第91話 別れ
バティストが自身に向けられたその殺意を感知して身構えたその瞬間。
彼女の目の前には自身の胸から手を生やした、鮮血で濡れたエストールの手刀を生やしたシドの顔があった。
「あ……あ……あ…………」
現実を認めたくないという思い、その光景が衝撃的すぎて受け止めきれないという思い。
そういった思いが言葉にならない喘ぎとしてバティストの口から漏れ出た。
シドの胸を貫いたその手刀が勢い良く指し抜かれるとシドはその場に膝をつく。
地面には手刀から飛び散った鮮血が点線となり、シドの周りに半円を作っている。
「最後は自ら死にに来るとはなあ! よっぽどその小娘が大切だと見える。だが無駄な事だぞ、シド。そいつもすぐにお前の元に送ってやるんだからなあ。ふふふふふ、あはははははは……」
エストールは苦しそうに何かを我慢して、少しの間、プルプルと自身の腹を抱えて震えたかと思うと自らの奥底から湧き上がってきているのであろう、その愉悦が爆発した。
「ヒャアアアアアアッハハハハハハハッーーーアアアッ!」
その笑い声はこの世のすべての邪悪が込められているかのような響きをもってその無限とも思えるようなその空間に木霊した。
バティストはそんな笑い声を上げているエストールに対してまるで宇宙人を見るかのような、心底理解できない生物だといった目線を送る。
何が面白いのだろうか?
シドとは曲がりなりにも時を共にしてきた中なのだろう?
彼が歪んでいる事は分かるがその歪みが強すぎて最早バティストではその真意を測る事はできなかった。
だが、こんなクズ野郎の事はどうでもいいのだ。
今、大事なのは――
「なんで言ってくれなかったの? 一緒に戦ったのに……」
「二人仲良く早々にくたばってもしょうが無いだろ。…………全く、泣くんじゃないよ」
一人で戦っていたのか。
決して勝利する事はできないその戦いを。
自ら咎を負い、悪者になる事によって私の事を守ってくれていたなんて……。
バティストの頬には大粒の涙が次々と流れ落ちる。
「いやだ! 死なないで! もっと一緒にいて!」
「やれやれ、最後の最後に駄々をこねるのかい。しょうが無いねえ。立派にレジスタントやってたじゃないか、あんたは私の誇りだよ」
シドは愛おしそうにバティストのその紫の短髪の頭を優しく撫でる。
この仕草は幼いバティストが駄々をこねた時に、甘えた時にシドがよくしてくれた仕草だった。
当時の温かい思い出が胸を過る。
それによって益々、別れが、別離が、天国への旅立ちを見守る事がつらくなる。
「ごめんなさい、酷いこといっで。ずっとありがどう。いままでぞだででぐれで。ありがどう、ありがどう……」
「バティスト、女は度胸だよ。胸を張って堂々と生きな。あんたは私の娘なんだからね」
シドの命の灯火が風前のものになっている事をバティストは知覚した。
あれほど力強かった生命の兆しが驚くほど弱くなっている。
強かったシド。彼女が弱音を吐いた所はほとんど見たことがない。
だが……バティストからしたらシドには弱音を吐いて欲しかった。
自分を頼って欲しかった。
孤児になった所を、自死を選ぼうとした自分を拾ってくれて……。
返しきれない恩を少しでも返したかったから。
このまま天国へと昇天してしまったら彼女から受けた恩を何も返す事ができない!
「いやだぁ、いがないで。まだ、なにもがえぜでないぃいいッ!!」
「……あんたがそう思ってるだけで…………いっぱい返してもらってるよ…………どれだけ……あんたの存在に救われたか…………」
シドのその目の光、手の力、全身を支える力、いずれもどんどん弱くなっていっている。
いよいよ別れのその瞬間が近づいている事を肌感覚としてバティストは知覚する。
シドのその一挙一投足に集中する。何か言い残した事はないか?
彼女に伝えるべき事は? 懺悔すべき事は?
このままを別れを迎えて良いのか?
問いは次々と頭に想起されるが焦りと悲しみの感情が先立ち、かけるべき言葉が見つからない。
「ああ…………いい人生だった………………願わくばこの娘に……幸……あらんことを……」
その言葉を最後にシドはその瞳を閉じた。
するとその途端にズッシリとバティストの腕にシドの体の重みが増したようにのしかかる。
まるで魂が抜けた事によって、その軽やかさを失ったかのように。
「…………シド? ……シド? …………シドーーーーーーッ!!」
バティストの悲痛なその魂の叫びは虚しくも、周囲に無限に広がるその空間に吸収されていく。
死と無音とがその空間を支配し、しばらくの時が経過した後――
パチパチパチパチ
シドとバティストの様子を無表情に眺めながら、拍手をするエストールの姿。
「おめでとう! シドはここに長年の生の苦しみから解放された!」
芝居じみた様子で両手を掲げ、天を仰ぎながら台本のセリフを読み上げるかの如くそのセリフを吐き出す。
そして――仰ぎ見ていた天から視線をバティストに移すと――その顔面には隠しきれない愉悦がにじみ出ていた。
「残念でならない、かのような偉大でかつ、善良なる友人をこの手で殺めてしまった事を!」
「……黙れ」
心にもない事をベラベラと。
「ん? どうした? 何か怒っているのか? なんならお前も奴の元に送ってやろうか?」
エストールにとってはすべてが遊びで、今、自身にしているこの煽りもまた、一つの遊びに過ぎないのだ、という事は彼女、バティスト自身もよく分かっていた。
そして戦えば勝てない事も。1%の勝ち目もない事も。
まぐれすら起こる余地がない程の実力差である事も分かっていた。
だが……いや、だからこそなのかもしれない。
彼女は戦う事を決心する。戦って……死ぬ事を。
「やってやるッ!!」
バティストは腰からレーザーソードを抜きさり、それをもってエストールに斬りかかる。
斬れた! と思った時にはそれは残像で――という現象が、何度も何度も、何度も再現する。
完全に遊ばれているのが分かった。
やろうと思えばシドのようにすぐにでも息の根を止められるだろう。
心をへし折りたいのだろう。
諦念を抱かせたいのだろう。
からかいたいのだろう。
煽りたいのだろう。
こちらが怒りを感じれば、それに対して愉悦を感じるような歪んだ奴だ。
グシャァっという自分の鼻が潰れる音を聞く。
その攻撃はあまりにも疾すぎて完全にバティストの意識、知覚の範囲外からの攻撃であった。
「まだ、ランスが来るまで時間があるだろう。それまでは遊んでやる。さあ、命乞いしてもいいぞ? ほら、俺の足を舐めろ。頭を垂れ、懇願しろ」
バティストは潰された鼻から吹き出す鼻血を手で拭う。
拭った手の甲は鮮血で真っ赤に染まっていた。
血を目撃する事によって供給されていたアドレナリンが減少して戦意が挫かれる事は多いが――最早、死を覚悟している彼女には――それはその決心と覚悟とが揺らぐ要素とはなりえなかった。
「誰がぁッ!!」
唸りを上げながらまたエストールに向っていく。
彼女またエストールの残像を斬りつけ、次は脇腹をへし折られ。
苦痛に顔を歪めながら左手で斬りつけると、今度はその左腕を粉砕され。
余りの痛みに身動きが取れないでいると右足に強烈な蹴りを食らい、最後には生まれたての仔馬のように立っているのもつらい状態となった。
そこにダメ押しのように顔面を殴打され、意識が飛びそうになる。
だが彼女の瞳の奥底で燃え上がる炎は、戦う意思は1ミリも揺らいではいない。
「ほら、強情をはらず。ほらッ! ほらッ! 俺の足を舐めるだけでその苦痛から、死の恐怖から解放されるんだぞ!」
「ゔぅうう……………誰が…………絶対に…………」
すでに意識が朦朧となりながら、レーザーソードも落としてしまったその右腕からフラフラのパンチを繰り出す。
そのパンチはまるで子供同士の喧嘩で繰り出されるかのようなパンチだった。
「うひひひひひ、見たか!? ヒルデガルド、今の攻撃を! ひひひ、それではゴブリンですら倒せんぞ小娘! あああ、殺したいいいいッ!!! だけど我慢だあああ!!! お前はランスの目の前で殺してやるぅううう!!!」
耳障りなエストールのその笑い声と宣言とを耳にしながら、霞む視界の先で漆黒の次元口が開く様を目撃する。
その次元口からランスが出てくるのを確認する。
次元口はまるで何も最初から何もなかったかのように虚空へと消えさった。
ランスのその姿を知覚した瞬間にバティストの中で張り詰めていたものが一気に緩み、意識が飛びそうになって倒れそうになった所で――
瞬時に自分の所まで移動してきたランスによってその体を支えられる。
ああ、涙が……ランスへの安心と親愛の甘えなのだろうか、またはそれを心の奥底で求めていたのだろうか、その瞳からまた溢れ出す。
「大丈夫か?」
ランスのその言葉にバティストは首を横に振り、シドの亡骸へとその視線を向け――
「…………ランス…………助けて…………」
「…………」
涙が溢れ出る瞳から真っ直ぐな視線をランスの視線と同期させる。
自身ができなかった事。ランスだったらできるかもしれない事。
一度限りで身体を重ねた関係、それが何かしらの影響を及ぼしたかどうかは分からない。
しかし通じ合う何かを……バティストだけかもしれないが、その何かをランスに感じているからこその期待。
ランスはそんなバティストを抱きかかえて後方へ歩みを進めるとそこに優しく下ろす。
そして、エストールの方へ向き合い、バティストに背を向けると――
「当たり前だッ!!」
怒りと気合いと強い意思とを込めた咆哮をエストールの縄張りのその無限空間に向けて放った。




