母上
「リッド様、朝ですよ。起きてください」
「……おはよう」
「ん? どうかされましたか?」
ダナエがきょとんとしてベッドで寝ている僕の顔を覗いている。
メイドによって朝に起こされた事実に呆気に取られてしまったのだ。
見惚れていた、とはさすがに言えない。
僕が目を剃らすと、彼女は小首を傾げてしまった。
起き上がると『服を着替えるのを手伝います』と言われたが、さすがに恥ずかしくて断った。
でも、見たこともない服の着方がいまいちわからなくて上手くいかない。
「……ダナエ、ごめん。やっぱり、手伝ってくれないかな」
「もちろんでございます。背伸びしなくても大丈夫ですよ」
顔を真っ赤にしながら着替えを手伝ってもらったけど、前世の記憶が蘇った僕は羞恥心でちょっと泣きそうだった……何とか堪えたけど。
着替えが終わると朝食を取るべく食堂に移動した。
長机のような食卓の席に座ると、給仕とメイドによって食事が次々に運ばれてくる。
貴族の暮らしってすごいなぁ。
すぐ傍には執事のガルンが控えてくれているんだけど、周囲を見渡しても食堂に家族は見当たらない。
「そういえば、他の皆は?」
「ライナー様は帝都に出向かれておりますが、近日中にはお戻りになると思います」
そうか、父上は帝都に行っているのか。
僕ことリッドの父は、ライナー・バルディア辺境伯。隣国と接する領地を治めている領主だ。
そのため、時折帝都に行って行政に携わっている。
「母上は?」
「ナナリー様は、体調が優れず部屋で休んでおられます」
「なら、後で様子を見に行こうかな」
「それは……ナナリー様も喜ばれると思います」
ガルンと他愛ない会話をしながら朝食を無事に終えた。
テーブルマナーが大丈夫かな、と心配していたけど何とかなったらしい。
今後の計画を考えようと自分の部屋に戻ろうとするが、ふいに母上の体調がとても気になった。
「ねぇ、ダナエ。母上の部屋に案内してくれないかな」
「案内、ですか?」
彼女は首を傾げてしまうが、僕は決まり悪く頬を掻いた。
「いや、ほらその。一人で行くのがちょっと恥ずかしいというか」
「あ……ふふ、畏まりました」
ダナエは察してくれた様子で笑みを少し噴き出すと、部屋まで案内をしてくれた。
ちなみに、僕の母ことナナリー・バルディアはゲームに名前も出てこない。
はてさて、どんな人物なんだろう。
まだ見ぬ母の姿に想いを馳せながら歩いていると、不思議なもので期待と不安が渦巻いて胸の鼓動が高まり始めた。
「こちらです」
「うん、ありがとう」
部屋に続く扉の前に立つと、僕は途端に不安と緊張に襲われて息を呑んだ。
決して入ってはいけない……まるで体と心が拒否しているようだ。
「リッド様、体調がまだ優れないのではありませんか? あまり顔色がよくありません」
強ばっていると、ダナエが心配そうに声をかけてくれた。
「あ、いや、大丈夫だよ。母上に久しぶりに会うみたいでさ。何だか緊張しちゃってね」
「……リッド様、本当に体調は大丈夫でしょうか?」
ダナエは怪訝な表情を浮かべると、迷うような素振りを見せてから切り出した。
「その、ナナリー様が体調を崩されてから少しすると、リッド様はお会いになるのを避けておられました。以前は毎日のように会いたいと仰っていたのに、最近ではナナリー様の部屋にはまったくと言ってよいほど訪れていなかったと存じます」
「え……? そう…だっけ?」
「はい。屋敷の者、皆でその様子に心を痛めておりましたので……」
「……そっか」
ダナエは悲しそうな表情になっていた。
僕は、どうして母上に会うことを、訪れることをやめたのだろうか?
理由を思い出そうとすると、僕の記憶がとても怯えているのを感じた。
今は思い出すことは後回しだ。ともかく母上にまず会おう。
僕は深呼吸すると、期待と不安でいっぱいの気持ちを抑えながら扉を丁寧に叩いた。
「母上、リッドです。入ってもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
少し間があって、部屋の中から小さい声で返事がくる。
意を決して部屋に入ると、赤い長髪と紫の瞳をした細身の女性がベッドで上半身だけ起こして本を読んでいた。
「……⁉」
彼女の姿を見た瞬間、胸の鼓動が強く鳴り響いて全身に衝撃が駆け巡った。
『甘えたい、大好き、愛おしい、守りたい、ずっと一緒にいてほしい、なんで? どうして? 悔しい、悲しい、許せない、誰が? 僕が? 消えないで、お願い……』
様々な感情が走馬灯のように僕の心に流れ込んでくる。
言葉では言い表せない複雑な感情と沢山の思いに襲われ、僕は処理できなくて呆然とその場で立ち尽くしてしまう。
そして、なぜか目頭が熱くなっていく。
涙が頬を伝う感覚にハッとした僕は、慌てて服の袖で涙を拭った。
「リッド、大丈夫なの⁉」
母上は驚愕した様子で叫び、僕に少しでも近づこうとベッドから身を出そうとするが激しく咳き込み、その場に手をついた。
「母上、大丈夫ですか⁉」
僕は急いで駆け寄ると、母上の背中をさすった。
近くで見ると母上の生気が薄く感じられ、背中をさする手に自然と力が入っていく。
「……リッド、ありがとう」
にこりと目を細めた母上は、僕を胸の中に優しく抱きしめた。
「え、えっと、母上?」
「ガルンからあなたが庭で倒れたと聞きました。私も部屋に行こうとしたのだけれど、体が言うことを聞かずにごめんなさい。本当に大丈夫ですか?」
母上の腕の中は慈愛に満ちていて、僕の中で渦巻いていた様々な感情が落ち着いていくのを感じる。
でも、その声はとても震えていた。
「……はい、もう大丈夫です。母上の様子が気になりましたので、お顔を見られて良かったです」
震える声を静められるよう、僕は笑顔で答えた。
「そう、なら良かったわ。あなた達につらい思いをさせて、ごめんなさいね」
「大丈夫です。私は辺境伯である父と母上の子供ですから」
少しでも安心させようと母上の手を両手で力強く握って返事をすると、母上は嬉しそうに微笑んだ。
それから暫く母上を元気づけるべく談笑していると、あっという間に時間が過ぎてしまう。
「そろそろ今日はお暇します。また来ますね」
「えぇ、いつでもいらっしゃい」
退室する時、母上の顔色が少し良くなっていた気がした。
自室に向かって廊下を歩いていると、母上を見た時に流れ込んできた感情が脳裏をよぎって足が止まった。
「あの感情はリッドの、僕の中に眠っていた感情だったのかな……」
大好きな母上が少しずつ弱っていくのに、誰も何もできない。
一番近いところにいた僕は、どんな思いで母上の傍にいたのだろうか。
母上は慈愛にあふれ、病の辛い姿も見せず、僕を心配して大切に愛してくれる存在だった。
きっと泣き叫びたくなるほど、心が切り裂かれるほど辛かったと思う。
そして、僕はその思いを誰にも言えず、ずっと抱え込んでいたような気がする。
「……悪役になんてならない。僕は真っ当に生きて母上を必ず救ってみせる」
僕は誓いのように呟くと、決意を新たに歩き出した。
◇
自室に戻ってくると、僕はこれからすべきことを書き出すことにした。
幸いにもこの世界には紙があるようで、机の上には用紙とインクが置いてあったのだ。
追放、断罪を防ぐ今後の方針。
①・ゲームの登場人物と仲良くなって断罪、死亡、追放巻き込まれルートを回避。
②・①が不可の場合に備えて一人でも生きていける力を磨く。
③・①が不可の場合に備えて、お金を貯める。(稼ぐ)
④・母上ナナリーの治療。
「……よし、こんなものかな」
日本語で『①~④』まで書いてみたけど、僕は深いため息をついた。
「書き出しておいてなんだけど、①が早々に無理だなぁ」
そうなのだ、ゲームにおける登場人物達の所在地は帝都や他国。
辺境にいる僕が、人脈も何もない今の状態で彼らと接点を作ることはまず不可能。
さすが、ゲーム本編にほとんど関わらない悪役モブことリッドだ。
ちょっと泣きそうだけど、こんなことではへこたれていられない。
僕は真っ当に生きると誓ったのだ。
「とりあえず、優先順位は④が最優先。次いで③と②かな。それから、今すぐにしないといけないことがある」
今後の方針を決めると、僕は『至急の要件がある』と伝えてガルンを呼んだ。
母上の病名を尋ねるとガルンは渋い表情を浮かべて「お伝えできることはありません」と部屋を去ろうとする。
でも、僕は扉の前で仁王立ちして行く手を阻むと、彼の目を見据えて凄んだ。
「教えてくれるまで、この部屋から絶対に出さないからね。僕は本気だよ、絶対に諦めない」
「リッド様……」
僕の思いを汲んでくれたのか、彼は母上の病名が『魔力枯渇症』であることに加えて症状も丁寧に教えてくれた。
この世界の住人は皆少なからず魔力を持っている。
そして、魔力とは生命エネルギーでもあるそうだ。
本来であれば魔力は自然回復していくものだけど、『魔力枯渇症』を発症すると自然回復力が極端に落ちてしまうそうだ。
結果、徐々に体が衰弱して、やがて死に至ってしまう。
今のところ、治療方法が確立されていないと苦々しげに教えてくれた。
「……以上です」
「魔力枯渇症、か。教えてくれてありがとう」
お礼を告げると、ガルンは真顔で「実は……」と続けた。
「ナナリー様の病名をリッド様にお伝えするつもりはありませんでした」
「え、なら、どうして教えてくれたの?」
「リッド様があまりにも必死な形相をしておりましたし、何より……」
「何より……?」
首を傾げて聞き返すと、彼は僕の顔をじっと見つめた。
「何よりも決意に満ちた目をしておりましたので。この件は二人だけの秘密でお願いいたします」
「……⁉ うん、わかった」
僕が笑みを浮かべて頷くと、ガルンは目を細めて会釈する。
こうして母上の病名を知れたけど、僕はこの病名と症状に聞き覚えがあった。
前世の記憶にあるゲームで『魔力枯渇』という状態異常【デバフ】が存在していたのだ。
状態異常による『魔力枯渇』は少しずつMPが減っていき0になると、次はHPが減り始める。
当然、そのまま放置すればHPが0になり戦闘不能になってしまう。
ゲームではHPとMPも回復方法があるのでそこまで脅威には感じなかったけど、現実の病気となるとこれほど恐ろしいものはない。
自然治癒が一切できない死病みたいなものだ。
「……ところで、すぐに調べ物をしたいんだけど図書室とかあったかな?」
「畏まりました。ご案内いたします」
ガルンはそう言うと、屋敷の中にある大きな書斎に案内された。
「調べ物はこちらをご利用ください。もし、他に必要な資料がありましたら取り寄せも可能です。ただ、取り寄せには数日かかりますのでご注意ください」
「わかった。ありがとう」
謝意を伝えると、ガルンは一礼して退室する。
書斎を見渡すと、置いてある本は結構な数だった。
そういえば、僕ってそもそも本を読めるのかな?
疑問が今さらながら脳裏に浮かび、恐る恐る近場の本を開くと……読めた。
普通に読めたよ。
転生ボーナスありがとう。
「さぁ、気合を入れて手掛かりを探すぞ」
自らを鼓舞するように力強く声に出すと、僕は顔の両頬をパチンと叩いて書斎中の本を読み漁り始めた。
最初は読むのに少し時間がかかったけど、いろんな種類の本を読んでいるうちに読める速度がどんどん上がっていく。
おまけに一回読めば、本の内容を丸暗記できてしまうことに途中から気が付いた。
「リッド、君はこんなに超ハイスペックなのに、なんで悪役令嬢の取り巻きになったのかな……」
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