第75話 地下ツアー
「あら、ありがとう」
地下ツアーの添乗員のエドガーが差し伸べた手を取り、女は馬車の2段程の小階段を踏み降りる。
漆黒に黒光りし、きらびやかな装飾が施され、独特の紋章が入った馬車は一目で高位の貴族の乗り物であると知れる。
ツアー客は主の少女と執事、後は女の従者2名の総勢4名であった。
「ご覧下さい。あちらに見えますのが地下都市の中のパイプゾーンとなります」
「おおーー」
感嘆の声が上がったツアー客達の視線の先には、巨人の腸のように複雑に絡み合った巨大なパイプ郡が広がっていた。
地下都市の中でも工業地帯のそれぞれの工場が地下水を奪い合うようにパイプを引いた為に構成された光景であった。
大小様々な太さのパイプが縦横無尽にそれぞれがそれぞれを避け合うようにさまざまな曲線を描きながらひかれている。
無機物であるがその様子から不思議と有機物であるかのような不気味さをパイプ郡はその様から自然と演出している。
「あのパイプの辺りには人は住んでいらっしゃらないのね」
4名からなるツアー客の一団で一番の年下、おそらく12、3才で、かつ、一団の中で最も地位の高い少女。
その口元には漆黒の扇子が閉じられた状態で添えられていた。
赤と黒を基調としたドレスを身に纏い、つばの広い円形の黒い帽子に造花の真っ赤なバラが添えられている。
真っ白い肌に真紅の口紅が映えているがまだ顔立ちは少女そのもの。
可愛らしい顔立ちをしており、将来は美人になるだろうと思われた。
少女の後方ではまるで馬の尻尾のようにその美しい黒髪が後ろで束ねられた状態で腰まで伸びていた。
「はい、パイプには熱湯が流れる事もありますのでその周辺には人は居住する事はできません」
「あら、地下民でも住めない所があるのね。意外ねえ」
「…………」
地下民という言葉には蔑称の意味も隠されている。
熱湯が流れる事もあると言っているのに……少女からしたら地下世界の人々はゴキブリか何かと同等程度のものなのだろうか。
「にしても魔導技術でしたっけ? それは大した物よねえ。それは上にもって帰れないのランドルフ?」
「はい、我々であっても持ち帰る事はできません、お嬢様。地下との協定で決まっている事でございますので。教皇様にも禁止されております」
ランドルフと呼ばれた黒いタキシードを着用した執事。
まだ20代くらいだろうか。長髪をオールバックにして後ろに留めていた。
左手を自身の腹部に右手を後ろの腰の辺りに添えている。
精悍な顔立ちをしてはいるが、感情の起伏が少なくその表情が崩れる事は少ない。
「地下のあの灯りを灯している魔灯球というのは大したものでございますね、お嬢様。あれがあれば油など無くても灯りを灯せますのに」
「そうねえ、まあ協定なんかはどうにでもなるでしょうけど。教皇様が禁じてらっしゃるのは破る訳にはいきませんわね」
少女の両隣には身の回りの世話を行う従者であろう、二人の美しい女性が脇を固めている。
二人とも従者には珍しく、真っ黒の衣服に身を包んでおり、それと対比するような透き通るような白い肌をしている。
歳の頃は20代前半だろうか。まさに女盛りの年代だ。
熟れた肢体を上等な絹で出来た衣服でぴっちりと包まれており、その美しいボディーラインを鑑賞する事ができた。
「じゃあ、次の場所に行きましょうか。次は、ゴミ山でしたっけ?」
「はい、チャイルドスラムの一角にあるゴミ山になります。少し、匂いがあるかもしれませんので悪しからず」
「強いの、その匂いは?」
「当日、地上から投棄されるゴミによりますので今の時点ではなんとも」
「ふーん、まあとりあえず行ってみましょうか」
「かしこまりました」
地下ツアー客の主が少女なのは両親が直前になって急用ができてこれなくなった為らしい。
地下ツアーは教会から一部の貴族に対してのみ許可されるようになっており、金持ちの貴族たちが持て余した時間を費やす道楽として人気を博していた。
ツアーは地上の貴族からみたらゴミ虫のように汚い身なりで地を這いつくばって生きる地下民の鑑賞と、独自な都市を形成している地下都市の景観を楽しむのが主な趣旨となっている。
地下民のエドガーにとってはツアーに来る客など全くもって気に食わない連中ばかりで、仕事の度にフラストレーションが溜まっていた。
「あちらがゴミ山となります」
馬車の扉が開かれ、階段を降りてきた瞬間に少女は眉間に皺を寄せてあからさまに嫌な顔をする。
彼女の瞳には積み上げられた巨大なゴミの山々とそれに群がる孤児たちの姿が写っている。
「まあ、なんて酷い匂いなんでしょう! 私、生まれてこの方、これ程酷い匂いを嗅いだ事は初めてですわ! ランドルフ、あなたなんて所に私を連れてくるの!」
少女は癇癪を起こして手に持っている扇で執事を叩く。
「申し訳ございません、お嬢様。エドガーさん、至急この場所から離れて、次のツアー先に向かって頂けますでしょうか?」
「本日の最終ポイントがこちらです。次はないので宿までの案内になりますが?」
「それでいい、一刻も早くこの場所から離れて! もう、服に匂いがついちゃうわ。うわ! 信じられない、あんなゴミの山にあんなにのたくさんの子供たちが。あれは人なの? 真っ黒じゃない、ああ嫌だ」
孤児の子供たちが生活の糧になるもの、売れそうなものを生きる為に必死になって探していた。
少女はそそくさと馬車の中に入っていく。
続けて従者たちも馬車の中に乗り込んだ。
その馬車の扉が閉められた後、エドガーはちっと聞こえないように舌打ちを一つして馬にムチを入れて馬車を発進させる。
この程度、地下都市では大した匂いではない。
ゴミ山近くという事を考慮するとマシな方くらいだ。
それを生まれてこの方、初めて嗅いだ程の悪臭とは。
それに孤児たちをあれが人なの、だと?
エドガーは胸のむかつきを抑えながら歯ぎしりをする。
いけ好かない階級意識を持った世間知らずのわがままな糞ガキめ。
ついつい馬を叩くムチが強くなってしまう。
が、考えを改め、怒りをしずめる。
まあいい、それだけの金額は事前に徴収しているのだ。
それに今日一杯の我慢だ。明日になれば……。
エドガーは口元に笑みを浮かべながら、馬車をスラムの小道から地下都市の大通りへと操っていった。
「計画では明日なのよねえ」
ランドルフに問いかけたのはヒルデガルト。
風呂に入った後に寝間着に着替え、従者の二人の女性に自らの髪をくしでとかせている。
「ああ、明日は奴らの縄張りがツアー先になってるからな。明日で正体を表すはずだぜ」
まだタキシード姿のままのランドルフが腕組みをしながら立って部屋の壁に身体を預けている。
「全くなんで私が人間なんかと組んで……ああ、一応元人間だったかしらね?」
「てめえも知ってやがるだろうが、俺が最近、進化の秘法を受けたのは」
「ええ、もちろん知ってるわよ。進化の秘法を受けてその程度ですもんね」
「…………」
嘲笑を浮かべながらヒルデガルドは馬鹿にしたように答えるがランドルフはそれに対して何も言わない。
なぜか? それは単純に勝てないからだ。
進化の秘法を受け、人間を辞めて凄まじい力を得た。
冒険者ランクならSランクなど有に超えるだろう。
魔族であれば魔王クラスを超えるような力を得たとの手応えもある程だ。
しかし、まだあどけない顔と背丈のこの少女の姿形をした、ヒルデガルド。
彼女のその力は到底及ばなかった。
「まあ、この娘たちになら勝てるでしょうけどね」
ヒルデガルドの従者としてついている女たち。
彼女たちも実は一人は上級吸血鬼。もう一人はライカンスロープが变化したものだった。
そしてヒルデガルド。
彼女は吸血鬼の王。それよりも更に上の存在。
数千年の時を生き、数多の文字通り数えられない程の鮮血を自らに取り込む事により、自らの眷属を増やし、そして自身の力を高めてきた存在。
伝説として伝えられ、上級吸血鬼であっても一部の最上位のものにしかその存在が知られていない者。
魔王よりも強力な力を有し、その力は最早神に近く、歴史の表舞台には現れた事がない存在。
吸血鬼の始まりなる真祖だった。
「よかったら私の眷属にして差し上げてもよろしくってよ? あなた、まだ、強くなれるわよ?」
「だが、お前よりは強くはなれねえんだろ?」
ヒルデガルドは微笑を持ってそれに応える。
「あなたが私と対等に振る舞えているのはひとえにエストール様の命があればこその事。という事を忘れないでね。あんまり勘違いした言動をするようだとひき肉にしちゃいたくなるからね」
「…………」
ニィっという擬音が聞こえるかのような邪悪な笑みをヒルデガルドは浮かべる。
「ヒルデガルド様」
「どうしたの、アリーゼ?」
正体はライカンスロープの女がヒルデガルドの髪をくしでときながら尋ねる。
「奴らの中の今日、馬車の運転手を務めていた男。明日、彼を私に譲って頂いてもよろしいでしょうか?」
「いいけど、どうして?」
「彼、私の事を好きにしたいらしくて。ああ、私たち二人をですね。その気持ちに応えてあげたいなと思いまして」
ライカンスロープの優れた聴力は人間などには聞き取れない離れた部屋にいる者たちの会話であったも聞き取る事ができた。
彼女の耳には奴らが明日をどう楽しむつもりかという会話が聞こえてきていた。
「そう、奴ら数はそれなりに多いらしいからいいわよ。ヘルガ、あなたも楽しむといいわ」
「ありがとうございます」
「明日は楽しみましょうね。久々の大規模な狩りだわ」
もし、第三者がその時のヒルデガルドの笑顔だけを見たら、それは微笑ましいものに写っただろう。
ヒルデガルドの笑顔はそんな純真な少女が浮かべるような太陽に照らされたかのような輝きをもった笑顔だった。
だからこそ。
彼女たちのその真意を理解しているランドルフにはその様子が末恐ろしいものに感じられたのだった。




