砂漠のバラ
タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ…
妙に耳につく音だった。
――― 何の音? ――――
耳を澄ますと蛇口が閉まりきっていないのか、水の滴る音だと気がついた。
上半身をゆっくり起こすと何も着ていないことを思い出し、ぼんやりした頭であたりを見回す。
――― そうだ… ―――
彼が来ていたんだ…いつの間に帰ったんだろう…。
置いてきぼりを食った様な気分で体を起こすと、薄闇の中に浮かび上がった自分の姿が鏡に映る。
一瞬ドキリとしながら目を凝らしたものの、すぐに毛布に包まりながらベッドに腰掛けた。
水滴の音がはっきりと聞こえる。
――― 彼がいるのかしら… ―――
思わずキッチンへ向かうが、やはり誰もいなかった。
いつもなら帰る前に一言断っていくのに…目を覚ました時に彼が居ないことや、衣類もないところを見ると眠っている間に帰った様だ。
――― この頃、サッサと帰るのね… ―――
彼の振る舞いにやや不満を覚えながら、ドアのカギが閉まっていない事に思い至ると慌てて玄関へ向かった。
――― 眠っている間に黙って帰るなんて不用心じゃない? ―――
そう思いつつドアノブを見るとロックがかかっている。
――― どうして? ―――
不審に思い彼にメールを送ると
「新聞受けに入れてあるよ」
すぐに返事が返ってきた。
電話を片手に言われたとおりドアの内側に備え付けられた新聞受けを覗き込むと、キーホルダーの付いた見慣れたカギが放り込まれていた。
冷めた気分でつまみ上げると、目の前にかざし小さな溜息をつく。
――― もうっ…黙って帰らなくてもいいじゃない… ―――
寂しさを覚えながら頬を膨らませ、物憂い仕草で部屋へ戻った。
馴れ合い過ぎたのだろうか…二人の付き合いを振り返ってみるが、面倒になってすぐにやめた。
一時間以上、二時間未満の逢瀬も珍しくない近頃の関係を『一時間半の恋』と名付けていたが、やや自虐的な響きに胸がチクリと痛む。
現在の付き合い方に満足しているわけではさそうだ、と思いつつ、少し肌寒い部屋で毛布に包まりながらソファーに腰を下ろすと、CDが山積みになっている棚が視界に入った。
買っただけで聴かないCD、場所を選ばずに愛用し過ぎてケースが見あたらなくなってしまったCD…乱暴に山積みされたその中には彼が好きな音楽も多い。
その片隅に置かれた砂漠の薔薇は彼からのプレゼント。
珍しい海外のお土産とあって貰った時は嬉しかったが、今となると捨てるに捨てられない物の一つだった。
――― まるで、私たちみたい ―――
薄らと埃を被った鉱物の結晶は、ダスキンをかけてくれと訴えているように見えた。
そんな自分の好みや彼の好みがごちゃ混ぜの部屋に暮らしながらも、合鍵を渡すのだけは拒み続けてきた。
いくら彼でも主の留守中に勝手に上がられたくない…そう思っているし、彼はそれを知っている。
長い付き合いだからだろうか…ブランクがあっても逢いにきてくれる男だった。
が、長い付き合いということは、それだけ互いの心境にも暮らしぶりにも変化があるわけで、彼が昔のように自分を愛してくれているのかは分からない。
惰性なのかもしれない…そう思いながらも、はっきりと別れる気にはなれなかった。
一定のリズムを刻む様にシンクに落ちる水の音は単調で、まるで今の自分達の様だと思う。
淡々と繰り返される日常に織り込まれた様な関係だった。
今では互いに職場も変わり、共通の友人知人はおろか、二人の関係やそれぞれの存在を知る同僚も上司も後輩もいない。
全く異なる環境に身を置くと互いの存在を隠すことは容易だ。
新しい出会いがあり、新しい仲間が増えた今、この付き合いを知るのは繋がりを保ち続ける彼と自分だけ。
多くを望みすぎたせいなのか、はたまた望まな過ぎたせいなのか…失った多くのものを悔やみながらも、二人は細く長く続いていた。
次の約束はしなくとも、いつでも逢えるという安心感があるからだろうか…。
が、それがいつまで続くのかは分からなかった。
深く考えても仕方がない…毛布に足を取られながらモタモタした足取りでキッチンへ向かうと蛇口を捻った。
キュッと音を立てた蛇口の先から、だらしなく落ちていた水滴と耳につく音がピタリと止む。
長距離マラソンのような関係は、蛇口を捻る様に止めることはできないのだから…。
こんな愛もあるんだといい聞かせながら、再びベッドに潜り込むと眠りに落ちた。
09.04.19
背景色をサンドベージュから変更しました。
読み返した時にしっくりこなかったためです。ちなみにこの色は【秘色色・ひそくいろ】というそうです。