リッドの羞恥
ファラが臍を曲げて隣の自室に行ってしまった後、どんなに頭を巡らせても『乙女心を弄んだ』という言葉の意味が分からず、状況も思い出せない。
困り果てた僕は、ベッドに腰掛けてメモリーを呼び出した。
記憶の確認ができないか尋ねてみようと考えたのだ。
『昨日の今日だからね。すぐに出来るよ』
良かった、これでファラと仲直りができる。
僕は胸を撫で下ろして安堵するが、彼は含みのある言い方で『でも……』と続けた。
『心して見るんだね』
『え、どうして』
『まぁ、見ればわかるよ』
彼の不敵な笑い声が頭の中に聞こえてから間もなく、目を瞑ると脳裏に当時の状況や僕が発した声が再生されていく。
『な、ななな……⁉』
全身の体温が一気に上がって全身から汗が噴き出し、顔が火照って真っ赤になっていくことを、すぐさま自覚した。
疲れと疲労による極度の眠気に襲われていたらしい僕は、ファラを力一杯抱きしめ、歯が浮くような言葉でずっと愛を囁いていたのだ。
いや、確かに狐人族領に居る時、早くファラに会いたいと思っていた部分もある。
だから言葉に嘘はない。
嘘はないけど、これはあまりにも恥ずかし過ぎる。
ファラに囁いた言葉が次々と再生されていき、僕は溜まらずにベッドの上に倒れ、悶えながら左右に忙しなく転がった。
『君が僕の妻で良かった。この世で一番、幸せにしてあげる』
『ずっと、会えなくて寂しかったんだ』
『もう離さない。ファラは誰にも渡さないよ』
うわぁああああ⁉
なんて、なんてことを僕は口走っているんだ。
頭を抱えながら自らの行いに目を背け、耳を塞ごうしたが、『記憶再生』だから逃れられないことに気付き、さらに悶絶する。
だけど、映像をよく見れば、ファラの耳が赤く染まって上下に動いていた。
ということは、ファラも喜んでくれていたのか……そう思うと少し嬉しいかも。
いやいや、そういう問題じゃないだろう。
自分で自分に突っ込んでいると、映像の中で僕の胸の中に埋まっていたファラが顔を上げた。
何やらその表情は、普段の彼女より少し大人っぽい雰囲気がある。
『リッド様は、そんなに私の事を好きでいてくれるのですか』
『うん。大好きだよ』
『で、では、将来……』
「……⁉ もういい、わかったから。メモリー、映像を止めて」
ハッとした僕は、咄嗟に叫んだ。
『あはは、そんなに慌てて直接声に出さなくても大丈夫だよ。だから、心して見るんだねって言っただろう』
彼の明るい笑い声が聞こえなくなると、脳裏に再生されていた映像と音声は止まった。
激しい運動をしたわけでもないのに息をすれば肩が動き、胸の鼓動は激しく、全身は汗でびっしょりに濡れている。
皆に久しぶりに会えたから、舞い上がっちゃったみたいだ。
これも、ある種の油断かなぁ。
僕は深いため息を吐くと、やれやれと首を横に振った。
◇
皆揃っての朝食が終わると、僕は狐人族領の報告をするため、父上の執務室をディアナと一緒に訪れていた。
そして今、室内には机を挟んだ正面のソファーに腰掛けた父上の笑い声が響いている。
横目で見やれば、僕が腰掛けるソファーの後ろで控えるディアナも肩を小さく震わせ、そっぽを向いていた。
「……何も、そんなに笑わなくても良いではありませんか。だから、この話はしたくなかったんです」
頬を膨らませると、父上は「すまん、すまん」と苦笑した。
「朝食の時、あまりにもファラとお前の様子がいつもと違ったのでな。まぁ、そういう事情なら問題なかろう」
「はぁ……」
深いため息を吐くと、僕はがっくりと項垂れた。
メモリーによる『記憶再生』のおかげで、ファラの言っていた『あの言葉の数々』を全て把握した僕は、すぐに彼女の部屋を訪問する。
あれだけ歯の浮く台詞を囁いておきながら、何も覚えていなかったのだ。
彼女が怒るのも無理はない。
ファラはアスナやディアナを含めて人払いをし、二人っきりで僕の話に耳を傾けてくれた。
『なるほど。では、メモリー様を通じて全て思い出したということであれば、あの言葉の数々に……その、嘘偽りはないと断言できますか』
エルティア母様を彷彿させる冷淡な雰囲気から一転、可愛らしい上目遣いで睨まれ、どきりと胸が鳴った。
『も、勿論さ。改めて言うと恥ずかしいけど、全て本心だよ』
『そう、ですか。なら許してあげます。でも、次に囁いてくださるときは、ちゃんと覚えておいてくださいね』
『う、うん』
ファラの機嫌はこのやり取りで良くなった。
というか、満面の笑みを浮かべて今までにないくらいのご機嫌になったのだ。
朝食を取るべく食堂に出向いた際には、父上や母上もいる前で『リッド様。お口を開けてください』と次から次へと食べさせてくれた。
戸惑いつつも、彼女の浮かべる満面の笑みに底知れぬ凄みを感じ、何も言い返せずに僕はなすがままになっていたのだ。
普段とあまりに違う僕達のやり取りを目の当たりにした皆の反応は、様々だった。
屋敷の皆からは生暖かい眼差しを送られ、メル、ティス、シトリーの妹達からは『すっごーい。朝からラブラブ全開だ』という言葉と共に、何やら熱い視線を向けられた。
『あらあら。今日はすっごく仲が良いのね。あなた、私もしてあげましょうか』
母上はそう言って視線を向けるが、父上は『ナナリー、茶化さないでくれ』と首を横に振っていた。
やがて朝食が終わると僕は皆と別れ、狐人族領の報告を行うため、ディアナと一緒に父上が執務室として使用している部屋に移動する。
そして、僕が席に着くなり、父上は眉間に皺を寄せた。
『あのファラの様子だが、普段の言動から鑑みても只事ではない。リッド、一体何をしたんだ。まさか、レナルーテと外交問題に発展するようなことではあるまいな』
『い、いえ。そんなことするわけないじゃないですか』
愛を囁くことが外交問題になるわけが……いや、場合によってはあるかもしれないけど、僕とファラはレナルーテで挙式も上げてるし、帝国でも書類上はすでに夫婦だから何の問題もない。
むしろ、あったらおかしいだろう。
でも、父上は合点がいかない様子で訝しんだ。
『そうか。ならば、何があったのか。原因と思われることを洗いざらい吐いてもらうぞ』
『えぇ⁉ それはご勘弁願います。絶対、外交問題にはなりませんから』
実の父親に自分の妻に語った愛の言葉を説明するなんて、とんでもない。
人が羞恥で死ねるなら、死んでしまうぐらいの行いではないだろうか。
僕は頭を振って全力で拒否したが、それがいけなかった。
父上はますます怪しんで、険しい顔を浮かべたのである。
『駄目だ。それに外交問題になるかどうかは、私が話を聞いて判断することだ。確認する意味も込め、全て正直に話せ』
『……承知、しました』
観念した僕は魂が口から抜けていきそうな感覚を味わいながら、昨日の夜から今日の朝に掛けてファラと僕の間で起きたことを語る羽目になったのだ。
そして、今現在に至るという訳である。
真っ白になって項垂れていると、父上の咳払いが聞こえた。
「さて、お前とファラの件は問題ないことがわかったところで、本題に移ろう。アモン・グランドークを部族長とした狐人族領。その様子はどうだ」
父上がそう言うと、室内の和やかだった空気が一瞬で張り詰める。
部屋の雰囲気が変わったことで我に返った僕は「畏まりました」と威儀を正し、狐人族領での出来事を事細かに報告を始めた。




