスはその後ろ姿を見て笑みを溢すと、ルーベンスに視線を向けた。
「お前、ディアナの懐妊を喜ぶのは良いけどよ。発覚してからここ数日、書類仕事を溜めているだろ。早く終わらせて提出しないと、団長が怒るぜ」
「な、なんでそのことを」
ルーベンスはぎょっとするが、ネルスはやれやれと肩を竦めた。
「事務仕事もちゃんとこなせないと、副団長は務まらないだろ。最悪、降格することだったあるんだぜ。ですよね、ライナー様」
「うむ。勿論だ」
父上が二つ返事で頷くと、ルーベンスの顔が一瞬で真っ青になった。
「も、申し訳ありません。すぐに終わらせて参ります。リッド様、申し訳ありませんが私もこれで失礼いたします」
「う、うん。ディアナにもよろしくね」
「はい。頂きました懐中時計は、我が家の家宝とさせていただきます」
彼は僕と父上に敬礼すると、身体強化を使用しているんじゃないかと見間違う速度で走り去ってしまった。
「相変わらず、わかりやすい奴だ」
ネルスは喉を鳴らして忍び笑うと、父上と僕に敬礼して「では、私も失礼いたします」と少し先を歩いているキールを追いかけていった。
ふと気付けば、この場にいるのは眉間に皺を寄せた父上。
肩を震わせて何かを堪えているサンドラ。
針のむしろでバツが悪くなっている僕の三人だけとなっていた。
何とも言えない空気が流れるなか、「さて、リッド」と父上が口火を切る。
「もう一度、私の顔を真似てみろ」
「え、で、でも……」
「いいから、やれ」
父上の凄みある眼差しで射貫かれ、僕は困惑しながらも「じゃ、じゃあ……」と一旦、父上に背を向ける。
そして、眉間に力を入れ、口をへの字にし、目つきを鋭くして振り向いた。
「……ナナリー、愛している」
母上に魔力回復薬を初めて投与した時の父上を脳裏に蘇らせ、かつ全体的に格好良い感じに仕上げてみた。
でも、父上は笑うこともなく、かと言って怒る素振りもない。
はて、どうしたんだろうか。
そう思った時、父上の顔が少し赤くなっていることに気付いた。
「あれ、父上。ひょっとして照れてますか」
素顔になって問い掛けると同時に、「いたっ⁉」と僕の額に強い痛みが走る。
額を父上から中指で軽く弾かれたのだ。
いわゆる、デコピンである。
「親を揶揄うんじゃない」
「そんな、やれって言われたからやったのに。酷いですよ、父上」
額を摩りながら目を潤ませて上目遣いで見つめると、父上は腕を組んで決まりが悪そうにそっぽを向き、鼻を鳴らした。
「そもそも、私の顔真似などすること自体、悪ふざけが過ぎる。それに、私はそんな顰め面をしておらん。そうだな、サンドラ」
「え、えぇ。そ、そうですね」
彼女は振られるとは思っていなかったのか、頬を掻きながら頷いた。
でも、目が泳いでいる。
父上はため息を吐くと、「まぁいい」と頭を振った。
「そんなことより、さっきも言ったが狐人族領でお前が対峙した者の件で話がある。場所を変えるぞ」
「は、はい。畏まりました」
仏頂面で歩き出す父上の背中を追いかけるけど、その顔を見た限りでは『やっぱり、似ていると思うけどなぁ』と僕は内心で思っていた。




