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一通り買い出しが終わると、もう昼過ぎだった。
春彦は両手に紙袋を抱えている。買い出しの戦果達だ。
一休みしようという事になり、飲食街までやってきた。六メートル程の道に屋台が立ち並んでいる。
小麦粉をクレープ状に薄焼きにした物に野菜や肉を挟んだものを買い、少し開けた広場まで出て二人で噛り付いた。
「今日は天気が良いから外で食べると余計に美味しい気がするわ」
一口目を嚥下してからエリカがそう言った。
春彦は、エリカの口元を見て苦笑が漏れる。
「エリカ、口」
ソースが付いている口元を指先で拭ってやるとエリカは分かり易く赤面した。春彦はその表情を見てどきりとする。
もう自分を上手く誤魔化せそうもない。
こんなに可愛い反応をされたら堪らない。
じっとエリカを見つめてしまう。
思い出に捕らわれてしまいそうになるエリカという存在から必死に目を背けようと努力してきた。
彼女は春彦が生み出した幻影であって、理香では無い。
自分にずっと言い聞かせてきた。
だが、仕草が、声が、背丈が。
少しの差異が段々と春彦の中に降り積もり、やがて目を背けられない程、無視出来ない程に大きくなった。
そうして見つめてみると、それはエリカという一人の人間を象っていた。
勿論、春彦が作り出したエリカという登場人物では無く、指先まで血の通った一人の女性としてだ。
理香の代わりのエリカでは無い。
エリカとして漸く春彦の前にストンと落ちて来たような。
そんな感覚がしてついつい注視してしまった。
「春彦?」
エリカが笑いかけてくる。
矢張り理香とは違う。
まだあどけない笑顔。
「なんでも。なんでもありません、エリカ」
初めて正面から目を向けたエリカは生き生きとした生身の女性だった。
♢
エリカのパン屋に世話になり始めて更に二月が経った。
依然として現実世界に帰れる気配は無い。
もう早起きも、パン屋の雑用もすっかり慣れた。
物書きをしていた部屋に篭りっきりの時代に比べると筋肉も付いた。
以前は持ち上げる時に苦労した二十キロ程の粉がぎっしり詰まった麻袋も軽々持ち上がるようになった。
エリカとは相変わらず同居状態であったし、変わらず友人のような関係であった。
春彦としてはそれで構わないと思っていた。
自信が無いのだ。
人を大事にする自信が。
もう時期厳しい冬が到来しようとしていた。
店の入り口にある相変わらず難解な象形文字のような札を裏返す。オープンの意を表したのだ。
まだ暗い冬の朝。
空を見上げると茜色がネイビーブルーの空に僅かばかり下方から差していた。
吐く息が白い。
もう時期雪も降るだろうとエリカが言っていた。
この世界に迷い込んでから五ヶ月余り。
原始的な日の出と共に目覚め、日没と共に眠る生活にも慣れた。
身震いして店舗スペースに滑り込むと、厨房からエリカが顔を出した。
「オープン準備大丈夫?」
「今終わりましたよ」
努めて明るく返すとエリカが頷いた。
「春彦、何だか明るくなったわね。ここに来た時なんか酷かったから」
「えっ?酷い?」
「そう。酷かった。顔も青白くっていつも下ばかり見てたし、話しかけても上の空の事多かったし。だから心配で放っておけなかったのよね」
「ああ、そうかもしれない。自分に絶望していた時期だったから。簡単に言うと」
「絶望?穏やかじゃないわね。何があったか聞いてもいい?」
「言いたくありません」
正確に言うと、エリカには言えないの間違いだった。
流石に突飛過ぎる内容であるし、自分と似通った人間が死んだなど聞いて面白い訳がない。
「そう。じゃあ、やっぱり貴方記憶喪失は嘘だったのね」
「……はい。騙してすいません」
「怒っている訳じゃないのよ。ただそうじゃないかとは思っていたから納得しただけ。記憶を無くした人があんなに思い詰めた顔するのかな?って違和感があったから」
エリカは言った。
そして悲しげに瞳を細めた。
「私が父を亡くした時に雰囲気が似ていたから。だからほっとけなかったのよ」
苦笑いを浮かべたエリカの瞳は暗く沈んでいた。
春彦がエリカという人物を作る際にモデルにしたのは理香だ。
だが、理香は父母共に健在している。
では何故エリカの父母を亡くなった設定にしたのか。
それは作中で余り関わりの無い登場人物を削ぎたかった狙いもある。
しかし、それだけでは無い。
半身をもがれた悲しみをエリカにも植え付けたかったのかもしれない。
つくづく身勝手な己に自嘲の笑みが僅かに浮かんだ。
「余り長話も出来ないわね。仕事を続けましょう」
エリカは春彦の葛藤には気付かずに厨房の奥へと去って行った。
エリカが厨房へ消えてすぐに店の扉が開いた。
「やあ、兄さん!また来たよ。今日はナッツが入ったパンを買いに来たんだ。良いワインを貰ったから朝から呑みたい気分なんだ」
やって来たのはジェームスだった。
ご自慢のカイゼル髭は相変わらずだ。
陽気に喋るジェームスはいつもよりご機嫌だ。余程ワインが楽しみらしい。
「ジェームスさん、いらっしゃい。くるみパンをおいくつ用意しますか?」
「独居老人に酷な事を聞くね。一つおくれ。あ、いや待って。この前食べたレーズンとクランベリーが練り込んであったパンも一つ貰おう」
「はいはい、かしこまりました。それにしても老人なんてご謙遜を。この前も恋人と一緒に居る所を見かけましたよ?」
「うん?恋人?はて?」
惚けて首をひねるジェームスに、三日程前に市場に買い出しに行った帰りに薬屋の前で見かけた旨を説明した。
「あー、違う違う。あれは薬屋のバーさんだ」
「え?薬屋には俺も行った事ありますけど、若い女性の店員さんがいましたよね?他にも働いている方が?」
ジェームスは人差し指を立てて、チッチッと顔の前で気障に指を振る。一々芝居染みた仕草だ。
「青年、まだまだ若いな!ありゃー若作りしたバーさんの姿だ。化粧で誤魔化しているのさ。実年齢は僕より上だよ」
春彦は驚きに息を飲んだ。
春彦の作中には登場しなかった人物の驚くべき特技に仰天した。
元の世界でも詐欺メイクなる物が流行っているのを理香から聞いた事があるが、ジェームスの話が本当なら詐欺どころか魔法の域だと思った。
暫く春彦がジェームスと話し込んでいると、店の扉が乱暴に開いた。
ギョッとして扉を見ると、若い余り柄のよろしくない二人組の男が春彦の居るカウンターにズカズカと近付いてきた。
「おい!この店のパンは黴が生えた物も平気で売るのかい?!」
胸倉を掴みそうな勢いで凄まれた。
「黴?まさか!」
春彦が即座に否定すると、二人組の内の背の高い男がにやりと笑う。
「これを見てもそんな事が言えるのか?」
カウンターに袋を乗せ、乱暴にひっくり返すと中から白黴の着いたパンが出て来た。
「言い逃れしようったってそうは行かねえぞ?!」
男がカウンターを乗り出すように凄んできた。
ジェームスは成り行きを心配そうに見守っている。
「どうかしたの?」
騒ぎを聞きつけて厨房からエリカが顔を覗かせた。
「エリカ、実は……」
「どうもこうもねえだろ!黴付きのパンなんか売りやがって」
春彦が説明しようとすると男が強引に割り込んできた。
「黴付き?ちょっとすいません」
エリカがパンを手に取り、溜め息を吐いた。