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「流石に一週間以上前のパンなら黴て当然ですよ。この林檎パンは一週間と二日前に作った物です。台帳にも記録してますから間違いありませんよ」
エリカが店舗内の棚に立て掛けてあった台帳を取り出しパラパラ捲って本題の日付けと、そこから一週間の記録を見せた。
難癖を付けてきた男はカッとしたように更に憤怒している。
「いいや、昨日買ったもんだ!間違いねえ。客が嘘吐いてるって言うのか?!」
「では昨日買った商品の種類と支払った額を教えてください」
エリカは毅然とした態度で答える。
「くるみのやつにバケットに、この林檎パンだ!値段は五ピアくらいだった筈だ」
エリカはそれを聞くと、棚から前日の伝票を取り出して一枚目から順に見ていく。
「昨日はその組み合わせで購入したお客様はいらっしゃいませんね。お疑いならご確認されますか?」
エリカが伝票を差し出す。
春彦も、読めはしないが、予めエリカが作ったパンの絵が書いてある伝票に正の字で数を記入している。そして締め作業の際にエリカが総計を出す。
一枚の伝票に毎日五、六種類のパンの絵。それから十人まで書き込めるように行と列のマトリクス表になっている。
この形に辿り着くまでにお互いを擦り合わせるのに大変苦労した思い出だ。
どんぶり勘定が当たり前に横行しているこのサルースの街にしてはエリカはかなり几帳面な方だと言える。
「———っ、こんなのイカサマだ!」
男が今にも手を振り上げようとした瞬間、春彦は身体が勝手に動いてエリカの代わりに頰に男の拳を喰らった。
春彦は身体が衝撃で傾ぐが、なんとか踏ん張り堪えた。
「春彦っ!」
「兄さん!大丈夫かい?!これ以上はやり過ぎだぞ」
ジェームスが慌てて仲裁に入ってくれた。
男達は来た時同様に荒々しい態度で店を後にした。
エリカは息を吐いてその場に崩れそうになった。
春彦は慌ててエリカを受け止めた。
「もう今日は店仕舞いしなよ。兄さん、エリカを頼むよ。僕が表を閉めておくから」
「ジェームスさん、ありがとうございます」
ジェームスは振り返り振り返り、心配そうに帰って行った。
春彦は店舗の内側が施錠して二階へ上がった。
エリカの部屋の前まで来て、控えめに扉をノックする。
「どうぞ」
入室を許され、扉を開けた。
エリカは小さなシングルベッドの上に座っていた。
白く血の気の引いた顔色だ。
「エリカ、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。それより、春彦は大丈夫?」
「まあ、男ですからね。大丈夫です」
「本当?凄く痛そうだわ」
エリカが指先を恐る恐る春彦の殴られた部分に這わす。僅かな痛みが走り、次いで鈍痛が来た。
過剰な興奮状態により忘れていた痛みを急に思い出したのだろう。
「本当は少し痛いです。殴られた事なんて初めてだったから」
苦笑いを春彦が浮かべようとすると、痛みが走り不自然に歪んでしまった。どうやら口の中も少し切っているらしい。
「迷惑かけたわね」
「そんな事気にしないでください。それより、こういった嫌がらせ、初めてじゃないんですよね?」
春彦が真剣な目をするとエリカは渋々頷いた。
「こんなに大きな事は初めてなんだけど、二年前から実は度々あるのよ」
「二年も前から?!」
「そうなの。一つ一つは小さな事なんだけどね」
春彦は几帳面に付けられた伝票やその日店に出したパンの記録などを不自然に感じていた。
いくらエリカが几帳面な性格をしているといっても、この気儘な世界観では用心深いという印象を強く受ける。
伝票の取り決めに関してもエリカは厨房の雑用よりも慎重に擦り合わせを行なっていた。
何より、そこまで慎重に慎重を重ねる割に、在庫やロスについては頓着していないようだった。
それが違和感の正体だった。
エリカは度重なる嫌がらせを誰かに受け、外からの脅威に備えていたのだろう。
———こんな設定は無かった筈だ。
否、春彦が書いていた物語は謂わば理香へ贈る追悼の意だ。
綺麗な上澄みだけを蓄積させた産物に過ぎない。
その内に隠された苦悩や苦難などは春彦が描写しなかっただけで実際に居る人間なら誰にだってある事なのだ。
一面だけ切り取って総て分かった気になるなど、烏滸がましいでは無いか。
春彦は顔を上げてエリカの顔を見る。
初めてエリカを真正面から見つめた。
実際には何度となく見た事はあった。
あったにはあったが、何処かで理香越しに見ていた。
それを初めてエリカ自身に焦点を当てたのだ。
「エリカ、今までにあった事を全部話してくれますね?」
♢
「最初はね、本当に些細なものだったのよ。お店の表に塵を撒かれるとか、大口の予約を取りに来なかったりとか。それに関しては父が生きていた時も多くは無いけど、偶にあった事だから最初は気にしてなかったの」
「うん、それで?」
「そんな事が一年の間に数回起こる内に、普通じゃないと思い出したの」
「頻度で言うと?」
「一月で一、二回。一年経つ頃には二、三回くらいに増えてたかな」
「そこで漸く異常だと思ったんですか?」
「ううん、そうじゃないのよ。それで一年経ったくらいの時に常連のクレアさんから言われたの」
「何と?」
「変な噂が流れてるって」
「具体的にはどんな噂ですか?」
「うちのパンを食べて具合が悪くなったとか、腐ったパンを売り付けられたとか、買ったパンに虫が入ってたとか。そんな類いの噂が出回ってるらしいの。常連のお客さんは勿論そんな噂関係無く来てくれるけど、ここ一年は売り上げが二割から酷い時は三割くらい落ちてきたのよ」
「それは……酷いですね」
「それだけじゃ無くてここ半年は隣町のいつも小麦を仕入れていた店から仕入れる小麦の価格が上がってしまったの」
「収穫量が落ちて価格が高騰したとか何か理由があるんですか?」
「そうでも無いのよ。調べたんだけど、収穫高は寧ろ前年より増えてるらしいの。大規模な農地拡大計画が数年前に行われたばかりだから。それでね、その店から仕入れている他の店に聞いてみたんだけど、どうもうち以外は価格は変わってないらしいの。というか若干安くなったと聞いたわ」
春彦は顎に手を当て考える。
「紙とペンをお借りしても?」
エリカが紙とペンとインク瓶を春彦に差し出した。
ペンをインクに浸し、春彦は今聞いた内容を時系列順に端的に書き出した。
嫌がらせに誹謗中傷、更には原材料の恐らく不当な値上がり。
総ての点が線となってエリカの小さなパン屋に襲い掛かっている。
「何か謂れの無い扱いを受ける原因に思い当たる節はありませんか?」
エリカは僅かばかり躊躇ってから発言した。
「実はね、三年前の父が亡くなる少し前に、隣町から荷運びをしている大きな商隊の息子さんから求婚を受けていたの。でもその頃は父の看病や店を一人で切り盛りする事に精一杯でとてもじゃないけど受けられる状態じゃなくてお断りしたの」
「なるほど」
春彦はさらさらと紙の上方に書き足す。
「その時は案外あっさりと承諾されたから関係無いと思うんだけどね。他にトラブルらしいトラブルは無かったから、もしかしたらと思ったの」
紙をペン先でトントンと叩いて思考する。
春彦は、紙から視線を外してエリカを見た。
「実際に隣町に行って確認してみましょうか」
そう言った。