リッドとミスティナ教
ミスティナ教とは、帝国に次ぐ国力を持つ教国トーガの国教だ。
そして、トーガが中心となって長年布教した結果、大陸全土で一番有名かつ信者の多い宗教になっている。
実際、大陸にあるどの国でも一定数ミスティナ教の信者がいるそうだけど、各国におけるミスティナ教の評判はあまり良くない。
ただ、教えの内容ではなく、過去から現在においてトーガがミスティナ教を都合の良いように解釈し、政治利用しているためだ。
過去に行われたトーガの侵攻戦略は、まずミスティナ教を敵国内で布教させ、信者を大量に生み出す。
次いで、女神ミスティナによる神託を大義名分とした『聖戦』を仕掛け、敵国内の信者達と結託して内外から崩壊させるというのが常套手段だったそうだ。
帝国を含めた各国は、トーガの策略で大混乱に陥った時期がどの国も歴史上あるらしく、ミスティナ教の印象は相当に悪いらしい。
だけど、熱狂的な信者達による暴走に加え、トーガとの関係悪化による全面戦争を回避するため、ミスティナ教を完全に禁止することはしなかった。
とはいえ、何度も同じ手の戦略が各国に通用する訳はなく、トーガの勢いはやがて止まり、現在の領土で収まったそうだ。
近年では、ミスティナ教の教えにある『人は人を奴隷としてはならない』という文言を『この一文にある奴隷とは人族のことであり、他部族は含まれない』と都合良く解釈。
トーガはバルストと連携して奴隷売買を率先して行っており、各国が問題視しているのが現状だ。
でも、ミスティナ教の教え自体はそんなに悪いものじゃない。
『隣人を大切にしましょう』
『人は、人を奴隷としてはならない』
『人から愛されたいなら、まず人を愛しましょう』
『命は誰しも生まれ持って一つであり、死は誰にでも必ず訪れます。つまり、命の価値に人の生まれは関係なく、誰もが平等であることを人は生まれると同時に証明しているのです。しかし、誰もが大きくなるとそのことを忘れてしまう』
『人の幸せを一緒に喜び、人の不幸は一緒に悲しみましょう。それが人にとって一番大切な心です』
『成し遂げると、まず決意するのです。方法は後から見つけましょう』
などなど、人が人として生きていくために必要な『道徳』を学ぶための教えみたいだった。
特に『誰もが平等』という文言は、厳しい生活を強いられている人達の心にはきっと深く刺さったと思う。
そして、教え以外に面白い部分もある。
ミスティナ・マーテルがただの少女から聖女となり、女神となるまでの冒険譚だ。
『聖女ミスティナが天翔る竜の上から荒れ果てた地上を見て涙を流すと、それが大粒の雨となって地上に降り注ぐ。やがて雨は大洪水となり、地上を洗い流した』
『聖女ミスティナの怒りを買った数々の国は、たちまち天翔る竜の息吹よって滅ぼされた』
という具合で、ミスティナ教の教典の中には勧善懲悪のおとぎ話が沢山ある。
大人だけでなく、子供も楽しめるように。
親から子へ語り継がせやすい工夫なのかもしれないけど、もし今より娯楽のない昔の世界であれば、人気になったのも頷ける。
前世の記憶にある世界各地で広まっていた様々な宗教も、確か似たような感じだった気がするなぁ。
ふとそう思った時、振動を体が感じて頭の中がぐわんと揺れた。
目の前の文字がぐにゃりと歪み、吐き気がお腹から湧き上がってくる。
「うっ……」
えずいて俯くと、目の前に座るディアナが心配そうにハンカチを差し出してくれた。
「リッド様、大丈夫ですか」
「う、うん。ありがとう」
受け取ったハンカチで口元を押さえると、彼女は呆れ顔を浮かべた。
「乗り物に酔いやすいというのに、車内で本を読むのはやはりどうかと存じます」
「あはは……」
僕が今居る場所は、木炭車に連結された『被けん引自動車』の車内。
もう少し分かりやすく言えば、前世の記憶で言うトレーラーハウスの中だ。
通常の荷台と違うところは、ゆとり有る車内にはベッドやソファーが備えつけられている点だろう。
僕自身は木炭車の車内で良かったんだけどね。
今後、貴族向けに販売する木炭車の付属品としてこの『高級被けん引自動車』を試作。
今回、僕がバルディアから狐人族の領地に長距離移動するのに合わせて試験運用をしているわけだ。
そう、いま僕達が向かっているのは、新たな部族長となったアモンが狐人族再建を掲げて奮闘している首都フォルネウである。
バルディアを出発したのはつい先日。
昨日は狭間砦で一夜を明かし、いまは狐人族の領内に入っている。
なお、バルディアを出発する前日に誕生日を迎え、僕は九歳となった。
「そうだね。少しは強くなったと思ったんだけど駄目だったみたい」
頬を掻きながら僕が頷き、彼女がやれやれと首を横に振ったその時、がくんと車内が揺れた。
ディアナはそれとなく車窓の外を眺め、異常が起きていないことを確認すると息を吐いた。
「しかし、狐人族の道路の揺れは酷いですね。あまり酔ったことのない私でも、少し気分が悪くなりそうです」
「確かに、狐人族の領内に入ってからは振動がかなり強くなったね」
バルディア家の屋敷から狭間砦までの道のりは、第二騎士団によって整備されているから揺れを感じることは、ほとんどない。
加えて何度も乗っているおかげか、流石の僕も少し酔いづらくなっていたらしく、狭間砦までの道のりで酷い酔いに襲われることはなかった。
だから、大丈夫かなと思って車内でミスティナ教の教典に目を通していたわけだ。
ちなみ、『ミスティナ教の内容に興味あるので、教典がほしいです』とお願いした時、父上の訝しむ視線と顰め面は凄かった。
あくまで見聞を広めて知識を得るため、と散々説明してようやくこの教典をもらえたけど、『これを読む時は、必ず私やディアナを始め、誰かしら信用できる大人の前で読むと約束しろ。絶対に入信は認めんぞ』と父上からかなり強めの釘を刺されている。
それだけ危険思考を説いているのかと思ったんだけど、案外そうでもない。
まぁ、国境を任されている辺境伯の嫡子が、他国の侵攻戦略に使われたという背景を持つ宗教に興味があるといえば心配するのは当然だろう。
教典を手に取って表紙を眺めていると、ディアナが眉間に皺を寄せた。




