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エリカが熱を出した翌日。
外は晴天であった。
雲一つ無い晴れ渡った空。
窓から差し込む光に誘われるように店舗入り口から外に出た。一つ伸びをする。
今日はいつもよりも大分寝坊してしまった。
日の出から暫く経った時間帯だ。
昨夜は結局一晩をエリカの部屋で過ごす事になった。
勿論疚しい事はしていない。してはいないが、エリカの寝顔に理香を重ねてしまった事が後ろめたい。
グリーンの瞳を閉じると余計に理香に似ていると春彦は思った。
記憶の理香よりは幼く感じる。
寝顔も、言動も。
だが、春彦のような訳の分からない人間を拾ってしまう辺り、お人好し具合は理香の上を行くかも知れない。
エリカは幼い頃に母親が亡くなってから父娘二人で助け合いながらパン屋を営んでいる設定として生み出した。
エリカは家族の事を多くは語らないが、端々で聞いた話を纏めると、春彦の書いた話通りで相違無いだろう。
春彦が書き途中の物語の中のエリカは、理香の理想のままに大好きなこのパン屋と、店にやってくる陽気な客達と楽しく暮らす様を描いた物語だ。
理香がもう苦しくないように。
悲しい思いをしないように。
春彦の総てを掛けるような気持ちで紡いだ物語だ。
だが、実際のエリカはどうだろうか。
パン屋に来る常連客と和気藹々と楽しそうに接客するエリカ。
父から受け継いだパン作りを張り切って行うエリカ。
働き者で明るく振る舞うエリカ。
概ね春彦が作った通りの人物像である。
だが、春彦が物語に書いていない部分が全く無い訳が無いのだ。
意図して明るい朗らかな物語にしてしまった分、ふとした時に見せるエリカの表情に憂いを感じる。
例えば、クローズ後の店舗カウンターを拭き上げている時に手を止めてカウンターの天板に付いた古い傷跡をなぞっている時。
厨房の本棚にある数冊に渡る分厚いルセットを開いて見ている時。白茶けて乾いた紙の一枚一枚をまるで写真のアルバムを見るように目を細めて見つめるエリカの横顔。
寂しさが際立つ時は、いつもエリカが不意に親子の思い出の記憶に触れた時だ。
完璧な幸せなど有りはしないというのに。
春彦は、理香の為に紡いだ幸せの形が間違えてしまっていたのでは無いかとエリカの寝顔を見て思い返していた。
理香の死から逃れる為に作り上げた世界に捕らわれ、理香にそっくりなエリカに出会い、己の現実逃避を酷く恥じた。
だが、許されるなら彼女の寂しさが癒えるまで側に居たいと思い始めていた。
「やあ、兄さん!今日は休みかい?」
振り返ると陽気が服を着て歩いているような初老の常連客が居た。彼の名はジェームス。
ジェームスはご自慢のカイゼル髭をひと撫でしてにっこり笑んだ。
「今日はエリカが具合を悪くしたからお休みなんです」
「何?エリカが?大丈夫なのかい?」
「一晩寝かせて熱は下がりましたから多分大丈夫です」
春彦が説明するとジェームスは息を吐いてやや大袈裟に安堵のポーズを取った。
「それは何よりだね。婚約者を大切にするんだぞ、青年!」
春彦が目をパチパチと瞬きをする。
ジェームスの言葉を理解するのに時間が掛かった。
理解した途端に顔に熱が集まる感覚を覚えた。
「俺とエリカは雇い主と従業員です!勘違いはやめてください」
慌てて否定すると余計に空々しく感じる。
ジェームスは春彦の様子を見てパチンと片目を瞑ってみせた。
「何だ兄さんが一方的に恋しているだけなんだな」
「ち、違いますよ!」
「兄さん、エリカはモテるからなあ。うかうかしてられないぞ、青年!」
「ジェームスさん!」
高らかな笑い声を残してジェームスは去って行った。
自分で作った登場人物ながら、人をおちょくるのが趣味のような様子に些か腹が立った。
春彦が憤慨しながら店舗に入るとまだ寝間着姿のエリカが丁度二階から降りてきた所だった。
「エリカ!もう起きてきて大丈夫ですか?」
「春彦、心配掛けたわね。もう大分良いのよ。嘘みたいに良く寝れたの。父さんが亡くなってから自分でも分からない内に気が張っていたみたい。本当に春彦が居てくれて良かったわ」
照れながら感謝を述べるエリカに春彦は胸を撫で下ろした。
エリカの父が亡くなってから三年間、女一人で懸命に生きてきたエリカ。
矢張り理香とは違うと春彦は思った。
理香は気の弱い所があって、結構人の意見に流されやすい部分があった。逆に言えば人に合わせられるだけの伸びやかな優しさがある人だ。
だが、エリカには芯の通った強さがある。その殻を一皮剥けば弱い自分を懸命に叱咤しているような不安定な痛々しさがある。
その違いに安堵する反面、寂しくもある。
二人の理香とエリカ。
二つの矛盾が春彦を悩ませているのだ。
「春彦、今日は買い出しに市場へ行きたいの」
「えっ?寝てなくて大丈夫ですか?」
「そんなに休んでられないわよ。もう大丈夫よ、心配性ね。でも誰かが心配してくれるって良いわね」
エリカが嬉しそうに笑ったので春彦は必要以上に引き留められなかった。
「じゃあ、俺もついていきます。ここに来てから殆ど店から出てないし」
「それもそうね。じゃあ、一緒に行きましょう!」
支度してくると言ってエリカは再び二階へ上がって行った。
春彦は階段を上がるエリカの後ろ姿をそのまま見送った。
理香の時は去り行く後ろ姿さえ見れなかったのだな、と何となく考えた。
暫くすると二階からエリカが降りてきた。
スタンドカラーの白いブラウスに、ハイウエストなミモレ丈の農藍色のスカート。
彼女の印象によく合った格好だと思った。
対して春彦は彼女の父親のお下がりであるオープンカラーの黒檀色の長袖シャツを腕まくりしている。
がたいが違うのかエリカの父のシャツは春彦の腕より長かった。そして身幅も違うようで、かなり身頃に余裕がある。
ズボンは大き過ぎた為、エリカがウエストと丈を詰めてくれたこれまたお下がりの鉛色だ。
全体的にどんよりした配色の服しか彼女の父親は着なかったようで、渡された服はどれも似たような暗い色の服ばかりだった。
「さ、行きましょうか」
エリカに手を引かれるように店から出る。
彼女は肩掛けの小さなポーチから取り出した鍵で入り口を施錠した。
振り返ると、再び春彦の腕を引いて歩き出した。
「市場はすぐそこなの」
「大きな市場なんですか?」
「ううん。街なりの小さな市場よ。でも海が近いから新鮮な魚もあるし、隣街は酪農も盛んだし広大な農地もあるから食材は豊富なの」
「へえ、良いですね」
「ふふ、素敵でしょ?良い所よ、ここは。丁度良い所」
上機嫌なエリカと幾つか言葉を交わしているとあっという間に市場へ着いた。
市場は活気で溢れていた。
通路の両脇にぎっしりと立ち並ぶ商店達。
様々な種類の肉や魚、野菜に果物が所狭しと並んでいる。
客引の店主達が気安くエリカに声を掛ける。
エリカもにこやかに答えて気になる商品を見つけると店主と立ち話したりしている。
真剣な表情で鮮度を見ているエリカについつい苦笑が漏れる。
眉間に寄った皺と、窄めた口を尖らせている表情がいつもより幼く見えたからだ。
「何だい、兄ちゃんにやにやしちゃって。いやらしいんだ」
果物を売る店の中年の女店主がふくよかな腹の前で腕を組み冷やかしてきた。
春彦はばつが悪くなって仏頂面を取り繕うと、それを見ていたエリカと女店主が目を見合わせて吹き出していた。