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♢
———ここは一体何処だ?
確か先程まで春彦の暮らしていたアパートの文机の前で作業をしていた筈だ。
おかしい。
春彦は自分に起きた事が理解出来ずにいた。
ここは。
一体何処だろうか。
春彦は辺りを伺う。
何処かの映画のセットにでも紛れ込んでしまったような場所だ。
今は秋の半ばくらいの季節であるが、太陽が高く爽やかな風が吹く。夏の暑さの残ったジメジメとした湿気が無く、乾いた気候。
赤茶の煉瓦で構成された街並み。
建物の様式が凡そ日本のそれでは無い。
樹々や花々が街の至る所を彩っている。
舗装された道も平らでは無く凸凹としたクリーム色の煉瓦造だ。
春彦の住んでいた古臭い商店街が雑然と立ち並ぶ場所からは程遠い景色だ。
だが、何処かデジャヴのような物を感じた。
行き交う人々も目鼻立ちがしっかりしているし、服装も古臭い。
昔の映画で観たような素朴な形のスカートや生成り色のシャツ。そんな格好の人々が春彦を奇異の目で見て避けて行く。
「根詰めすぎたかな。夢遊病か何かで映画村にでも紛れ込んだか?」
「エイガムラ?何それ」
突然背後から声を掛けられ、飛び上がる程驚いて振り返る。
そこには———。
「り、かさん?」
そこには春彦の失ってしまった理香が居た。
否、だが少し面差しが違う。
理香の透明感のある茶色掛かった黒目は深い新緑の色をしている。
鼻筋も理香よりもはっきりとしていて高い。
背丈も理香より僅かに高い気がする。
「リカサン?それ貴方の名前?私はエリカというのよ。あそこのパン屋を営んでいるの」
女性は首を傾げてから、向かいの通りに見える小さな店を指差した。
似ている。
差異はあるが、とても良く似ていた。
夢でも見ているのだろうか。
夢だとしたら、優しくて残酷だと春彦は思った。
「ねえ、貴方どうしたの?リカサン?」
「俺は理香じゃないよ、春彦というんだ。理香さんという知人にエリカさんが似ていたのでついつい。すいません」
「ああ、私がそのリカサンに似ていたのね。貴方は春彦という名前なの。それにしても、春彦。貴方変わった格好しているわね。見た事も無い生地だわ」
繁々とエリカが格安店で購入した化繊で出来たTシャツを見る。
春彦はエリカの好奇の目に怯む。
「あ、あのー」
「あ、ごめんね。何も取ろうっていう訳じゃないから。それより春彦、ここらじゃみない顔だけど何処から来たの?」
「それ、僕も聞きたかったんです。ここは何処ですか?地元の近くにこんな場所あったかな。僕は六角橋の辺りに住んでるんです。気付いたらここに立っていて」
「ロッカクバシ?聞いた事無いわね」
「あ、横浜の神奈川区にある六角橋です。聞いた事無いとなると県跨いじゃったのかな。理香さんが居なくなってから随分ぼんやりしていたから」
春彦が後ろ頭を掻いて説明する。
エリカは矢張り首を傾げる。
何か決定的に疎通が出来てない事を感じ、春彦の顳顬に汗が伝う。
まさか。
「カナガワ?ヨコハマ?変わった名前ね。ここはサルースの街よ。田舎町だけど良い街でしょう?気に入ってくれたら嬉しいわ」
にこりとエリカが笑いかけてくる。
春彦の頭には馬鹿馬鹿しい妄想染みた考えが浮かんでいた。
始めに街に感じたデジャヴ。
エリカと名乗った理香に似た女性。
サルースという地名。
それは理香の夢を叶える為に春彦が生み出した想像の産物の世界そのものだった。
♢
軒下に掛かった黒い看板。
そこには白字で何やら見慣れない文字が書かれていた。一見絵のような独特な書体だ。
レトロな雰囲気漂う木と煉瓦造りの店構え。
築年数など詳しくは分からないが、雨風に晒され何度も丁寧に補修された跡が目地に比較的新しく足されたであろう白いモルタルのような跡から伺えた。
窓枠などに使われている木材は自然と飴色になっている。
木製の味があるドアを潜ると、店内には香ばしいパンの香りが立ち込めていた。
店内のカウンター上に置かれた籠。
種類ごとに分けられているのか五つ程の籠がある。中には美味しそうに焼き上げられたパンが置かれていた。
理香が作ってくれたパンに似た素朴なハード系のパンが多い印象だった。
それも仕方のない事だ。
春彦は、この一連の事態を夢として受け入れる事に決めたのだ。
そうでなければ整合性の取れない事柄が多過ぎる。
「さ、上がって頂戴」
エリカに店内の奥にある厨房だった。
部屋の中央にある大きな作業テーブル。大理石のような石の素材で出来たテーブルだ。
エリカはテーブル脇に小さな背凭れのない木製の椅子を一つ出すと、春彦に着席を促した。
春彦は遠慮がちに座る。
「ミルクでいい?火を起こすの面倒で」
にっこり笑うエリカに春彦は頷いた。
「その、ご親切にありがとう」
「良いのよ。困った時はお互い様でしょう?それにしても記憶喪失ねえ。本当にそんな事あるのね。難儀ねえ」
「はあ」
春彦は色々考えた末にエリカには記憶喪失であると説明する事にした。とやかく理由を付けるよりも不自然にならないと考えたからだ。
「それで、そのリカサンの名前と顔以外は分からないのね?」
ミルクを木製のカップに入れてエリカは差し出してくれた。春彦は黙礼してカップを受け取った。なるべく落ち込んでいるように見せかけなければいけないと思ったからだ。
「家も分からないのよね?」
「はあ、何も……」
エリカは春彦の返答を受け、力強く頷いた。
春彦はその仕草の意図を図りかねて難しい顔をして、ひとまず固定しておいた。神妙に見えるとも取れるが、状況が状況だけに些か間抜けにも見える絶妙な表情だった。
春彦はいつもそうなのだが、真剣な表情を装えば装う程、処世術として学んだ口角を持ち上げる癖が災いしてふざけていると取られる事がある。
まあ、結構な割合で言われている訳だからその指摘に関しても慣れっこであるのだが。
その妙な癖自体も直す努力をしてみた時期もあった。あったにはあったのだが、克服する前に諦めた。
余計に気味の悪い顔になってしまい、理香に恐いと言われたからだ。
普段からアパートの部屋に閉じこもって己の頭の中と戦っている春彦は、普通の人間より人と関わる機会が極端に少ない。
物書きと一口に言っても様々なタイプがあるとは思うが、春彦の場合は作品の為に取材に行く以外はほぼ自宅に居る。
春彦の世界は己と、理香と、仕事。この三つで完結してしまうのだ。
己の事ながら病的なまでの内気っぷりに引いてしまうくらいだ。
「ここに住みなさい。当面の間は乗りかかった舟よ。私の店の雑用としてここに居なさいよ」
「えっ?!流石に女性の家に厄介になる訳には……」
「でも当てはないんでしょう?父が亡くなってから一人で切り盛りしていたから丁度私も男手が欲しいと思っていたのよ。それに貴方なんだか他人の気がしないのよ。放って置けないわ」
それもその筈である。
ここは。エリカは春彦が生み出した夢なのだから。
こんな都合の良い夢を見るなど、物語でもあり得ない設定だ、と春彦は思った。
「ねっ?決まり!二階が自宅なんだけど、父が三年前に亡くなってからは私一人で使っているの。父の部屋は今物置になっているんだけど、そこを使うといいわ。少し片付けしなければいけないから、もう夕方だし店は閉めて二人でやってしまいましょう」
エリカは言うや否や店舗へと出て行った。