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二人のリカ  作者: 叶 葉
3/11

3







パン屋の朝は早い。

まだ陽も登らぬ内から動き始める。

窯に薪をくべて火を起こし、窯を温める。

夜の内に涼しい場所でゆっくりと発酵させていた生地を分割し、成形後に二次発酵させている間に店の掃除や表の掃除をする。

そうして休む間も無く発酵させた生地を焼いていく。

粗方終わった頃には店をオープンさせる。

朝一から焼き立てのパンを買いに来る常連客の相手をする。

波が去ったら漸く春彦はエリカが売り物にならないと弾いたパンと賄いに作ってくれたスープを朝食にする。

それが終わるとすぐ様午後に焼くパンの仕込みに取り掛かる。

思い切り昼夜逆転していた春彦にとってはかなり厳しいものだった。

毎日くたくたになるまで肉体労働する生活は、頭脳仕事をしていた頃に比べて、身体はきついが満ち足りた気分になるのだ。

あんなにもずっと頭から離れなかった理香の死という事実に徐々に向き合えるようになっていった。

そうして気付いたら春彦がエリカの元に下宿しだして三カ月が経とうとしていた。

春彦は、漸く思うのだ。


———おかしい、と。










この夢の世界に紛れ込んで三カ月。

全く覚める気配の無い夢に春彦は俄かに違和感を感じていた。

夢の割に時間感覚がはっきりしているし、暑い寒いなどの感覚も感じる。

匂いも同様で、焼き立てのパンの匂いだって感じた。

おまけに先日ペティナイフで指を切ってしまった際に痛みまであった。

勿論仕事に慣れるまでの筋肉痛すらある。

もしかして、夢では無いのでは?

嫌な考えが頭を掠める度に、あり得ないと否定した。

春彦は物書きという職に就いていながら徹底したリアリストだったからだ。

こんな珍妙摩訶不思議な事があって良い訳が無い。

それに、もし夢では無いとしたらこの世界はなんだというのだ。

春彦には到底訳が分からなかった。

自分の生み出した世界に迷い込むなどという荒唐無稽な話があってたまるかといった所である。

何度となく襲ってくる疑念を誤魔化していた。


そして、春彦を悩ませている問題がもう一つ。

エリカの事である。

最初は理香に似ている彼女に興味があった。

姿形に加えて困っている人を放って置けない世話焼きな性分も好ましかった。

加えて、さっぱりした性格に反比例するように、可愛い物が大好きで偶に常連客と訪れる子供を見るエリカの目は興味津々といった感じだ。

だが、身近に子供が居ないからか彼女から積極的に触れ合おうとはしない。

チラ見しながら様子を伺ってこっそり(本人的には)にこにこしている所など悶絶してしまうかと思った。


可愛くて困る。


自分の創り出した登場人物に懸想するなど正気の沙汰とは思えない。

日に日にエリカに惹かれて行く理由を否定する材料を探す日々。

そんなある日の事だった。

その日、客足が消えた夕方。

そろそろ店仕舞いをするかと裏で雑用をしていた春彦にエリカが声を掛けて店舗へと行った。

クローズ作業が随分手間取っているなと自分の仕事にひと段落を付け、手伝いに顔を出そうかと考えた時だった。

店舗スペースから大きな物音が聞こえた。

何かあったかと店舗スペースに出て行くと、エリカが入り口の前で倒れ込んでいた。


「エリカ!」


慌てて春彦が駆け寄り抱き起こす。

エリカは荒い息を吐き、意識がなかった。

エリカの額に手を当てると、熱を持っている事が分かった。

これはいけない。

春彦はエリカを横抱きにし、表へ出ると入り口に掛かっている札を裏返し店仕舞いの意を表す。

そのまま店内に入り、施錠すると二階に上がった。


「エリカ、入りますよっと」


意識の無いエリカに声を掛けてエリカの自室に入った。初めて入った彼女の部屋はシンプルで清潔な空間だった。

感慨に浸る間も無くエリカをベッドに寝かす。

一階に降りて厨房の水瓶から桶に水を汲み、手拭いを用意した。

二階に上がり、階段のすぐ右側にあるエリカの部屋の扉をノックしてから入室した。

疚しい気持ちがある訳では無いが、無言で女性の部屋に入室するのが戸惑われたからだ。

春彦は臆病なのだ。

誰かに後ろ指を指されないようにいつも予防線を張る。

大義名分を作る癖がある。


ベッドの脇に跪いてサイドテーブルに水と手拭いの入った桶を置いた。手拭いを取り出し、絞る。

そういえば、エリカの店で働き始めた頃に最初に習ったのは手拭いの正しい絞り方だったと思い出した。

春彦が絞った手拭いで拭いた窓がべちゃべちゃなのを見兼ねて教えてくれたのだ。

春彦はそれすら出来ない己に大分引いたがエリカは笑って、問題無い問題無い、と言ってくれた。

理香なら明らかに呆れる案件ではあるし、それ以前にそんな細々とした事を春彦にさせてくれない。

今までの生活が如何に理香に支えられていたかを実感すると共に、面倒臭がらずに一から付き合ってくれるエリカに感謝した。

思えばその頃から理香の代わりとしてでは無く、エリカに既に惹かれていたのかもしれない。


額に手拭いを乗せると、エリカの睫毛が震えた。


「気が付きましたか?」


春彦がなるべく安心させるように柔らかく声を掛けると、エリカの綺麗な新緑の瞳が薄っすらと覗いた。


「私……、倒れたのね」


「はい。頭を打ってしまったかもしれないので暫くは休んだ方がいいですよ」


身体を起こそうとするエリカの肩を押してやんわりと静止した。エリカは素直にベッドに戻った。


「どれくらい気を失っていたかしら?」


「さあ?慌てていたので……。でも然程ではありませんよ。もう今日は休んでいてください。後はやっておきますから。出来る範囲でですが」


「常連さんには悪いけど、明日は休みにするわ。だから仕込みは気にしなくていいからクローズ作業だけお願いしていいかしら?」


「分かりました。俺じゃ仕込みはエリカが居なければ無理ですからね。すいません、役立たずで」


春彦は頭を下げて拳を握った。不甲斐ない。体調の悪いエリカにそんな事を気にさせてしまう自分に嫌悪した。

春彦は、結局救えなかった恋人、理香を思い出していた。


「そんな事ないわ、ありがとう」


「余ったパンはどうしましょうか。一応数は数えましたけど」


「そんな事いいわ。余ったパンは適当に家で消費すれば良いから。……春彦が居なかったら大変な事になってたわ。感謝してる」


熱の所為かいつもより潤んだエリカの新緑の瞳にどきりとする。

———ああ、いけない。

これ以上は気付いてはいけない。

彼女とは住む世界も違う。

何より春彦自身が生み出した理香の幻影のような存在であるエリカ。

彼女に傾倒し、夢が覚めて現実に戻された時、二人分の喪失感に耐えられる自信は無かった。

だが、自制しようとすればする程惹かれてしまう。

それは彼女の理香の面影に重ねているからか。

それとも彼女自身に惹かれているからか。

どちらにしろ答えの出ない状態でエリカを振り回す事だけは絶対にしたくなかった。

理香の時のように絶望の渦中に彼女を落としてしまう事になり兼ねない。

春彦は結局誰一人も大事に出来るような人間では無いのだ。


胸がチリチリと痛む。


春彦を見上げて黙るエリカの熱を持った瞳に勘違いしてしまいそうになる。

ああ———。

お願いだから見逃して。

甘やかな痛みに目を瞑る。


春彦は振り切るように立ち上がり、エリカに言った。


「何か食べられそうですか?大した物が出来る自信はありませんが、何か作ってきますよ」


立ち上がった春彦の服をエリカが掴んで引き留める。

春彦はギクリとして硬直した。


「もう少し一緒に居て欲しい。私が眠るまで。父が亡くなってからずっと一人でやってきたから。誰かが近くに居てくれるってとても心強いのね」


春彦はエリカの手を振り切る事は出来なかった。


可愛過ぎて、困る。






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