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二人のリカ  作者: 叶 葉
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久我山 春彦。

年齢二十八歳、売れない小説家。

職業的には全く安定とは程遠い生活を送っていたが、つい一月程前までの彼はそれでも幸せであった。


春彦は学生時代の家庭教師であった小山 理香という恋人がいた。

春彦が大学時代に応募した小さな賞を受賞し、小説家などという大層な肩書きを手に入れたのも理香の後押しがあっての事だった。

春彦は三つ年上の理香を心底愛していたし、理香にしても面と向かって聞いた事は無かったが同じ気持ちでは無かったかと思っている。


そんな二人の平凡で優しい時間は一月前に終わりを迎えた。

それも、最悪の形で———。


その日、春彦は無い知恵を絞って短編の構想を練っていた。

八畳一間に小さなダイニングキッチン、風呂便所付き。

エアコンは節約の為に切っており、窓を開け放ち扇風機一台を強風で稼働していた。

外はうだる様な暑さに、忙しなく鳴く蝉の声。

日本の湿度がいつもジリ貧な春彦を苦しめた。

タンクトップ一枚に執筆の時だけかける黒縁眼鏡。

執筆などと格好を付けた言い方をしたが、専ら頬杖を突いて机に石のように噛り付いているだけなのだから、最早寝ているのと変わらない状態であった。


「春彦ーっ、進んでるーっ?」


安っぽい木製のドアを合鍵で開けて恋人の理香がやって来た。

春彦は情け無く眉尻を八の字に下げて振り返った。


「理香さん、俺は駄目だ」


いつもの悲観的な春彦の態度に理香は慣れたものだった。

両手に下げた買い物袋をダイニングにある二人掛けのテーブルに置くと、手際よく一人暮らし用の小さな冷蔵庫に食材を仕舞っていく。


「またスランプ?」


「またとか言わないでよ」


「だって万年スランプだから」


「確かにするっと書き上げた事は無いけどさあ」


「でも私、春彦の書く小説好きよ」


理香がニッと歯茎を剝きだす程朗らかに笑った。

春彦はその時に覗く理香の八重歯が好きだった。彼女の八重歯は春彦にとって幸せの象徴だ。その笑顔を見る度にまだまだ自分はやれると思うから不思議だ。


「理香さん、また頑張るわ。次こそはヒットする物を書いて理香さんと結婚するから」


春彦が握りこぶしを作って宣言すると、理香は幸せの八重歯を見せて笑った。そうしていくつかの作り置きの惣菜を作ってくれた。

理香は料理が上手かった。素朴な家庭料理が得意だったが、菓子やパンなど多岐に渡って得意だった。特に理香の作るパンは絶品だった。

彼女が料理上手になったのは春彦が大学に入学し、一人暮らしを始めた頃からだ。

春彦は大学で勉強する以外の総てを小説に費やしていたような男だった為、一人暮らしを始めた当初は散々たる食生活だった。三食カップラーメンはまだマシな方で、時には寝食を割いてまで物書きの時間に充てていた。

理香は随分と心配し、その内空いている時間に料理教室に通いだした。以外と性に合っていたのか、その内調理師専門学校の夜間に通い出し、就職は春彦が住む街の洒落たパン屋で働き出した。

朝早くパン屋で働き、夕方には春彦の住むアパートに通ってくれている。

春彦の細胞一つ一つは最早理香無しでは成り行かないレベルまできているのではないかと冗談では無く春彦は考えていた。


「きんぴらと、茄子の煮浸し、ほうれん草の胡麻和え、蓮根と牛肉のしぐれ煮、鶏の炒り煮でいいかな?今週は」


「理香さん、いつもありがとう」


理香が操る包丁とまな板が奏でる小気味いい調を背中に受けながら、春彦は文机に再び向かった。

次こそは、次こそは。

春彦は焦りの余りに、集中していた。

そんな春彦に気を遣い、調理を終えた理香は声を掛けずに静かに春彦のアパートの部屋を出て行った。

まさかそれが最後の別れになるなどとは春彦も理香でさえも予想だにしなかったのだ。

机に向かって没頭していると、不意に机に置いてあるデジタル時計が目に付いた。見ると時刻はとうに深夜一時を指し示していた。

振り返ると理香の姿は無く、また気を遣わせてしまったと後ろ頭をぽりぽりと掻いた。

お礼の連絡くらいするかと机の脇で充電器のケーブルに挿さりっぱなしのスマートフォンを手に取ると、理香からの着信がいくつかきていた。

集中して作業をしていた為、バイブレーションに気付かなかったのだ。

申し訳無い事をしたと掛け直すと、長いコール音。

当たり前だ。朝早くに仕事に向かう理香がこんな夜更けに起きている筈が無いと思い直し、終話の表示をタップした。

さて、腹が減ったと冷蔵庫に入れられていた理香の作り置きが入ったタッパーに手を伸ばした所でスマートフォンが着信を示す規則的なバイブレーションを机の上で鳴らしていた。

こんな時間に掛け直してくれたのかとスマートフォンの画面を見ると、矢張り理香からだった。

予感がしていた。

スマートフォンに表示された《小山 理香》の文字を見ると底知れない不安感が春彦を襲った。

虫の知らせとでも言うべきだろうか。

春彦は不安を散らすように通話ボタンをタップした。


「もしもし、理香さん?」


「……人殺し」


「え?理香さん?どうしたの?」


「……理香はさっき亡くなりました」


「はっ?」


「貴方よね、理香のお付き合いしてる方」


「えっ?誰です?理香さんはどうしたんですか?」


「さっき息を引き取りました。私の、母親の目の前で!」


電話に出た女性は理香の母親だと名乗った。怒りに震える声はとても演技とは思えなかった。


「……どういう事です?」


「貴方のアパートを出ると連絡した後、一時間経っても帰って来なかったの。そしたら、警察から電話が……。轢き逃げですって」


「理香さんと話せますか?」


「だから死んだって言ったでしょう?!」


「でも、だってさっきまで家に居て、普通に……。普通に話していて、それで、その」


「あんな暗い夜道をどうして一人で帰らせたの?!貴方理香の事なんだと思ってるのよ!貴方が一人で帰さなかったら、理香は……理香は」


電話越しから嗚咽が聞こえた。

野生の動物の遠吠えのような物悲しい叫びだった。


春彦の願いは届かなかった。


理香は春彦のアパートを出て自宅に向かう途中で轢き逃げ事故で亡くなった。

帰宅が遅くなる事を嫌ったのだろうか。

薄暗く人通りの少ない近道を選んだ為に発見が遅れたそうだ。

春彦のスマートフォンに残っていた着信は意識が朦朧とした彼女が最後の力を振り絞って掛けた命の電話だった。

そう、彼女の母親から聞いた。

理香の母親からは厳しく罵倒された。

何故理香が助けを求めた電話に出なかったのか。

暗い夜道を一人で帰らせたのか。

何故最後を見届けてやらなかったのか。

正論の連続に、春彦は言葉も出なかった。

理香の葬儀には当然行く事すら拒絶された。

あの日アパートで会った理香が文字通り最後の逢瀬となったのだ。

理香を絶望のまま死なせてしまった。

無力な春彦は只管まんじりともせず、あの日と同じように文机の前にただ座す日が続いた。

心が理香の死を受け入れられずに、あの日のままで時間すら止まってしまったようだった。


夕陽の差す狭いアパート。

蝉の鳴き声が遠く聞こえた。












「春彦の夢は売れっ子小説家ね?」




「えっ?私の夢?えーっ、なんだろう。やっぱり自分の城を築く事かしら」




「えっ?違う違う。家なんか建てないよ。春彦の本が売れたら建ててもらうから」



「無茶言うなって?無茶じゃないよ!ホント、春彦の本は面白いよ!」



「じゃあ何かって?」



「私の夢はね———」




———春彦。












暫くぶりに短い睡眠を貪っていた春彦はかつての恋人、りの夢を見ていた。

あの時、理香は確か自分の店を持ちたいと言っていたんだったと春彦は文机の向こう側にある窓を見ながら考えた。

彼女の夢。

それは小さなパン屋を営む事だった。


現実では成し得なかった理香の夢———。


春彦が再び筆を取ったのは理香の死から二カ月余り過ぎた頃だった。

自宅のポストはパンパンに郵便物が押し込められている。

スマートフォンはもうあの日のまま充電もせずに放置されていた。

何かに取り憑かれたように机に齧り付き、只管に書き続けた。理香と出会った頃に懐古するように。

春彦が理香という一人の人間を生み出していくような。

不毛な作業とも言える生活が続いた。




そうして春彦が気付いたら、見知らぬ街に立っていた———。













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