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春彦は頭の中を整理しながら問うた。
「それで渋々ガンドルフさんに従っていたと。そういう事ですね?」
「はい。そうなんです。あの、過剰に受け取った代金はお返しします」
夫妻は深く項垂れた。
春彦は自身の思い描いた脚本通りに動いてくれた二人に満足した。
「一つ、質問をしても?」
春彦が言うと、夫妻は頷いた。
「ザグルス隊商のガンドルフさんは隊商を引き継いだ訳では無いんですよね?」
「ええ、その筈です」
「では彼よりも位の高い方はザグルス隊商にはいらっしゃらないのでしょうか?」
「それならご長男のフォルスさんか、お父上のザグルスさんだと思います」
「どうして彼らに嘆願されなかったんでしょうか?」
「フォルスさんは一年前から遊学中で、ザグルスさんは病床に付かれていて滅多にお会い出来ないのです」
「フォルスさんが遊学を終えられるまでは実質ガンドルフさんが隊商を賄っている形なんです」
「ザグルスという方の症状は話も出来ない程なんですか?」
「はい。ザグルスさんの側近であるコニオさんという方がいらっしゃるんですが、伺った所によると、熱によりザグルスさんの意識も曖昧らしく……。今もザグルスさんの奥方とコニオさんが付きっきりでお世話されているようで、どうにも上手く無いんです」
「そうですか。コニオさんという方は飽くまで部下でしょうし、ガンドルフさんの抑止として期待するのは難しいでしょうね」
春彦はこの一連の出来事の流れが分かって頷いた。
「ご事情は相分かりました。ではキムルスさん。うちの店には今まで通りの値上げした額で粉を卸してください」
「クガヤマさん、でもそれじゃあ……」
春彦は右手を前に出し、キムルスを制した。
「うちとしてもこのままでいる訳には行きません。ですが、いきなり事を荒だてる訳にも行かないのです。一度エリカさんに相談する必要もありますから暫くはこのままで、ということです」
「分かりました。ご迷惑をお掛けして本当に何とお詫びしていいか」
「いえ、発端はこちらですので。逆に巻き込んでしまいすみません。失礼な物言いも、すみませんでした」
春彦が頭を下げて謝罪すると夫妻は生真面目に首を振って遠慮した。
「では、僕はこれで失礼します」
「今日はもうサルースへ帰られるんですか?」
「いえ、乗り合い馬車で来ましたので今日の便はもう無いでしょう。どこかで一泊して帰るつもりです」
「そうですか。では余り行き届いている訳ではありませんが、この製粉所の仮眠室をお使いください」
「それがいいでしょう。ベッドと簡単な机と椅子くらいしかありませんが、如何ですか?」
春彦は夫妻の申し出に有り難くお礼を述べた。
♢
———その晩。
春彦は仮眠室の小さな机の前で一人腕組みをしていた。
そうして確信していた。
矢張りこの世界は春彦の作った物語なのだと。
エリカから昨日事情を聞いてすぐに春彦は仮説を立てた。
春彦が書いたこの物語にはこのようなエリカが困るようなエピソードは無い。
ただエリカが幸せに暮らす様をだらだらと書き連ねた箸にも棒にもかからないような物語だ。
それがここまで捻れてしまっているのは当初考えたように物語の裏側という側面もあるのだろうが、作者自身がこの世界に迷い込んでしまった影響もあるのではないだろうかと考えた。
そしてもし、本当にこの世界が春彦の空想の産物と繋がっているのなら春彦にとって都合の良いように改変が可能なのでは無いかと考えたのだ。
そして春彦はエリカから借りた新しい紙とペン、インク壺を使ってこう記したのだ。
《夕飯にエリカは焼いたソーセージと売れ残りのパン、それからサラダを出してくれた》
エリカのパン屋に世話になってからそんな豪華な夕食が出てきた事は無かった。
偶然という可能性もあるが確認するにはこの程度のリスクが少ないもので十分と考えたのだ。
それから、これで本当に上手く行ったら本当にご都合主義過ぎるなとも考えて座っている木の椅子の背凭れに身体を委ねたのだった。
そして、その日の夕食には春彦の書いた通りの献立がテーブルに並んだ。
春彦が自然な流れで夕飯の献立について聞くと、意識した訳では無いが、夕食の買い出しに行った時に気付いたら買っていたというのだ。
春彦は矢張りそうかと納得し、夜の内に今回の件と齟齬が出ないように物語を書き上げたのだ。
但し、無理矢理に犯人を決め付けるよううな書き方はしていない。キムスル夫妻が自白する方向に話を操作したに過ぎなかった。
そこで苦労したのは自らが書いた脚本から大幅に逸脱した行為を行わない事だった。
どうやら物語の強制力のようなものは春彦には通用しないらしく、春彦がそのシナリオから大幅に外れた行動を取った場合はキャンセルされるようだった。
十分な確信がある訳では無かったが、春彦の中では予感めいたものがあったのだ。
その為今回キムルス夫妻と会うに際にぶっつけ本番に近い形ではあったが、台本を用意して来たのだ。
そして夫婦を上手く誘導出来た。
しかし、この不可思議な力がどの程度通用するのか未だ不透明な事には変わりない。
一番手っ取り早いのはザグルスの病が回復するか、フォルスの帰還だろう。
しかし、病を治す部分まで物語を左右出来るのか未知数だ。
それに、フォルスは現在かなり離れた国へ遊学に行っているらしく、距離的な問題までも強制出来るのか自身が無かった。
一応の期待を込めて春彦は新たな文章を紙に認めた。
♢
「春彦!お帰りなさい」
店舗の扉を開けるとほっとした表情のエリカが出迎えてくれた。
春彦も知らず知らずに肩の力が抜けるのを感じた。
自分で考えたよりも緊張していたらしい。
「エリカ、只今帰りました」
春彦が笑みを浮かべて言うと、エリカは安堵の溜息を吐いた。
「早く二階へ上がって休んで頂戴。詳しい話は夕飯の席で聞かせて貰ってもいいかしら」
「分かりました。では、後程」
軽く会釈をした後に春彦は二階へと上がった。
自室に入ると荷物を下ろし、すぐに書き途中の文章の続きに取り掛かった。
暫く没頭して作業を進めるとあっという間に夕方の時刻となった。
自室の窓から差し込む陽射しが赤々と室内を染め上げた頃、部屋の扉がノックされた。
「春彦?そろそろ夕飯にしようと思うんだけど、良いかしら?」
「分かりました。すぐ行きます」
春彦はインクの始末を付けてから、一階へ下りた。
食事はいつも厨房の大きなテーブルで2人で取っている。
一階へ行くと、エリカ手製のスープの芳しい香りが漂っていた。
一日ぶりのエリカの手料理は殊更有り難く感じる。
不思議な感覚だった。
もう誰かの手料理を食べる機会など無いと思っていたのに、今こうして当たり前のようにエリカの手料理を前に二人でテーブルを囲んでいる。
この何気ない時間が掛け替えの無い物だと、以前の春彦は気付かぬままに唯々消費していたのだ。
それを感じて物悲しい気持ちになった。
「さ、早く座って。食事にしましょう」
「エリカ、仕事で疲れているのに甘えてしまってすいません」
春彦が詫びを述べるとエリカは首を振って否定した。
「いいのよ。元は私の為に動いてくれていたんだから」
「好きでやった事ですから」
謙遜するとエリカが春彦の手を引いて、握り締めた。
「本当よ。本当に感謝しているの」
春彦は後ろめたい気持ちになってやんわりとエリカの手を振り解いた。
久々に触れた彼女の手の熱さに、否が応でも心拍数が跳ね上がる。
その感情の移ろいが居心地を悪くさせたのだ。
「昨日あった事をなるべく正確に話しますね」
春彦は自分の口から出た平坦な口調に安堵したのだった。
掻き回してはいけない。自分は何れ居なくなる人間なのだから。
春彦は、自分が手にした能力を自覚した時に、既に現実の世界に帰還する方法を思い付いていた。
だが、後少しだけ。
せめて彼女の幸せを見届けるまで。
自分に言い訳をしながらそう願う春彦は、変わらず卑怯者のままだ。