第62話 決意の逃亡
「大丈夫? ほら、お水持ってきたから飲んで」
ごくごく……
「うー、ごほごほ」
妹のマリンはエリーゼが与えた水を少しだけ口にするが、すぐに咳き込む。
無理が祟ったのかここ数日熱が出ており、どんどん衰弱してきていた。
村にいた時に比べるとその身体は痩せ細り、顔は青白い。
今いるのは光の教団本部近くの洞窟だ。
べットも布団も何もなく、着の身着のまま、寝る時は地面に寝るという生活が続いている。
原始時代でさえもう少しマシな住環境であったであろう。
周りには自分たちと同じように近隣の村々から拉致されてきた子供たちで一杯だ。
妹のマリンだけでなく、他にも調子が悪そうにしている子供はいるが、大人たちは何も処置をしてくれない。
「お母さん……お父さん……ぐす」
熱で朦朧とする意識の中、うわ言のように妹は呟く。
妹も両親が今はもういないという事は理解できているはずだが、その事実を受け止めきれないのだろう。
私だって寂しい。お父さんとお母さんに甘えたいし、あの陽だまりのような日々は忘れられない。
でも今、妹を守れるのはもう自分しかいないのだ。
その事実だけが今の生きる理由だし、自分を奮い立たせる理由でもある。
子どもたちの世話は教団の信徒の大人が行っている。
昼前と夕方ごろに粗末なスープが供され、午後に教団の教義についての、説教を受ける。
そろそろ説教を受ける時間が近づいているはずだった。
しばらく待っていると洞窟内に一人の男が入ってきた。
祭服に身を包み、教団の教義が書かれた教典をいつものように手にしている。
おそらく20代くらいと思われる青年で顔には刀傷と思われる傷跡が右頬の上下に走っている。
説教を行う、教台まで移動すると、子どもたちに向かって話しかける。
「はい、それでは、今日も教団の教義についてのお勉強をしましょう。みなさん、集まって下さい」
男の言葉に子供たちは従い、散らしていた蜘蛛の子が集まるようにゾロゾロと教台の前に集まる。
「それでは今日は教典の第2節……」
「あ、あの、すいません」
エリーゼは思い切って手を上げる。
「……なんでしょうか」
男は説教を途中で遮られたのが不快だったのか目を細め、眉間に皺を刻んで不機嫌そうな表情へと変わる。
「妹が熱が出て大変なんです! 何かお薬をもらえませんか?」
男はエリーゼのその言葉を聞き、顔に張り付いたような笑顔を浮かべる。
「すべては光神エストール様の御心のままに。体調なんかが悪くなるのは信仰心が足りないからです。信じなさい、エストール様を。称えなさい、エストール様を」
「で、でも、妹はどんどん悪くなって……」
男は教台からその張り付いたような笑顔のまま、エリーゼが座っている所まで移動する。
そこでふーっと一息ため息をついたと思うと――
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさいぃぃぃッ!!!」
男は突然、金切り声を張り上げたと思ったら、阿修羅の様な表情になってエリーゼの顔面をいきなり蹴り上げ、その後、亀の子のようになったエリーゼをその足で何度も踏みつける。何度も何度も。何度も何度も……。
エリーゼは突然の折檻にその身体を恐怖で震わせている。
「はあ、はあ、はあ……全く、手間をかけさせるんじゃないよ。全ては信仰。皆さんもよく肝に銘じるようにね」
男のその顔には貼り付けたような元の笑顔が戻り、そして教台へと戻っていく。
近くから男の気配を消えた事を察知したエリーゼは、震えながら恐る恐る顔を上げる。
鼻からは血が垂れ流れており、口の中も蹴り上げられた時に、一部裂傷していた。
踏みつけられた腕を中心に、早くも青あざが出来て腫れ上がりかけている。
「それでは、説教を続けましょうかね。えー第2節、その時、神は言った……」
逆らうと今のエリーゼのようにひどい折檻を受ける為、子供たちは大人たちに従っていた。
皆一様に青い顔をして、暴力のターゲットに自分がならない事を祈っていた。
泣いても暴力を振るわれる為、一部の子供は必死に泣き声を上げないように目に涙を溜めて歯を食いしばっている。
冷え切り重い空気が立ち込める洞窟内で、作り物の笑顔を鉄面皮とした男からの空虚な説教が洞窟内にこだましていた。
その日の夜、マリンは小刻みに震えだした。
「お……ね……えちゃ……ん……さむい……」
マリンの額に手をあててみる。酷い熱だ。
一瞬の内によくない想像が頭の中でされて、その想像によりエリーゼは恐怖に苛まれる。
もしかしたら、妹はこのまま亡くなってしまうのではないかと……。
そのよくない想像を必死に頭の中から振り払う。
そして、現実を直視する。洞窟内は寒い。
ただでさえ風邪を引いている妹の体にはこの寒さは堪えるだろう。
薬はもらえなくてもせめて毛布か何か借してもらえないだろうか。
「ちょっと待っててね。お姉ちゃんが毛布か何か借りてきてあげるからね」
そう言って、エリーゼは立ち上がり、洞窟の外へと向かおうとすると。
「エリーゼちゃん、どこに行くの?」
洞窟内で顔なじみとなった同い年の女の子のサリーが声をかけてきた。
「マリンの熱が酷いから、毛布、借りてくる」
「……無理だよ、奴らからは……また、折檻されちゃうよ?」
恐らく折檻されるだろう。でもこのままではマリンが死んでしまう。
じっとはしていられなかった。
「分かってる……でも行ってみる」
サリーの不安そうな眼差しを受けながら、そろりそろりと洞窟の出口へ向かっていく。
……どうやら、出入り口に見張りはいないようだった。
洞窟を出るとテントのような簡易住居が立ち並んでいる。
一体どこに自分たちを管理しているあの男がいるのだろうか?
物陰に隠れながら注意深く周囲を見渡しているとあるテントからあの男が出てきた。
意を決してその方向へ走っていこうとした時、見覚えがある別の男が近くにいた。
どこで見たのだろうか? その男を見ると胸騒ぎがする。
「あ、ランドルフの頭、お疲れ様です」
「お疲れ、アンドル。ガキどもの教育はどうだ?」
「まあ、順調ちゃ、順調ですが……ソーマの方が切れてて」
「じゃあ、まだ洗脳できてねえのか。ったく、じゃあお前は居残りだな」
「マジですか!? もうガキどものお守りはうんざりですよ。ぶち殺してやりたくなる……」
「別に一人、二人くらいはいいだろ、殺っても。まあ、引き続き頼んだぞ」
「ちょっ、お頭!」
ランドルフと呼ばれたその男は去っていった。
男たちのやり取りを聞いている時にランドルフと呼ばれた男をどこで見たのかはっきりと思い出した。
それは……自分の自宅の玄関だ。
自宅に押し入り、お父さんが押し留めた男。
顔を歪めお父さんに罵声を浴びせた男。
忘れられるはずがなかった。
お父さんは恐らくはあの男に……。
憎しみの炎がメラメラと燃えたぎってくるが、今は妹の為に父の仇の仲間の管理者のあの男に頭を下げなければならない。
「うぇえーー」
あまりの嫌悪感に吐きそうになる。
しかし妹の命がかかっている。
やるしかない、と意を決して管理者の男のアンドルの元へと走り寄る。
「あなたは……どうしました? 今の時間はこちらに来てはダメでしょう?」
男の目に冷たい光が宿る。
恐怖心と隠そうにも腹の底から湧き出てくる嫌悪感が混じり合い、思わず顔を歪めながら訴える。
「あの……妹の熱が下がらないんです! 毛布とできれば薬を……」
エリーゼがすべてをいい終える前に男の癇癪が爆発した。
「うるせえ!! このクソガキがぁ!!」
エリーゼの腹部をいきなり蹴り上げ、腹部を押さえ跪いた後も足を何度も踏み下ろす。
「黙れ! 黙れ! 黙れ! 黙れーーッ!!」
男は鬱憤を晴らすように何度も何度もその足を踏み下ろして、遂にエリーゼは地面に倒れ込んだ。
「はあ、はあ、ったく気分悪い時に話しかけてくんじゃねえ、このクソガキがぁ!!」
そう言い捨てて男は去っていく。
「ゔゔゔゔーーーーッ」
起き上がろうにも体中から激痛が走り、起き上がれない。
でも、このままではマリンが……マリンが……。
エリーゼは歯を食いしばって起き上がろうとするが、先程の攻撃によるダメージによりグルンと視界が反転したと思うと、唐突に意識をそこで失った。
「許さない……許さない……」
エリーゼはうわ言のようにそう一人呟きながら荒野を歩いている。
右腕は折れ、他にも激しい折檻により全身打撲の状態だった。
また何も口にできていない絶食状態でもあった。
体力は限界をすでに超えている。
管理者の男に折檻を受けた後の翌朝、意識を取り戻して妹の所へと戻った。
穏やかな表情となっていた妹を見た時はほっとした。
そして熱が下がったかとその額に触ると……。
「許さない……許さない……」
エリーゼのその目は血走っており、あまりの疲労にその視界は歪み、朦朧とした意識の中で呟く。
妹その体に触れた時、その体はびっくりする程、冷たかった。
「ひぃ!」 と思わず、触ったその手を引っ込めた。
「マリン?」
恐る恐る妹に問いかけるが返答はない。
そして……息がない事と心臓が止まっている事を確かめた。
それから、どこをどうして今、この場所にいるのかはっきりとした記憶がない。
だが自分がどこに向っているのかは分かっている。
実家であり、自分が生まれ育ったトレンヌ村へと向っている。
なぜか?
「許さない……許さない……」
奴らに報いを受けさせるため。
許されるはずがない。
許すことはできない。
両親を殺害し。
そして妹も間接的に殺害した奴らの事を。
なぜこんな不条理が許されるのか!
なにが光の教団だ!
神がいるならなんでこんな所業をした奴らが野放しになっているのか!
人がいる可能性がある所に向かってひらすら歩みを進めている。
奴らの所業を伝える為に。
妹と両親、そして、村の人たちの仇を取ってもらう為に。
その為にならなんでも……たとえ自分の血肉であっても必要なら差し出す覚悟だった。
「許さない……許さない……」
エリーゼの体力はすでに限界を超えており、視界もぼんやりとはっきりしていなかった。
しかし、その瞳に遂に望郷のトレンヌ村の姿を確認する。
放火された家々、それに殺害された大人たちは無造作に地面に打ち捨てられたままのようだった。
村を東西に結ぶメイン道路に差し掛かった所で……兵士の姿を確認して……エリーゼはそれを光の教団の奴らだと誤認した。
「まだ……残って……いたなんて……」
エリーゼは絶望の後、気絶してその場に力尽きて倒れ込んだ。