第60話 マンハント
アムール地方の田舎にあるとある小さな村トレンヌ。
主にカイコの養蚕と絹織物の製造が行われている。
田舎ではあるが、帝国の重要度は高い村で、帝都から定期的に役人を送り込み管理を行っていた。
その理由は絹織物が貴重な高級品であるからだ。
時には交易品として他国との交渉の材料となったりする事もある。
さてそんな村で、今、一人の少女が村の共用の井戸へと水汲みへと向かっている。
少女の名はエリーゼ。
父は絹織物を作る職人をしており、それに母と妹の4人で村に一つ家を持ち、慎ましく暮らしていた。
エリーゼは一日の内、朝昼晩と井戸へと水汲みにいくのが日課だ。
水汲みはエリーゼの役目であった。
今は昼前。昼食用の水を汲みにいく途中の事であった。
エリーゼの目に村の遠目の平原に一人の人の姿が写る。
あの方角は近隣のヤムルート村の方角だ。
ヤムルート村から来たのだろうか?
それにしては正規の街道を通らずに、平原を馬も使わずに来るのかと疑問に思う。
井戸へと歩進める方向と同じだったので自然とその人との距離が縮まる。
近づいて来たその人をよく見ると、足を引きずり、頭はからは血を流していた。
その見慣れない光景に一瞬恐怖に苛まれ思考が停止しそうになるが、水汲み用の桶を放り投げすぐにその人に向かって駆け出す。
「はあ、はあ……、あの……大丈夫ですか?」
「た……たすけ……」
怪我をした男性はその言葉を吐き出すと力尽きて倒れた。
片目と鼻は腫れ上がり、頭部に裂傷があるのか血が首まで流れているが、時間が立っているのか血は凝結しているようにも見える。
片足と更に片腕も庇うようにしており、体のあちこちに裂傷があるようであった。
何者かに攻撃されたが、命からがら逃げてきたように見受けられた。
エリーゼはすぐに村に向かって駆け出す。
誰かを助けを呼んでこなければ。
その男性は村の人間に介抱され、詳しい話は意識を取り戻したら聞く事になった。
トレンヌ村の中にその男性の顔見知りがいたらしく、やはり近隣のヤムルート村の人間だという事だった。
しかしヤムルートは近隣の村と言っても、徒歩だと半日くらいはかかる距離。
それをあの傷で歩いてきたという事は、余程の事だろうという事になった。
だがトレンヌ村には周辺の戦果の報告は特に届いていない。
村の方針としては要警戒でとりあえずは様子見、詳細は男が意識を取り戻したら聞く、という事になった。
そして、その翌日。
少女は同じように朝の水汲みに向かっていると、朝霧がかかっておりはっきりとは見えないのだが、村に続く街道に騎馬した集団が見受けられた。
最初は何かの商隊かと思う。
その街道から一番近い家。
エリーゼもよく見知ったランゼルさんの家から甲高い悲鳴が聞こえた。
と思ったらランゼルさんの家の玄関のドアが乱暴に開かれる。
家の中からランゼルさんの妻のおばさんとその息子が出てきた。
それに続いて武装した兵士が二人、おばさんと息子を追うように出てくる。
兵士の一人が抵抗するおばさんを押さえつけると、もう一人がその手に持った剣をおばさんの腹部に突きたてる。
その剣をゆっくりとおばさんの腹部に差し入れ、おばさんは声にならない悲鳴を上げながら、目に涙を浮かべ息子の方へとその手を伸ばす。
ゆっくりと差し込まれた剣を、兵士は今度は連続で何度も突き入れた。
おばさんはそのまま地面に崩れ落ちた。
息子は泣きながらおばさんに駆け寄るが、兵士の一人に抱きかかえられ、泣き叫ぶ息子はどこかに連れて行かれる。
おばさんも息子も顔見知りだ。
というか小さい村なので、村の人間すべてはなんらかの顔見知りだった。
息子の名はアベルという。
歳が近く何度も遊んだ事がある。
そして自宅に遊びに行った時に食べさせてもらった、アップルパイが美味しかった事をよく覚えている。
あまりに美味しく驚きの笑顔になった私に、優しい眼差しを向けてくれたおばさん。
決してあんな非条理に、人の尊厳を踏みにじるような形で命を奪われていい人ではない。
その余りに衝撃的な光景に茫然自失となり、その場に立ち尽くしていたエリーゼ。
すると今度は村の別方向から連続した悲鳴が聞こえてきた。
それに何やら焦げ臭い匂いも鼻孔を刺激する。
家事? 放火されている?
そこではっと自分の家族。
お父さんにお母さん、そして妹のマリンの事に思い当たる。
みんな無事だろうか?
その考えに至った瞬間、エリーゼの足は考えるより先に動き、気づけば全力で走っていた。
家までの道中で散発的に聞こえてくる、村人の叫び声と泣き声。
そして見知らぬ男たちの怒号。兵士と村の男性の揉み合い。
その男性は後ろから別の兵士に胸を貫かれる。
目に入ってきた余りに痛々しいその光景から目を逸らす。
お父さん、お母さん、マリン、無事でいて……。
祈るような思いで必死に走る。
いつも通っている水汲みへの道が、こんなにも長かったのかと恨めしく思う。
早く、早く、もっと早く!
村人の叫び声が家族のものと重なる。
その度に心臓をぎゅっと掴まれるような思いをするが、その考えを否定する。
大丈夫、お父さんとお母さんとマリンは無事なはず。
自宅が視界に入ってきた。
……大丈夫だ。まだ放火はされていない……。
兵士も……今の所は近隣にまでは迫っていないように見受けられた。
自宅のドア開き、その中に飛び込む。
「お父さん! お母さん! マリン!」
「エリーゼ!」
「よかった無事だったね!」
「お姉ちゃん!」
両親は逃亡の準備だろうか、すでにリュックをそれぞれ背負っている。
「お前を待っていたんだ。俺たちだけで逃げる訳にはいかないからな」
一刻も早く逃げたかっただろうに、父のその言葉に胸が熱くなる。
その時、家の玄関のドアが突然、乱暴に開いた。
「おっ、いやがるぜ獲物が……2体。それに処分品が2体だ」
そこに父が飛びかかる。
「うぉおおおおーーーッ! みんなぁ逃げろッ!!」
父は家に無断侵入してきた兵士を二人タックルで外に追いやる。
「ちっ何だこの野郎! 離しやがれ」
お父さん…………私が腰が抜けそうになっている所をお母さんに、
「しっかりしなさい! 行くわよ!」
目に涙を溜めながらお母さんは、私とそして妹のマリンを引っ張って裏口に行く。
裏口から家を出ると家のすぐ裏にある森に向かって走る。
お父さん、お父さん……
嫌だ……お父さんが殺されちゃう。
受け入れがたい現実を突然突きつけられ、思考が停止しそうになる。
しかし、お父さんは自身の身命を掛けて、私たちを逃してくれたのだ。
なんとしても逃げ通さなくては。
破裂しそうになる心臓を鼓舞しながら、必死にそれこそ死にものぐるいで走る。
妹のマリンも……目には涙を溜めながらも必死に走っている。
後もう少しで森を抜けようかというその時。
お母さんが突然、立ち止まる。森の先には3名の兵士の姿があった。
待ち伏せ……!? 逃げ場を最初から周到に潰していた?
死神の鎌を喉元に突きつけられたように血の気が引き、胸に冷たい風が吹き通る。
「エリーゼ! マリン! 行きなさいッ!!」
「えっ……でも……」
「いやだぁ! お母さん!」
「行ぎなざいッ!!!」
最後には母は叫ぶようにそう言うと、傍らの短剣を取り出して兵士たちに走り込んでいった。
「マリン!!」
私は妹の手を引き、その場から走り去る。
背中からはそんな母を嘲笑する兵士たちの声が聞こえる。
そして、しばらく時が刻まれた後に……お母さんの…………悲鳴が……。
涙で前方の視界がボヤけ時折、転びそうになりながらも必死に走る。
自分たちの後ろにいるのは正に死だ。死神だ。
追いつかれれば未来はない。
「あ゛あ゛ーッ!」
妹が転び、その繋いだ手が離れる。
「大丈夫? 頑張って!!」
その手を再度繋ぐ。その時、後方をチラリと確認する。
一人の鎧に身を包んだ男がこちらに向かって走って来ていた。
その距離は……もう余り余裕がない。
必死に妹の手を引っ張り、再度走り出す。
もうすでに体力は限界を超えている。
心のダメージも自分が耐えられる許容量はとっくに超えていた。
一人だったらその場にへたり込み、父と母の後を追っただろう。
しかし、今、自分の手には妹の命がある。
なんとしても諦める訳にはいかなかった。
酸素が足りずに朦朧とし始める意識の中、必死に歯を食いしばり、走り抜けた森の別方向のその先には――
また兵士たちが待ち伏せをしていた。
「よーしよし、もう逃げられないぞ、お嬢ちゃんたち」
「おっ、どうした!? 追い込みしてたのか?」
「ああ、うまいこと誘導できたわ、これで2体確保だ」
絶望の後、真っ白になった頭の中。
そんな状況で無意識の内、私は妹のその小さな手をぎゅっと握りしめた。




