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第82話 過去の記憶

「久しぶりねえ、ソーニャ」


 日用品を買いに一人で市場に出かけた帰り道。

 大通りから少し離れた人通りの少ない、人目がつかないようなその場所で見覚えはのないその少女は声をかけてきた。

 黒と赤で構成されたドレスを着込んでおり、その格好と佇まいからおそらく高貴な者の出だと思われた。

 しかし、自分にこんな貴族の知り合いなど存在しない。


「あの…………お嬢ちゃん、誰かと間違えていない?」

「…………お嬢ちゃんだと……誰に向かって言ってる、ソーニャ?」


 その少女は一瞬にして雰囲気が変わり、まるで辺りの空気が震えるかのような重低音の声色を放ってきた。

 辺りの空気は一瞬にして凍りつき、少女からは返答を間違えたら自身の命が危ういのではないか、とさえ思うようなプレッシャーをヒシヒシと感じる。

 この少女――見覚えはないが、どこかしら懐かしさを感じる事も確か。

 ソーニャは必死に自身の記憶の糸をたぐっていった。


 ランスの仲間になって……その前は神聖教徒教会に入って聖女になって……その前はアサシン教団に所属していて……その前は……その前は?…………あれ私はどこで生まれて、どんな両親の育てられて……痛っ!!

 ソーニャは突然襲ってきた激しい頭痛によって地面に座り込む。


 しばらくその痛みにあえいでいると、膝を曲げて屈んだ姿勢となったその少女の目と合う。

 少女のその目はまるで深淵を感じさせるような底しれぬ薄暗さと感情の喪失、そしてそれに対する恐怖心とをソーニャに想起させた。


「なんだ、お前、記憶をなくしているのか? ヒルデガルド様だよ、お前のご主人様の。それすら覚えていないのか?」

「…………ヒルデガルド……様…………ご主人様……? 痛っ!!」


 思い出そうとすると激しい頭痛がまたソーニャを襲ってくる。


「ちっ、面倒だな…………ライカンスロープに戻すか? でも一気に戻したら壊れるかも……まあ、いっか! 私の事まで忘れてしまった不良品だし」


 少女ことヒルデガルドが一体何の事を言っているのかが、ソーニャには分からない。

 ライカンスロープ? 戻す? 不良品?

 混乱するソーニャの目の前でヒルデガルドはその手を前にかざしてきた。


 ……攻撃魔法?

 そう察知したソーニャは腰元に隠している短剣を瞬時に抜き去り、それを構える。


『フォースドリリース/強制解除』


 ヒルデガルドから魔法が発せられてソーニャが光に包まれる。

 ……ダメージは何も感じない。攻撃魔法ではない? では状態異常魔法か?

 その時、ソーニャは自身に関して違和感を感じる。

 何気なくその手を見てみる。するとそこにあったのは白銀の体毛に覆われた獣の腕であった。

 え!? なにこれ!? なにが起こっている!? 顔も変わっている?


「ほれ」っとヒルデガルドは小さな手鏡を出してきた。

 そしてそこに写っていた自身であろう、その獣の姿に驚愕する。

 そこに写っていたいたのは正にライカンスロープ。

 白銀の体毛をたなびかせて佇む魔物の姿だった。


「ひっ……あ…………」


 言葉にならない悲鳴を上げそうになり、しかし、一気に頭の中に濁流が流れてくるように、ソーニャは過去の記憶を垣間見る事になる。





 そこにはソーニャとヒルデガルドの姿があった。

 ソーニャは最初、自身の記憶をまるで記憶映画のように垣間見ている。


 ソーニャは人間の姿に变化済でメイドのような格好をしている。

 対するヒルデガルドは現在と同じような漆黒と真紅のドレスで着飾っていた。


「ヒルデガルド様、私に何か指令があると伝えられまして参上致しました」

「ふむ、ご苦労」


 自身の髪をクルクルと手遊びをしながら、辺りに広がる樹木の数々を眺めていたヒルデガルドは、それを止めてこちらに向き直る。

 季節は秋。場所は郊外の森の中。紅葉によって7色にも変化しているような木々の葉の数々が美しい。


「ソーニャよ、わしはお前の事を、長老種としてその長きに渡る生を生き抜き、そして、人間社会に対する知識や見識の多さなど、人間たちに溶け込むその術を高く評価しておる」

「勿体ないお言葉」

「決して怒らんから正直に申してみい、ソーニャよ。お前は、お前を長として構成されていたライカンスロープの長老種が集まるあの里を壊滅させたわしを、限られた優秀な力を持っていた者だけを自らの眷属としたわしの事を恨んでいるか?」

「………………」


 おそらく私がどのように正直に答えた所でヒルデガルドはなんとも思わないだろう。

 それによって彼女の誇りが傷つけられるような事があれば別だが今回の事案によってそれが生じる事はない。

 自身の心に問いかける。ヒルデガルドを恨んでいるか?

 否である。改めて考えるまでも無いような命題だった。


「正直に申し上げます。恨みに思うようなことはございません。こんな私でございますが、魔族のはしくれ。弱肉強食の理りだけが絶対正義の法である魔族の一端として、我々が弱く、ヒルデガルド様が強かった、ただ、それだけの事でございます」

「そうか…………」


 ヒルデガルドはそう頷くと何か思う所があるのか、また美しい紅葉に視線を戻し、しばらく何かを考えいているようだった。


「神聖教徒教会。お前ならあの教会の事は知っているな」

「はい、女神アテネを信仰しているあの教会の事でございますね。存じ上げております」

「邪神エストール様が仇敵であるアテネのお膝元に密使を送っておきたいというご要望だ」


 邪神エストール。

 吸血鬼の真祖であり、神クラスの力を有するヒルデガルドですら屈服させ、服従、信望させているお方。

 まだソーニャはエストールに拝謁の誉れは携わっておらずそのご尊顔などは拝見した事もなかった。

 ただ自らの主の主にあたるお方。エストール様の命に授かる事は魔族にして一つの誉れ。

 ソーニャにそれを断る理由はなかった。


「それでは私が神聖教徒教会に、アサシン教団に所属している事などは隠して潜入するという事でよろしいですか?」

「その通りだ、理解が早くて助かる」

「勿体ないお言葉。それではそちらの指令、拝命いたします」

「下級だが連絡用に吸血鬼を一人をつけるゆえ、後日接触させるな」

「かしこまりました」




 ソーニャはありありと過去のその様子を思い出す。

 そうだ、私はライカンスロープで長きの生に飽いていた所を真祖の襲撃に会い――そして、その眷属となり、アサシン教団へと所属して任務をこなして――――そうだ、それで神聖教徒教会へと潜入していたのだ。

 一部では記憶改変すら起こっていた。

 私はアサシン教団での任務でしっかりと人間は殺害しているし、それ以外でも過去、数多くの戦闘でライカンスロープである自分を討伐してこようとした人間たちを殺戮して生き抜いてきたのだ。


 世界が暗黒世界へと変わった際、なぜか調子がよくなり、身体能力も向上したように感じた事。

 それに地下世界に来た時、初めてであるはずなのにその景色を見た時に感じた強烈な既視感。

 そういった自身の中で疑問に思っていた事がすべて合点がいった。


 ――そう、私は……魔族だったのだ。


 その事実とそしてそれに符合するようにランスの顔が頭に浮かぶ。

 もし男にうつつを抜かしているという事がヒルデガルドに知られたら彼女は怒るだろうか?

 ……別に怒る事はないだろうが、人間側につくことを危険視して私の事を処分しようとするかもしれない。

 彼女にはランスとの仲は秘密にしておいた方がいいだろう。


 じゃあランス。彼にこの事を知られたらどうなるだろうか。

 他にもミミにエヴァ。彼女たちにも知られたらどうなるか?


 今まで魔族としての記憶を失い、人間として生き、人間として信頼や親愛を獲得し、人間として愛し愛されてきた。

 もしかしたらこれを全て失うのか? ランスを失うのか? 

 嫌だ、そんなのは嫌だ!!


「記憶が戻ったか?」


 混乱し、狼狽しているソーニャのその様から感じ取ってヒルデガルドは尋ねる。


「…………はい、大変失礼致しました。我が主、ヒルデガルド様」


 ソーニャは片膝をつき、頭を垂れて服従の姿勢を示す。

 逃げる事も一瞬頭をよぎったがその場合は真祖にすぐに捕まり、ひき肉にされて瞬殺される未来しかなかった。


「よし、それでは新たな指令を与える。お前はそのままランスたちのグループに潜伏してろ。そして、私がこうして左手を掲げて……」


 ヒルデガルドはその左手で拳を作る。


「ぐーを作ったら奴らを裏切れ。その短剣でランスの心臓を後方から貫け」


 ソーニャからはどっと嫌な汗が噴出して心拍数も上昇する。

 よりによってランスを暗殺しろと? しかし……もし、断ればこの場で抹殺されるだろう。

 だがしかし…………ソーニャは逡巡するが……。


「かしこまりました。それではその時になりましたら、合図をよろしくお願いいたします」

「よし、それじゃあ元の人間の姿に戻っておけ。今後は特に必要がなければこちらからは接触はしないし、面倒だから私本人が連絡で赴く事もたぶんない」

「今回の記憶喪失という失態、真に申し訳ございませんでした」

「まあいい、結果オーライだ。たまたまではあるが仇敵のグループへと潜伏できたわけだからな。それじゃあよろしく頼むぞ」


 ソーニャはヒルデガルドが姿が見えなくなるまで、頭を垂れたままの姿勢を保つ。


『ヒューマンチェインジ/人間変化』


 元の……というか人間へ变化していた頃のソーニャの姿へと戻る。

 どうしよう……。逆らえば殺される。でも…………ランスを暗殺して、今更みんなを裏切るなどと……。

 青い顔をしたソーニャは一人、残されたその場所で呆然と佇む。


 もしソーニャがライカンスロープだった時の記憶を保持したままで、その時にランスたちと出会っていたとしたら……。

 意味のない過程であるが、こんなに思い悩む事もなく、躊躇をする事もなくランスたちを殺れている可能性が高い。

 人間として生きたからこそ、ランスたちと心が通じ合う瞬間を何度も経験したからこそ――これはきっと魔族のままであったら経験ができないものでかけがえのないものなんだろうと思う。


 できない…………ならば、その先に自分に待っているのは制裁による[死]あるのみである。

 このまま行けばランスたちとヒルデガルド、アサシン教団の一派がぶつかることは必死。

 進めば地獄、進まなくても地獄、どちらにしても待っているのは地獄だ。

 全てを投げ出して逃げ出すか――という案が頭に浮かぶが、魔の世界は以外と狭い。

 辺境で世捨て人のように隠れ住んだとしてもいつの日か真祖の捜索網には引っかかってしまうだろう。

 それに不安を背にビクビクと臆病者のように生き永らえるなど真っ平ごめんだ。

 そう、私は人間、聖女ソーニャであると同時にライカンスロープ最強種の長老種の元長、誇り高き孤狼でもあるのだ。


 ならば、どうするのだ…………。


 ソーニャは天を仰ぎながら、まだ見ぬ神へと問いかけるように、答えが見つからないその問いを堂々巡りのように延々と行い続けていた。

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